第95話 神のバグ技
日本の、そして世界の運命をその両肩に背負う男たちのいる場所としては、そこはあまりにも静かすぎた。
富士山麓の地下300メートルに広がるIARO(国際アルター対策機構)本部、事務総長執務室。壁一面を埋め尽くす巨大モニターだけが、この部屋が世界の神経中枢であることを示している。だが今、そこに表示されているのは戦争の記録でも、テロの発生を告げるアラートでもない。ただ一つ、どこまでも単調に上昇を続ける、一本のグラフ。そして、その横に無慈悲に表示された『GWh(ギガワット時)』という単位。
それは、数時間前に希望ヶ島の地下深くで行われた、人類の歴史を永遠に変えてしまった実験の、最終報告データだった。
「…………」
「…………」
部屋には、二人。
IARO事務総長、黒田は、自らの執務机で深く、深く椅子に身を沈めていた。その鉄仮面のような表情は、何の感情も映してはいなかった。だが、机の上に置かれた彼の手が、分厚い報告書の角を神経質に何度もなぞっている。
対面のソファに腰掛ける神崎勇気は、ただ純粋な驚きと、ほんの少しの呆れが混じったような顔で、その信じがたいグラフを眺めていた。
数時間前。佐藤健司という、世界で最もやる気のないNEETが、ポケットから取り出した100円玉一つで、この星のエネルギー問題の全てを、理論上解決してしまった。
そのあまりにも壮大で、あまりにも馬鹿馬鹿しい「事実」を、二人はまだ魂のレベルで消化しきれずにいた。
「……凄いですね、あの人」
最初に沈黙を破ったのは、勇気だった。その声には、人類最強の英雄が、自らの理解を完全に超越した現象を前にした時の、素直な感嘆が滲んでいた。
「疑似、永久機関ですか。俺、てっきりSFの中だけの話だと思ってました。……ていうか、自販機で、って。なんかもう、色々とおかしいですよね」
「……ああ」
黒田は、呻くように答えた。
「おかしい。全てがおかしい。物理法則も、エネルギー保存の法則も、そして何よりも、あの佐藤健司という男の存在そのものが、この世界のバグだ」
黒田は、立ち上がった。そして、モニターの前に立ち、まるで憎むべき敵兵でも睨みつけるかのように、その美しい上昇曲線を見据えた。
「だが、バグは兵器になる。……そして、この兵器は、あまりにも強力すぎる。ケイン・コールドウェルが束ねるS級アルター軍団よりも、陽南カグヤの革命思想よりも、あるいは神獣ガドラの暴力よりも、ある意味では遥かに……」
彼の脳裏で、無数のソロバンが弾かれる。
この技術が、もし混沌派の手に渡ったら?
いや、そもそもこの技術を、我々秩序派はどう扱うべきなのか。
世界のエネルギー市場は崩壊する。産油国は国家としての価値を失う。経済のパワーバランスが、根底から覆る。それは、武力による戦争よりも遥かに静かで、しかし遥かに広範囲な、文明の死をもたらしかねない。
希望ではない。
これは、人類が手にしてはいけない禁断の果実そのものだった。
彼が、そのあまりにも重い結論にたどり着き、再び絶望の淵へと魂ごと沈み込もうとした、まさにその瞬間だった。
執務室の空気が、ふわりと密度を変えた。
蛍光灯の光が、夕焼けのような温かい黄金色へと変わっていく。
黒田と勇気は、顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと息を吐いて、その気配の主へと視線を向けた。
彼らの目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった穏やかな老人が、音もなく姿を現していた。
『――うむ。なかなか、面白いものを作りおったのう、お主たちは』
スキル神。
その声は、どこまでも穏やかで、しかしその瞳の奥には、まるで面白いオモチャを見つけた子供のような、純粋な好奇心の色が宿っていた。
勇気は、ソファから立ち上がり、軽く会釈をした。
「スキル神様。……見てたんですか」
『もちろんじゃ。あんな派手な因果律の捻じ曲げ、ワシが見逃すと思うか?』
スキル神は、空中にふわりと腰を下ろすと、黒田が先ほどまで頭を悩ませていたそのグラフを、実に興味深そうに眺めた。
『うむ。馬鹿馬鹿しいスキルの、その仕様の穴を実に巧みについた、見事なギミックじゃな。感心、感心』
その、まるでゲームの裏技を見つけ出したプレイヤーを褒めるかのような、あまりにも軽い論評。
黒田は、もはや怒る気力もなかった。
「……ギミック、ですか。我々にとっては、人類の未来を左右する大問題なのですが」
『ほほほ。そういきり立つでない、黒田よ。お主たちは、まだ本質を何も見えておらんようじゃからのう』
「本質、だと?」
『うむ』
スキル神は、黒田と勇気の二人を、その星々を湛えた瞳で、まっすぐに見据えた。
そして、彼は、この世界の、そして「スキル」という概念の、最も根源的な真実を、こともなげに告げた。
『――そもそも、無から有を作り出しておるのは、あの自動販売機のスキルだけではないぞ?』
『アルターのスキルを使える者、その全てじゃよ?』
その、あまりにも静かで、あまりにも衝撃的な一言。
黒田と勇気は、息を飲んだ。
「……全ての、スキルが……?」
勇気が、震える声で問い返した。
『そうじゃ』
スキル神は、頷いた。
『例えば、パイロキネシス。あれは、空気中の酸素を燃焼させておるわけではない。あれは、何もない空間に「熱エネルギー」という概念を、ただ『創造』しておるだけじゃ』
『テレポーターも、そうじゃ。あれは、空間を高速で移動しておるのではない。自らの座標という情報を一度「消去」し、そして新たな座標に自らの存在を「再記述」しておるだけじゃ。その間の移動エネルギーなど、どこにも存在せん』
