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第93話 英雄失格の自動販売機(経費で落ちます)

 佐藤健司の人生は、灰色だった。

 それは彼が特別不幸だったからではない。むしろ、彼はこの上なく平凡で、平均的で、だからこそ救いようのない灰色の日々を生きていた。都内の三流大学を可もなく不可もなく卒業し、中小の食品メーカーの営業部に就職したが三年で心が折れた。以来、彼は自らの城である四畳半一間のアパートで、社会という巨大な機構から完全にログアウトした、いわゆるNEETとしての日々を送っていた。


 彼の世界は、手の届く範囲にあるものだけで完結していた。万年床、手の届く位置に積み上げられた漫画雑誌、食べ終えられたカップ焼きそばの容器が作り出す褐色の山脈。そして、彼の唯一の友人であり、生命線でもあるスマートフォン。

 だが、数ヶ月前。彼のその完璧なまでの怠惰な生態系に、一つのバグが紛れ込んだ。

 神の、悪戯だった。


「……あー……。喉、渇いた……」


 万年床の上で、健司は呻いた。冷蔵庫は、部屋の入口のすぐ側。彼からすれば、地球の裏側にも等しい距離だ。立ち上がり、歩く。その、あまりにも非生産的で、エネルギー効率の悪い行為を、彼の魂は心の底から拒絶していた。

 彼は、ポケットを探った。中から出てきたのは、一枚の、くたびれた100円硬貨。

「……しゃーない」

 彼は、ふっと息を吐いた。そして、心の中で、もはや日課となった呪文を唱えた。

(……自動販売機、召喚)


 次の瞬間。

 彼の目の前、漫画雑誌の山のど真ん中に。

 ガコン!という、あまりにもリアルな、しかし完全に無音の出現と共に、一台の、どこにでもいるような清涼飲料水の自動販売機が、忽然と現れた。その側面には、『つめた〜い』という、気の抜けた文字が踊っている。

 スキル【自動販売機召喚】。

 数ヶ月前、自らを『天秤の女神』と名乗る、やたらとテンションの高い存在から一方的に与えられた、祝福であり、呪い。

 健司は、寝転がったまま腕を伸ばし、その自販機に100円玉を投入した。そして、お気に入りの缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、という音と共に、商品排出口に冷えた缶が転がり落ちてきた。

 彼は、その缶コーヒーを手に取ると、満足げに一口飲んだ。

「……ぷはー。やっぱ、これだよなあ」

 彼が、その最後の一口を飲み干し、空き缶を床に放り投げた瞬間。目の前の自動販売機は、すぅっと陽炎のように掻き消えた。

「……さて、と。今日のサブスク料、払ったし……。二度寝、すっか」

 彼は、そう呟くと、再び毛布を頭まで被った。

 彼にとって、このスキルは月額3000円(一日100円計算)の、究極の出前サービスに過ぎなかった。


 だが、彼が気づいていないだけで。

 その、あまりにも個人的で、あまりにもくだらない奇跡の行使は、この国の、いや世界の秩序を守る巨大な監視の目に、確かに捉えられていた。


 §


 IARO(国際アルター対策機構)本部、中央司令室。

 その地下深く、外界から完全に隔離された空間は、常に張り詰めた緊張感に支配されている。壁一面を埋め尽くす巨大モニターには、世界中のありとあらゆる情報が、リアルタイムで表示されていた。

 そのモニターの片隅で、数ヶ月前から奇妙なアラートが頻発していた。

「……またです、室長」

 分析官の一人である佐伯が、ヘッドセットを押さえながら、上官である黒田へと報告する。

「東京、杉並区の特定座標。半径10メートル圏内に、3分から5分間隔で、極めて微弱な因果律干渉反応を観測。出現後、約5分で完全に消滅。……パターン、D。…いえ、これはもはや計測不能レベルの、Zクラスです」

 黒田は、その報告書に目を通しながら、眉間に深い皺を寄せた。

 カオス同盟によるテロの兆候か? あるいは、未確認のアルターの覚醒か?

 だが、そのエネルギー反応は、あまりにも小さく、あまりにも周期的で、そしてあまりにも無害だった。まるで、誰かが定刻通りに電子レンジのスイッチを入れているかのような、日常的すぎるノイズ。

「……分からん」

 黒田は、吐き捨てるように言った。

「だが、無視はできん。因果律への干渉である以上、そこには必ず何らかの『スキル』が存在する。……調査チームを向かわせろ。対象が何者であれ、確保しろ。……最悪の事態も、想定しておけ」


 その日の午後。

 健司のアパートの、古びたドアが、乱暴にノックされた。

「……はいはい、今出ますよー」

 健司は、家賃の取り立てだろうと高を括り、寝ぼけ眼のままドアを開けた。

 そして、固まった。

 ドアの外に立っていたのは、大家のおばちゃんではなかった。黒い、仕立ての良いスーツに身を包んだ、サングラスの男たちが二人。その体格、その隙のない立ち振る舞いは、明らかに一般人ではなかった。

「……えーっと……。どちら様、ですか?」

「佐藤健司さん、ですね」

 男の一人が、感情のこもらない声で言った。

「我々は、政府の者です。あなたの、その特異な能力について、少しお話を伺いたい」

 政府。特異な能力。

 健司の、その眠りこけていた脳髄が、一瞬で覚醒した。

(……やばい。……やばいやばいやばい! ついに、バレたのか! 俺が、神様からスキルもらったって!)

