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第三十五話 領の骨を整える――道・水・蔵

 朝の鐘がひとつ。中庭の長机に地図を広げ、私は指で三か所を軽く叩いた。


「今日の柱は三つ。道、水、蔵。順番を先に決めるわ」


 輪の中に視線が集まる。アーサー、アデリナ、ガレス、アイザック、ソフィア、バルド。写しの帳を抱えたミナとテオ、そしてギルドの顔ぶれ。空気は張っているが、刺さってはいない。


「道は俺が出る」アーサーが短く言う。「北道の穴と橋。詰めて、締めて、列を作る。ガレス、しるべを十、鈴を二つ」


「承知。子どもに笛も持たせます」


「水は堰の張り出しを作り直す」私はアデリナへ頷いた。「朝夕は畑、昼は鍛冶と洗い場。板と札で**“いつ誰が使うか”**を見えるように」


「言葉は少なく、字は大きく。板は三か所に立てるわ」


「蔵はバルドとアイザック。穀倉の扉を新しい蝶番に。隙間を詰めて、湿りを逃がす。腐り 0.14 → 0.10を狙う」


「やってやりましょうとも」バルドが鼻を鳴らす。「米のご機嫌は、扉ひとつで変わりますからな」


 輪に小さな笑いが広がり、固さがほどけた。


「ギルドは午前、道普請に手貸し。午後は一隊だけ浅層へ。兵の仕事と混ぜない。腕に紐で印、列も道も交ぜない」


 ミナが掲示板に太字で書き、テオが時間割を刷り上げる。列の詰まり 0.99 → 1.02。出られる。



 北へ三町。昨夜の雨で道はところどころ口を開け、荷車の車輪が沈んでいた。地面を踏むたび、水がじわりと浮いてくる。


「砂利、ここ。土嚢は列に合わせて――そう、薄く重ねて踏んで」


 私は穴の縁を指でなぞり、厚みのムラを見せる。ギルド“虹色の方舟”の女戦士ミリエルが肩で砂袋を担ぎ、笑いながら若い衆に声を飛ばした。


「踏み固めるのは踊りと同じ。足並み揃えて、ほら、いち・に」


 ソフィアが皮袋を配る。「塩を舐めて。足が攣る前に飲むの」


 穴がひとつ埋まるたび、列が前に進む。ガレスの笛が短く鳴り、子どもが白い旗で合図を返す。私は外周の縄を半間ずらし、視線で指示する。通行の流れ 1.00 → 1.03。鈴はまだ鳴らない。


 橋にかかる。板の継ぎ目に灰を細く落とし、台車をそっと通す。粉が跳ねなければ、板は噛み合っている証拠だ。灰は線のまま。アーサーが頷き、次の継ぎ目には新しい返し釘を一本だけ打つ。松脂を指で温め、麻と一緒に薄く擦り込む。


「もう一度通す」


 鈴は鳴らない。足場危険 0.05 → 0.04。私は胸の奥で数字が落ち着くのを確かめるだけにして、触れない。


 途中、荷車の若者が段差で腕をひねった。顔に焦りが走り、列が止まりかける。私は黄札の影へ引き込み、冷たい布で包む。


「深呼吸。三つ数えて。――帰ったら温めて寝ること。次は段差に声」


 若者は歯を食いしばって頷いた。列は切れずに進む。



 堰の板を上げ下げするたび、木と水のこすれる音が変わる。アデリナが張り出し板を立て、テオが大きく書いた。


〈堰の使い方〉

朝六つ〜八つ:畑の水

昼つ:鍛冶/洗い場

夕六つ〜:畑の水


 ミナは写しを二枚作って市場と城門へ走る。私は堰の脇に立ち、小さな鈴を麻紐で吊るした。水の勢いが変わると、鈴が細く震える。音で癖が読める。


 洗い場の女衆と鍛冶見習いが、桶を挟んで火花を散らしかけた。


「今は細いってば!」


「火が冷めたら困る!」


「昼つの刻に強くするから、そこへ合わせて」私は板を指で叩いた。「刻を守る。変えるときは、ここに名前と理由を書く。誰が見ても分かるように」


 女衆は肩の力を抜き、見習いは頭をかいた。アデリナが板の端に「洗い桶 三つまで」と追記する。摩擦 0.38 → 0.29。喉に刺さっていた棘が取れる音がした。


 堰の小さな漏れを見つけ、板の腹に薄く麻を差し込む。鈴の震えが止まる。私は数だけ確認し、指は入れない。明日、同じ音で回れば、それが習慣になる。



 穀倉の扉は古く、重く、湿りの匂いを抱いていた。バルドは戸口で鼻を鳴らし、目を丸くする。


「うむ、酷くはないが、良くもない。扉が息をしておらん」


「蝶番を替えて、隙間に麻。返し釘で押さえる」アイザックが道具箱を開く。木は古いが、まだしっかりしている。枠を鉋で薄くさらい、歪みを取る。


 私は床に灰で細い線を引いた。「掃き出しはこの線まで。線があると、足は戻れる」


「ほう。線、大事ですな」バルドは感心した顔で頷いた。


 新しい蝶番が木になじむ音は低く柔らかい。返し釘の頭が木肌へ沈む。隙間に詰めた麻が呼吸して、蔵の空気が軽くなった。バルドが嬉しそうに周り、鼻で吸って吐いてを繰り返す。


