幕間 世界の神――帳の端は誰のもの
名乗りは要らぬでしょう。上から見守る者、帳をつける者、あるいはただの物好き。あなた方が呼びやすい名で呼んでかまいません。私は今日も、世界の帳を一頁めくり、人々の歩みを指でなぞります。紙は乾き、砂時計は落ち、鐘は時を分ける――それらが揃っている日は、だいたい良い日です。
さて、フランチェスカ。君は面白い。数字を“飾り”に使わず、“手がかり”として使う。札と砂と秤で現場を整え、必要な時だけほんの少しだけ数を押す。君が息を整えると、周りの息まで整う。これは天井から見ていても分かります。よく出来た指揮者が、最初の一拍を静かに示すようなものです。
世界には、ときおり“外から来た客”が紛れます。君がまだ触れていない言い方をするなら――転生者。彼らは速い。答えを先に知っていたり、こちらの常識を軽く跳び超えたりする。速さが善い方向へ出れば「開く者」になり、悪い方向へ出れば「乱す者」になる。私は基本的に、速さを止めない。代わりに、盤面の端に余白を残す。余白は、気づく者のものだ。
君は、その余白に気づく側だ。井戸の水面、鍛冶場の火、訓練場の角、橋の継ぎ目。日暮れと夜明けに揺らぐ数字を「怖い」とは言わず、「印をつけよう」と言った。良い選び方だ。世界が息をする瞬間、数は薄くなる。薄くなった時に慌てて掴み直す者は、だいたい落とす。君は落とさない。薄いまま、置いておく。置いて、翌朝に取りに戻る。これもまた、天井から見ていて気持ちの良い所作です。
王都の広場では、いろいろな“熱”が上がっては下がりました。王太子レオンは、若さゆえの速さと遅さを両方持っている。君に惹かれ、君を怖れ、最後に頭を下げた。あれは良い頭の下げ方でした。あの場にいた誰より、彼自身の中で響いたでしょう。彼の物語はまだ途中です。彼は、君の隣には立たないが、君の前にも立たない。ならば、君の進む道のほうへ、少し角度を変えて歩くでしょう。
セヴラン――白梟は測るのが好きです。測りながら、自分が測られていることも分かっている。測る者と現場を動かす者が正面から言葉を交わす光景は、帳の上にまっすぐな線を一本足す。宰相オルドリックは余計な修飾を嫌う。紙の置き方に無駄がない。紙を場の敵にしない人間は、上にいて良い人間です。私は彼の沈黙を好ましく見ています。
アーサーは、“守るために前へ出る者”です。橋の鈴に耳を澄ませ、灰を撒き、楔を打ち、必要な分だけ木に黙ってもらう。彼の短い言葉はよく効く。君と彼の間にある沈黙は、無関心の沈黙ではなく、手を動かす余白のための沈黙だと、上から見ていて分かります。余白のある関係は強い。
ギルドの若い者たちも良いですね。ミナは震えを紙に置いていく術を覚え、テオは角を揃えることで呼吸を掴む。ソフィアは鍋で士気を上げ、アイザックは返し鋲で約束を噛ませ、ガレスは列を止めずに守るやり方を体に入れた。バルドは鍵と茶で日々を回し、クラウスは紙と現場の間を冷たく温かくつなぐ。誰も“英雄の顔”ではないが、彼らが多いほど物語は長持ちします。
君が王都で見抜いた“濡れ炭”と“袋の織り”。あれは、外から来た客の手癖が端に出たものです。彼らは早く結果を欲しがるから、紙の端の重さを見ない。封を重ねる手間を嫌う。だから、薄いところに薄いままの痕が残る。私はそこをときどき拡大鏡で眺め、楽しみます。人が真っ当に筋を通す時の顔と、ねじる時の顔は、上からでも区別がつきます。
“式ノイズ”――君がそう呼ぶ揺れは、世界の呼吸と人の選びの交差点に生まれる。私はそれを完全には消さないし、増やしもしない。ただ、夕と朝に揺れやすいのは事実です。光が変わる時、たいていの生き物は足を止める。その足が作るわずかな遅れが、数にも映る。だから君がそこに点を打ち続けるのは、世界にとってありがたい。点はいつか線になり、線は道になる。道は、後から来る者のためにある。
君自身の出自を、私はここで明かすつもりはありません。ただ、一つだけ。君には“この世界での役割”が与えられている。剣でも杖でもなく、帳と札と、ほんの少しの数字の傾きで、人の営みを守る役。派手ではないが、世界はこういう役を好む。大河は派手だが、田を潤すのは水路です。水路を掘る者がいない世界は、長く持たない。
これから君は、もっと深いところで“外から来た客”の企みと向き合うことになるでしょう。君の前に現れるのは、速さを自慢する者、記録を嘲る者、結果だけを求めて過程を壊す者。彼らは、君のやり方を「遅い」と笑うかもしれない。笑わせておけばいい。遅さには、強さがある。君は知っている。定規で測り、刻限で戻り、明日も同じ速さで続けることの力を。
私は干渉しません。だが、見ています。君が“押す”べき時と“触れない”で置くべき時を、ちゃんと選べているか。君が誰かの決意に指を入れないという礼を、いつまで守れるか。君が自分の力を「見栄えのため」にではなく「次の人のため」に使い続けられるか。見守るというのは、時に退屈ですが、君を見ていると退屈になりません。次に何を整えるのか、上で茶を淹れながら待てるのは楽しい。
最後に、軽いいたずら心で予告をひとつだけ。近いうち、君は“紙ではない証拠”に出会う。音でも、匂いでも、数字でもない、触ったときに分かる証。君なら見落とさない。見落とさないから、私は安心して余白を残せる。
砂はまだ半分。鐘は、まだ一つで十分。続けなさい、フランチェスカ。君が今日、城の壁に貼った一枚の紙を、私は上から褒めておきます。ああいう紙が、世界を長持ちさせる。君が歩く道の先で、世界の帳はまた一頁進みます。私はその端を、静かにめくっておきましょう。
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