第三十一話 国境領の再始動——共同の初日
朝いちばん、城門脇の掲示台に新しい紙を貼った。王都で公示された「名誉回復」の写し、徴税の範囲を明記した掲示、〈探索ギルド・王都窓口〉との連携案内。人垣ができ、ざわめきが広がる。視界の隅で、広場の空気が落ち着いていくのが見えた――好感0.84→0.80。熱は自然に下がる。それでいい。熱より、続くことが力になる。
「読み上げます」
アデリナが一歩進み、短く区切って要点を伝える。買い上げ規約、支払いの時刻、写しの受け取り場所。質問が飛ぶたび、彼女は具体で返す。
「夜の買い取りは?」
「子どもが眠るまではやりません。その代わり、朝の枠を増やします」
端で頷く老人。肩の力が抜けた顔に、満足0.72→0.75が乗る。私は数字に指を伸ばさない。運用が定着すれば、自然に伸びる。
衛兵隊長のガレスが、掲示台の下で鐘を示した。
「合図は三段だ。ひとつで中央を空ける。ふたつで弱い者を先に。みっつで列ごと退く。笛は短く二度、旗は赤を上、黄は影へ」
子どもたちが笛を持ち直し、試し吹きがそこここで鳴る。アーサーが一人の少年の手を取って、指穴の塞ぎ方を直した。
「小さい手なら、ここを詰めてごらん」
「……音が出た!」
少年の目が光る。こういう小さな工夫が、いざという時に命を守る。
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執務棟では、便を二系統に分けた。王都直行の早馬と、城下経由で荷と一緒に運ぶ便。机の上に区分箱を並べ、写しと本紙を分けて入れる。ミナが新しい見出し札を張り、テオが「日次まとめ→週次報」の枠を作る。
「ここ、週次に載せる要約の位置を空けておいて」
「了解。……書式、もう覚えました」
テオの筆の運びが、少し速くなった。緊張0.42→0.38。ミナは角を揃える癖のまま、目が強くなっている。
宛名の束が揃ったところで、ダリウスが扉を押した。狼の肩章はつけず、動きやすい軽装。癖のない声が部屋に落ちる。
「午前は地上の訓練。軍は城門から市場までの外周、ギルドは入口と記録。役割を交差させない。――フランチェスカ、鐘の順はこのままでいいか?」
「いいわ。外周の縄は半間だけ後ろへ。人が固まる角が一つ解ける」
ダリウスは頷き、手短に段取りを伝えた。命令は短く、目的は明確。現場向けの言葉だ。
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城門から市場へ伸びる通りで、訓練を一度やってみせる。ガレスの号令に合わせ、衛兵は人の流れを分け、ギルドは入口の列を整える。ヤレクが外周先導に立ち、細い道を走って戻ってくる。
「この角、午後は日陰がのびて詰まります」
「鎧を置いた見せ方を替える。人の目が道を塞いでる」
ブルーノがすぐに返し、赤札の位置をずらす。列がふっとほぐれて、人の動きが楽になる。行列の流れ k_flow 1.00→1.02。数字は整っていくが、私は触らない。現場が自分で回る方が、次が早い。
アーサーは脇で黙って見ていたが、ひと呼吸置いて口を開いた。
「“退く”訓練はもう体に入った。今日は“押し出す”訓練をひとつ。中央を空ける合図のあと、三歩分、人を押し出す。周りは“押される方”の足を出す手助けをする。混乱にならないよう、声は短く、視線は落とせ」
短い説明のあと、実演。押す側は肘を張らない。押される側は足を前に出す。踏まない、踏ませない――言い切りで場が動く。ガレスが「よし」と短く吐き、ダリウスが頷いた。攻めの型が、ひとつ入った。
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工房では、アイザックが道具箱を積んで待っていた。返しのついた鋲、口径を揃えた鎖環、油、白墨、麻紐。蓋の内側に、簡単な図と手順が焼き付けてある。
「箱ごと預ける。返す時は“欠け”も返せ」
「欠けは記録。記録は補充。――ありがとう」
孤児たちが目を丸くして箱を覗き込み、指で返し鋲の頭を撫でる。ソフィアは「昼は軽いものにするよ」と笑って、塩の効いた粥を木椀に注いだ。
「動く日こそ、少しでいいから入れな。空っぽだと足がもつれる」
体の声は正しい。私は一口だけ流し込み、喉を通る温かさに息が整うのを感じた。
