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第十四話 境の標——補給路の骨

弁明まで残り十七日、フランチェスカは門から橋までの補給路を実測し、標札・手洗い・粥の休憩所で人流を整える。アイザックの〈幅枠〉で車輪幅を規格化、橋は楔と樹脂で“鳴き止め”し、アデリナは時間帯別レーンで抜け荷を合法的に吸収する。正午、門・橋・井戸で鈴を同時に鳴らす観測を実施し、薄明の角度でだけ生じる“揺れ”の傾向を掴む。日没後の短時間回送も成功、ただ渡し場の石組みでは“欠け”が長く続き、新たな観測点として記録。アーサーは番の交代表を簡素化して現場を止めず、フランチェスカは明日、石の印を増やし再観測を決める。補給路に骨が通り始め、点で拾った異常は線の気配へ——辺境の地ならしがまた一歩進む。

 弁明まで、残り十七日。


 夜の青がまだ石壁に貼りついているうちに、私は城門の外へ出た。露で冷えた土の匂い。見張り台の足元には昨夜の灰色の鈴がぶら下がり、薄明の風でほとんど鳴らない。門から橋までの往復を、初荷の台車で実測するのが今朝のはじめの仕事だ。


「行って戻って、俺の笛が二つ鳴るまでに」

 番頭の兵が短く告げ、台車の取っ手を若い者に渡す。私は内心の定規を出す。往復の刻は昨日より早い――目盛りが、十八分から十六分へと細く詰まっていた。触れない。今日は“定規を確認する日”だ。


 橋は昨日の楔がよく働いている。継ぎ目に撒いた灰は線のまま、鈴は黙ったまま。戻った台車の軸に手を当てると、温度が均一だ。偏った轍が熱を作らない――いい兆候だ。


「門と橋に番を置く。交代は二刻で回せ」

 いつの間にか背後に来ていたアーサーが、簡潔に指示を出す。声を張らず、場を締める。私は頷き、今日打つべき標を鞄から取り出した。


 標札は白木に黒い矢印。文字は大きく少なく。孤児院の子どもたちが手分けして塗った。ひらがなで「みぎ」「ひだり」、それから「とまる」。扇形に並べると、道が言葉を持ったみたいに見えた。リディアは道の端に手洗い桶と温い麦粥の鍋を置く。人の流れと交差しない、影の位置。彼女の手はいつも、場を柔らかくする。


 私は標札の釘を打ち込みながら、そっと場の呼吸を撫でる。咳が流行りかけていた村が二つ。汗と土の交じる場所ではいつも始まりが早い。感染の駆け足を、息継ぎひとつ分だけ遅らせる。k_infect 0.90 → 0.88。痕は残さない。今日だけでいい。あとは手洗いと距離で守る。


「札だらけで息苦しくならない?」

 リディアが囁いた。

「札は息を楽にするために置くの。迷う回数が減れば、胸の上の重石が軽くなるわ」

 彼女は笑って、桶に新しい布を浸した。


 城下の坂を荷馬車が上ってくる。先頭の御者がわざと脇道に車を向け、ギルド前の列を避けようとした。輪の縁に光る新しい鉄――よくある“抜け荷”の手つきだ。


「そこ、急ぎ荷のレーンはこっちよ」

 黒外套のアデリナが帳面を片手に、顎で別の列を示す。午前の限られた時刻枠。通れば半刻早い。だが、枠外なら逆に遅くつく。

「札は?」と御者。

「ある。時間で買う札よ。重さでなく、約束で支払う札」

 御者は肩をすくめ、しかし舌打ちはしなかった。台車が自然に列へ吸い込まれていく。私は控え帳の角をめくり、歯車のように回る番号列を眺めた。きれいに噛み合っていた列の歯が、一瞬だけひとつ欠ける。数字が私だけに見せる“歯抜け”。そのすぐあと、別の札がうまく埋めた。列は痙攣せず、静かに回り続ける。アデリナが、人の利で人を動かすのはいつも速い。


 鍛冶場からは、アイザックが肩に枠を担いで現れた。幅一間ほどの四角い枠。木製のフレームに鉄の帯が二本、車輪幅の規格に合わせて渡してある。

「こいつを通してから行け」

 彼は枠を道の脇に立て、手短に説明した。「車輪の外側が帯に触れたら削れ。内側が当たったら広げろ。橋の轍が片寄る前に、幅を揃える」

「検査ってやつだな」

 ブルーノが枠の下を台車でくぐり、通り抜けざまに親指を立てた。鉄の帯がわずかに鳴って、すぐ黙る。音が少ないのは、道具が仕事をしている証拠だ。


 正午前。私はミナとテオと門番に、短く紙を手渡した。鈴の絵と、影の角度を描いたもの。門、橋、井戸の三ヶ所で、同じ刻に鈴を一度だけ鳴らす。影の角を線で写し、時刻を記す。欠け帳の点を、線に変えるための“同時”だ。


 その刻は、薄い雲が陽を滑らせていた。見張り台の鈴がひときわ澄んで鳴り、橋の鈴が遅れて一拍、井戸の傍の鈴は空気を切るように短く鳴った。私の視界の端、税収予測の列がふっと欠け、1243 → 12□3 → 1243 と戻る。ほんの刹那。それでも確かに、あの耳の奥の金属音が走る。門と橋と井戸を結ぶ細い糸が、光の角度で張ったような感触。私は顔に出さず、欠け帳に小さな点を三つ打った。今日の点は、昨日よりも近い。