『スキルとは、そういうものじゃ。お主たちのちっぽけな物理法則など、軽く飛び越えてしまう、因果律への直接的な介入。……いわば、神の御業の、ほんの僅かなおこぼれじゃよ』
「…………」
『じゃから、あの自動販売機の永久機関も、別に驚くには値せん。ただ、その『無から有を生み出す』というスキルの本質を、最も分かりやすく、最も効率的に『エネルギー』という形に変換したという点で、実にクレバーな発明じゃったというだけのことじゃ』
スキル神は、そう言うと、実に楽しそうに茶を一口すすった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、自らの常識を完全に破壊されてしまった二人の人間だけだった。
無から、有を。
全てのスキルが。
黒田の、その戦略家の脳が、悲鳴を上げていた。これまで彼が積み上げてきた全ての戦力分析、全ての前提が、今、この瞬間に覆されたのだ。
だが、その真実に、誰よりも早く、そして誰よりも深く到達したのは、勇気の方だった。
彼の、その規格外の魂の器が、神の言葉の本当の意味を、瞬時に理解していた。
「……あー……」
勇気は、まるで長年の謎が解けたかのように、間の抜けた声を漏らした。
「……確かに……」
「……確かに、そう言われてみれば……。力を使っても、疲れたことって、ないですね……」
その、あまりにも素朴な気づき。
黒田は、はっとしたように勇気の顔を見た。
「いや、もちろん、ガドラと戦った時とかは、めちゃくちゃ疲れましたよ? でも、あれは……」
勇気は、自らの身体の記憶を、魂の記憶を、辿るように言った。
「あれは、巨大化して、殴って、蹴って、ビームを撃って……。その、身体を動かすこと自体が、疲れただけであって……」
「スキルを『コピー』する瞬間も、『反転』させる瞬間も、別に精神力がゴリゴリ削れる、みたいな感覚はなかったなあ……」
「そうか……。だから、俺は一日中『影』を出しっぱなしにして、戦闘させても、本体は別に平気だったのか……」
彼は、ついに悟った。
スキルとは、MPを消費する魔法ではない。
それは、ただそこに在る、世界の理を書き換えるための、スイッチのようなものなのだと。
『うむ。ようやく気付いたようじゃな』
スキル神は、満足げに頷いた。
『スキルを行使して疲労するのは、その結果として発生する物理的な反動や、それに伴う精神的な緊張によるものじゃ。スキルそのものは、術者の魂に、ほとんど何のコストも要求せん。』
「……」
『ぶっちゃけ』と、スキル神は続けた。その口調は、もはや神のそれではなく、ただの悪戯好きな老人のそれだった。
『電気系のスキルや、パイロキネシス系のスキルを持つ者に、ただひたすらタービンを回させれば、電力などいくらでも生み出せるわい』
その、あまりにも身も蓋もない、しかし絶対的な真実。
黒田は、天を仰いだ。
我々は、一体、この5年間、何をしていたというのだ。
『というか』
スキル神は、最後の、そして最も致命的な爆弾を、こともなげに投下した。
『――混沌派は、実際にもう、やっとるからのう……』
その一言が、黒田の、そしてIAROの、最後の理性を打ち砕いた。
「……何……だと……?」
黒田の、その震える声。
『ああ。やっとる、やっとる』
スキル神は、実に楽しそうに言った。
『カオス同盟に加盟しておる発展途上国の、そのほとんどはな。国内にいるA級、B級のエネルギー系アルターを、そのまま国家の『発電所』としてフル活用しておるぞ。おかげで、彼らの国のインフラ整備は、ここ数年で、お主たちのG7諸国を遥かに凌駕するスピードで進んでおるわい』
『まあ、秩序派の国々は、違うからのう。人権問題じゃのう。それに、そもそも、電力に困っておる国は、少ないからのう。混沌派は、発展途上国が多いので、そのあたりは実に合理的で、助かるんじゃろうけどな』
その、あまりにも残酷な、戦略的な格差の現実。
黒田は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。
負けている。
我々は、思想戦だけでなく、このエネルギーという名の、最も根源的な国家間の競争においても、既に周回遅れになっていたのだ。
我々が、人権だの、倫理だのという美しい理想論を議論している間に。
敵は、ただ冷徹に、そして合理的に、神が与えたこの世界のバグを、最大限に利用し尽くしていた。
黒田の脳裏に、かつてアメリカのトンプソン大統領が言っていた、あの言葉が蘇る。
『我々は、神のゲーム盤から降りたつもりで、ただ新しい、より残酷なゲーム盤の上に乗せられただけだったのだ』。
その通りだった。
そして、その新しいゲーム盤の上では、綺麗事を並べる者から、先に脱落していく。
黒田は、自らの手のひらを見つめた。
この手は、血に汚れていない。
だが、その清廉さこそが、我々の最大の敗因だったのかもしれない。
「……黒田さん」
勇気が、静かに声をかけた。
「……どうしますか」
その、あまりにもシンプルな問い。
黒田は、顔を上げた。
その目には、もはや絶望の色はなかった。
代わりに宿っていたのは、自らが守るべきもののために、必要とあらば悪魔にでもなってみせるという、指導者の、冷徹な、そして狂気にも似た覚悟の光だった。
「……ああ」
彼は、静かに、しかし力強く頷いた。
「……我々も、変わらねばならん。……そうだ。変わる時が、来たのだ」
その決意の言葉を、スキル神は満足げに、そして実に楽しそうに、ただ黙って見つめていた。
神々のゲーム盤は、また一つ、予測不能な新しいステージへと、その駒を進めようとしていた。
そして、その引き金を引いたのは、他でもない、人間自身の、あまりにも人間的な選択だった。