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午後、王都からの便が着いた。封蝋の押し跡は新しく、封の重みは昨日よりわずかに増している。秤に乗せると、針がほんの少しだけ右へ寄った。薄紙が増えている。
「商館の帳簿の写し、追加分だそうです」
使いの青年が額の汗を拭う。受け取り台で封を割り、紙を広げる。搬出記録、港の湿り記録、搬入控え――そして、日付の列にひとつだけ飛びがある。端の紙目が違い、綴じ糸の締まりが不自然。差し替えの痕。
「クラウスを呼んで。第三者の目で筋を追う」
クラウスは到着すると黙って読み、綴じの並びに指先を滑らせた。
「この列、本文では四月の終わり。裏打ちの控えは“五の一週”。紙目が違う。――写しを先に回して正解です。差し替えは“写しの連鎖”で炙り出せる」
「次の立ち会い照合、王都から誰が来る?」
「軍務局の書記官がひとり。日時は……明後日、午前」
私はうなずき、写しを二通作って便の箱に挟んだ。ひとつは王都直行、もうひとつは城下経由。遅延リスク 0.30→0.18。ここは触っていい。遅れは、人を待たせる。
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宵前、レオンからの手紙が届いた。宰相の封ではない、王太子個人の封。簡素な紙に、短い文。
――門前の掲示、始めた。徴税の上乗せは止めた。広場での騒ぎは減った。俺はしばらく口を慎む。実務で借りを返す。いずれ、現場で。
言葉は少ないが、走り書きではない。決意0.56。私はやはり触れない。彼の歩幅は、彼のものだ。
アーサーが肩越しに読み、「悪くない」とだけ言った。
「王都は王都の戦。ここはここで進める」
「二層の準備、明日の朝に小隊で確認を。右折の先、空気が重いって報告が三つ」
「ブルーノに隊を任せる。行き砂と帰り砂、明日は長めで」
役割の線が、音もなく引かれていく。軍は地上、ギルドは地下。交わるのは連絡だけ。ダリウスはその線を声にして徹底した。
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日が落ちきる前、門楼の上に上がった。石のアーチの下を人が行き来し、広場は今日の分だけ静かに痩せていく。石の肌に手を置いた瞬間、耳の奥で金属がかすかに擦れ、時刻が刹那に欠けた。19:2□→19:24。朝にも、秤の上で同じ欠けがあった。式ノイズ。私は顔に出さず、胸の中の帳に点をひとつだけ増やす。言葉にはしない。測るだけでいい。
中庭では、ハロルドが灯の芯を短く整えながら、さりげなく声をかけてきた。
「本日の便、二系統とも出立済み。帰りの馬も休ませてございますよ、奥様」
「ありがとう。明日は王都の照合があるわ。席と紙と、静かな時間を確保して」
「心得ておりますとも」
老執事の微笑みは、いつも少し茶目っ気がある。こういう余白が、場の空気を救う。
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夜の見直しは、アーサーとふたりで机に向かった。紙を三束に分け、明日の段取りを一つずつ確認する。
「午前は窓口の整理。説明は短く、掲示は大きく」
「午後は照合。クラウス立ち会い、王都書記官来訪。――ダリウスは外周で衛兵の訓練を続ける」
「夜に小隊の準備。道具箱はアイザックの規格品に統一。行き砂は長めに、赤縄は四つ目まで」
言葉にするほど、体が覚える。私は最後に黒板に三行だけ書いた。
「広場運用、地上と地下で分担。鐘と笛の“押し出し”を追加」
「便の二系統、運用開始。差し替えの筋を王都と照合へ」
「二層準備、明朝に小隊で確認」
灯を落とす前、窓の外に目をやる。広場の端で、笛の練習をする子がまだ一人。音は弱いが、合図の形になっている。数字に頼らなくても分かる。“始まっている”音だ。
数字は声に出さない。けれど今日、並べた紙と、動き始めた役割と、人の息づかいは、確かにここに残った。明日は照合を進める。明後日は二層へ。退くべき時は退き、進める時は進む。どちらも、今は私たちの手にある。
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