「良い。米の機嫌が良い。扉は食いしばらず、ちゃんと閉まる」


 腐り 0.14 → 0.10。私は数字を確かめるだけにして、離した。鍵の貸し借りは帳に残す。ミナが扉の内側に薄い板を打ち付け、「出庫/入庫」を二列に分ける。誰が見ても迷わない。



 市場の屋根下。屋台の位置に白線を引き直し、煙の流れを見ながらソフィアの鍋を風下側へ寄せる。人の列と匂いがぶつからないように。


「夜市は二日に一度。売るほうも買うほうも、息切れしない刻で続ける」


「拍子が分かれば、誰でも踊れるのよ」アデリナが笑う。旅の商人が掲示板を覗き込み、顎を撫でた。


「王都より見やすい」


「王都は王都。ここはここ」アデリナが肩をすくめる。「書いてある通りにやる。それで十分」


 税の張り紙も新しくした。納める範囲と例外を太字で。納めの迷い 0.42 → 0.33。私は数だけ見て通り過ぎる。今日触らなくていい数は、触らない。



 学校では、木の机に子どもが並び、声を合わせて字を読む。板の前でテオが数字の書き方をゆっくりなぞり、ミナが帳の読み取りを教える。


「渡したと受けたの線。借りと返しの印。これが読めると、揉めごとは減るの」


 テオが小さく手を上げる。「俺、最初は“返し”が怖かった。でも、線にすると分かった」


「分かったことは、次の誰かに渡す。あなたの線が、誰かの盾になる」


 私は黒板に小さく「渡す→返す→残す」とだけ書いた。声がそろい、目が前を向く。こういう場に数字はいらない。



 日が傾く頃、皆が中庭に戻ってきた。アーサーは土で薄く汚れたまま、鎧紐を内側に噛ませている。ガレスが報告を短くまとめ、アデリナは板の写しを重ね、アイザックは手の油を布で拭う。ソフィアは湯気の立つ鍋を運び、バルドは鍵を首で鳴らす。


「北道、通れる」アーサー。「橋も鳴かない。鈴は黙った」


「堰は掲示が効き始めた」アデリナ。「洗い場と鍛冶、昼に回す」


「蔵はにおいが変わりましたぞ」バルドが得意顔。「米と麦が機嫌いい」


「夜市の間隔は二日に一度。板は三枚に増やした」


「学校、帳の読みを始めた。大人の夜学、来たいって」ミナが顔を輝かせる。


「いいわ。夜学は明日から。蝋燭は節約するけど、続ける」


 長机の上に、今日の“良かった”と“引っかかった”を並べていく。


 ――道:土嚢が足りない。明日、麻袋を縫う手を増やす。

 ――水:洗い桶の数で揉める。札に数を書く癖を広げる。

 ――蔵:出入りの控え板を扉内側に。書いてから出る。

 ――市場:夜市の間隔を徹底。板をもう一枚、井戸の横へ。

 ――学校:帳の読みを続け、借り物の返し日を紙で渡す。

 ――ギルド:午後は浅層へ一隊。印の統一と“戻り”の練習。


 私は板の端に、明日の三行を太字で残した。数字は大げさにしないが、胸の中では満足 0.72。明日の応募は1.12倍だろう。触れない。人の手で掴む数だ。



 灯を落とす前、黒板の隅に小さな点を打った。堰の板を掛けた刻、税の張り紙を貼った刻、鐘の試し打ちの直前。耳の奥で金属が細く擦れて、時刻が刹那に欠ける――19:2□ → 19:24。欠け帳にだけ、点を置く。誰にも言わない。


 背後に気配。アーサーが手ぬぐいを差し出した。


「手」


 差し出すと、土を拭ってくれる。言葉は少ないが、目は静かだ。


「今日は前に出た。それから正しく戻った。――そういう日を増やす」


「増やせるわ。道も、水も、蔵も。人が迷わない目印が立ったもの」


「君の見せ方は、強い」


「あなたの締め方は、速い」


 ふたりで少し笑う。遠くで鈴が風に触れ、鳴らずに止んだ。


 黒板の下に二行を書いて終わる。


「北道補修・堰掲示・穀倉扉、運用開始」

「明日:土嚢増産・札に数を・夜学“帳の読み”」


 数字は声に出さない。けれど、埋めた穴も、静かな堰も、軽くなった蔵の匂いも、ここに残っている。手の跡と一緒に。

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