 彼は、必死に言い訳を考えた。

「え、えーっと、人違いじゃないですかね? 俺、ただの無職のNEETですよ? スキルとか、そういうの全然……」

「三日前の午後2時14分。あなたは、半径10メートル以内に他の自動販売機が存在しないにも関わらず、どこからか缶コーヒーを購入していますね。その購入記録が、我々の監視網に引っかかりました」

「…………」

 健司は、絶句した。

 監視網、怖すぎるだろ。

「ご同行、願います」

 男たちが、一歩、部屋の中へと踏み込んできた。

 健司は、観念した。そして、最後の、そして最も重要な質問を口にした。

「……あの……。連行されるのはいいんですけど……。その、召喚に必要な100円って、経費で落ちますかね……?」


 その、あまりにも場違いな、そしてあまりにも切実な問い。

 黒服の男たちは、一瞬だけサングラスの奥で顔を見合わせた。そして、一人がインカムに何かを囁いた後、こう答えた。

「……上官より許可が出ました。……経費で、落ちます」

「マジすか」

 健司の顔が、ぱっと輝いた。

「行きます。どこへでも行きますよ、俺は」

 彼は、自らの人生が、この瞬間、とんでもない方向へと舵を切ったことにも気づかず、ただ無料のサブスクリプションサービスが手に入ったことだけを、心の底から喜んでいた。


 §


 富士山麓の地下深く、IARO特殊技能研究棟。

 その、SF映画に出てくるかのような、真っ白で無機質な空間。健司は、サイズの合わないだぶだぶの白い研究着に着替えさせられ、複数の研究員たちに囲まれていた。

 中心に立つのは、白衣を着た、やたらと目の輝きが鋭い中年男性。青木博士だった。

「さて、佐藤健司君」

 青木は、手元のタブレットに表示されたデータを睨みつけながら言った。その声には、隠しようのない侮蔑と、退屈の色が滲んでいた。

「君のスキル、【自動販売機召喚】。……正直に言って、我々の観測史上、最もくだらないスキルの一つだ。だが、あらゆる可能性を検証するのが、我々の仕事でね。……まずは、耐久実験から始めよう」


 最初の実験は、シンプルだった。

 健司が召喚した自動販売機を、ただひたすらに破壊しようと試みる。

 研究員の一人が、巨大なスレッジハンマーを振り下ろした。

 キィン!という甲高い金属音。ハンマーは弾き返され、研究員の腕が痺れている。だが、自販機は傷一つない。

「……ほう」

 青木博士の目が、僅かに光った。

 実験は、エスカレートしていった。

 油圧プレス機で押し潰そうとしても、プレス機の方が軋みを上げて停止する。

 対物ライフルで撃ち抜こうとしても、弾丸は着弾した瞬間にその形を歪ませ、ぽろりと地面に零れ落ちるだけ。

 最終的に、特殊な指向性爆薬を仕掛けて爆破しても、自販機は爆炎と黒煙の中から、何事もなかったかのようにその姿を現した。

 研究室は、静まり返っていた。

「……信じられん……」

 青木は、震える声で呟いた。

「この自販機……。物理的な干渉を、一切受け付けない……!」

 彼は、興奮気味に仮説を述べ始めた。

「おそらく、このスキルの本質的な機能は、『内部の飲料を、正常な状態で提供すること』。その機能を維持するため、外部からのいかなる物理的破壊も、因果律レベルで『無効化』しているんだ! そうとしか考えられない! これは、究極の『不壊』属性だ!」

 健司は、その熱弁を、ただ「へー」という顔で聞いていた。


 次に、エネルギー源の検証が行われた。

 召喚された自販機は、コンセントに繋がれていないにも関わらず、煌々と照明を灯し、内部の飲料を完璧な温度に保ち続けていた。24時間放置しても、その状態は変わらない。

「……エネルギー源、不要……。あるいは、我々の観測できない別次元から、無限にエネルギーを供給されているのか……」

 青木は、ぶつぶつと呟きながら、タブレットに猛烈な勢いでメモを取っている。

 そして、最後に召喚条件の検証。

 様々な条件下で召喚を試みた結果、一つの奇妙な法則性が判明した。

「……なるほど。半径10メートル以内に、自動販売機が存在しない場所では、召喚ができない、と」

 青木は、結論付けた。

「……まあ、スキルの制限としては、妥当なところか」

 健司もまた、「そんなもんすかね」と気のない返事をしていた。


 その夜、青木博士は自室で、昼間の実験データを繰り返し見返していた。

 不壊属性。無限エネルギー。そして、10メートルの召喚制限。

 その三つの要素が、彼の頭の中で、どうしても一つの美しい方程式に収まらない。何かが、おかしい。何かが、根本的に間違っている。

(……もし。もし、我々の前提が、間違っているとしたら……?)