「午後の便、出すぞ」

 アーサーの声。彼は番の交代表を紙一枚に整え、柱に吊るさせた。目に入れば読める文字で、余白が多い。書式のための書式ではなく、動くための書式。兵の顔つきがやわらぎ、替わったばかりの番が自然に持ち場に滑り込む。


 日が傾き始めると、ギルド前の通りに小さな灯が等間隔に降ろされた。油を控えめに含ませた灯籠の列。私は一つ一つに火を移しながら、短い夜の回送を試す段取りを頭に並べる。鮮度の歩幅を、ほんの少しだけ伸ばす。k_fresh 1.00 → 1.03。今日だけ。灯が戻るころには元の速さでいい。


 最初の台車が灯の鎖の下を滑っていく。幅枠を通したおかげで揺れが小さい。橋の鈴は黙って、継ぎ目の灰も動かない。辻の手洗い桶には列ができ、ソフィアが小さな椀で湯を分ける。


「熱いのを一口。声が大きい者から先」

 彼女は冗談めかして言い、喉に湯を落としていく。誰も大声を出さないから、列はゆっくり進む。夜の道は声が小さいほど強い。


 ほっとしたのも束の間、二台目の台車が小さく跳ねた。石畳の隙間に小石が噛んだのだ。車の腹が右へ寄りかけ、御者が反射的に手を引いたところを、ブルーノが左側から肩で押し戻す。幅枠で揃えた車輪が、勢いのまままっすぐに戻った。御者は息を吐いて笑い、無言で帽子を取る。枠ひとつで助かることがある。制度と道具が噛み合った瞬間の音は、静かだ。


 灯の鎖をたどって、短い夜の回送は無事に終わった。灯籠の火を一つずつ落とし、最後の灯で井戸の石縁を照らす。水面は黒く深い。縁に指を置いたまま、私は短く耳を澄ませた。……今日は、揺れない。井戸は黙っている。


 回廊に戻ると、クラウスが壁際で眼鏡の縁を軽く押してこちらを見た。彼は何も言わない。ただ、掲示の紙を一枚めくり、余白の多さを確認したように頷いて去った。記録が場の妨げになっていない――彼の中での評価は、いつもそれだけで足りるらしい。


 机に灯を寄せ、欠け帳を開く。門/橋/井戸の刻と影、鈴の印。今日の点は、線の形を取り始めていた。太陽の角度、薄明と薄暮、その中間にあるわずかなねじれ。紙の上でなら、音も匂いも、線にして扱える。


 封蝋のついた一通が滑り込んだ。差出人は王都――だが、軍務局ではない。細い筆致で、宛名の横に小さな図が添えられている。ダリウス。戦術家として王都でも名を馳せていた人物だ。彼からの手紙は、文面よりも図が多い。


 封を割ると、一枚の薄紙が現れた。短い文――〈群衆の目を持つ場で、集散を乱さず見せる図〉。その下に描かれたのは、広場の角に立つ旗の位置と、退路の折り返し。弁明の場の図だ。彼は来るとは書いていない。ただ、図だけが届く。いつでも呼べるが、まだ呼ばない。私は薄紙を伏せて机の端に置き、欠け帳の上に手を戻した。


 帰りの見回りのついでに、渡し場の石組みへ寄った。橋の下流にある浅瀬だ。夜の間だけ石の頭が出て、朝には水がかぶる。灯籠の火を一つだけ持ち、石の上に立つ。水の流れが靴の底を冷やした。


 空気がわずかに変わる。耳の奥に金属の擦れる音。視界の端で、数字が欠ける。税収予測――1243 → 12□3 → ……戻らない。戻るまでの時間が、いつもより長い。ひと呼吸、ふた呼吸、みっつ。四つ数えたところで、ようやく戻った。石と水の境目。ここにも“線”がある。門と橋と井戸に、石が加わった。


 私は灯を低くし、帳に新しい点を打つ。今日初めて、点と点の間に、確かな重みを感じた。数字は嘘をつかない。嘘をつかない数字が、黙って何かを示している。


「戻るぞ」

 背にアーサーの声。灯籠の薄い火が彼の頬に影を作る。彼は何も聞かず、何も問わない。私が何かを見て、何かを記したことだけを、知っているみたいに。


「番の交代表は?」

「紙一枚に減らした。誰でも読める字で」

「ありがとう。明日は渡し場の石の印を増やすわ。鈴じゃなく、石の角に刻む。……それと、門と橋と井戸の三点同時は、もう一度」


 彼は短く頷いた。足音が二つ、石段に吸い込まれていく。夜風は湿りを帯び、鍛冶場の火は蓋の下でまだ息をしている。アデリナは帳面を閉じ、リディアは桶を片づけ、ミナとテオは写しを棚に戻した。


 灯を落とす前に、黒板の端に三行だけ書き足す。


「門・橋・井戸、同時観測。薄明に揺れ」

「渡し場の石組み、揺れ持続。明日印を増やす」

「弁明まで、残り十七日」


 境の標は立った。道に骨が通る。数字は声に出さない。けれど、鈴の黙り、影の角、石の冷たさ――すべてが、私だけの紙の上で細い線になりはじめている。明日は、その線をもう少しだけ伸ばす。揺れに名前がつくまで。揺れが言葉になるまで。

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