 彼は、一つの狂気じみた仮説にたどり着いた。

(……『召喚』ではない。……あれは、『複製』なのではないか……?)


 翌日。

 青木は、健司を屋外の、広大な訓練フィールドへと連れ出した。

 そこには、様々な種類の自動販売機が、ずらりと何十台も並べられていた。

「佐藤君。よく見てくれ」

 青木は、その中の一台、ごく普通のコーヒー専門の自販機を指さした。

「今から、君にはこの自販機の『真横』に立ってもらう。そして、心の中で強く、このコーヒーの自販機を『コピー』することを、イメージしてほしい」

「……はあ」

 健司は、言われるがままに、その自販機の隣に立った。

 そして、目を閉じる。

(……コーヒーの自販機、コピー……。コーヒーの自販機、コピー……)

 彼が、そう念じた瞬間。

 彼の隣、何もないはずの空間に。

 ガコン!という音と共に、寸分違わぬコーヒーの自動販売機が、もう一台出現した。

「「「…………っ!!!!」」」

 その場にいた全ての研究員が、息を飲んだ。

 青木は、震える声で叫んだ。

「……やはり、そうだ……!」

「君のスキルは、『召喚』じゃない! 正しくは、『半径10メートル以内に存在する自動販売機の、完璧なコピーを、別の座標に召喚するスキル』だったんだ!」

「だから、周りにコピーする対象がない場所では、召喚できない! それが、あの制限の本当の正体だったんだ!」


 その、あまりにも衝撃的な真実。

 健司自身もまた、呆然とその二台の全く同じ自販機を見つめていた。

(……俺のスキルって、コピー能力だったのか……)

 その、自らの能力に対する新しい「解釈」。

 それが、引き金だった。

 健司の、そのNEETとしての日々の中で、完全に停滞しきっていた魂の器が、ぴしり、と小さな音を立てて、砕けた。

 彼の脳内に、直接、女神のそれとは違う、無機質なシステムメッセージのようなものが響き渡る。


 《――スキル【自動販売機召喚】の、真の性質が解明されました》

 《――因果律への定着率が上昇。スキルの位階が、進化します》

 《――【半径10メートル以内】の制限を解除。一度『観測』した自動販売機であれば、距離に関係なく、どこへでも召喚が可能になります》

 《――召喚可能な対象が、『飲料』から、『食品』、『物品』を含む、全ての種類の自動販売機へと拡張されます》


「…………え?」

 健司は、自分の身に起きた変化に、戸惑っていた。

「どうした、佐藤君?」

「……いや、なんか……。今、俺……パワーアップした、みたいです……」

「何?」

 青木は、半信半疑のまま、一つの指示を出した。

「佐藤君! 君が、この施設に来る途中の廊下で見た、あのパンの自販機を覚えているか! あれを、ここに召喚できるか!?」

「……やってみます」

 健司は、目を閉じた。そして、記憶の中の、あのあんパンやカレーパンが並んでいた自販機の姿を、強くイメージした。

 ガコン!

 次の瞬間、彼の目の前に、確かにあのパンの自販機が出現した。

「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」」」

 研究員たちから、歓声が上がる。


 健司は、その光景を、どこか他人事のように眺めていた。

(……すげえ。……でも、結局は自販機か……)

(まあ、これで昼飯の買い出しに行かなくて済むようになったのは、ちょっとだけ便利かな……)

 彼の、その根本的なやる気のなさは、少しも変わっていなかった。

 しょぼくない?

 そう、彼が心の底から思った、まさにその瞬間だった。

 彼の隣で、青木博士が、まるで悪魔に魂を売った科学者のような、恍惚とした、そして狂気に満ちた表情で、一人呟いていた。


「……コピー……。完璧な、概念複製……」

「……待てよ……。ということは……」

「もし……。もし、我々が、オリジナルの自動販売機を『改造』したら? ……その改造された情報も、寸分違わずコピーされると、いうことじゃないのか……?」

「例えば……。この、飲料の排出機構を取り外して……。代わりに、毎分6000発を射出可能な、ガトリングガンを搭載したとしたら……?」

「あるいは、この商品ディスプレイの部分に、対アルター用の超高密度な防御フィールド発生装置を組み込んだとしたら……?」

「それを、戦場のどこへでも、0.5秒で、無限のエネルギー源付きで、しかも絶対に破壊されない状態で、送り込める……?」

「…………っ!!!!」


 青木は、自らがたどり着いてしまった、そのあまりにも恐るべき可能性に、打ち震えていた。

 彼は、健司の方を振り返った。

 その目は、もはやただのNEETを見る目ではなかった。

 それは、人類の戦争の歴史を、永遠に変えてしまう可能性を秘めた、歩く戦略兵器を見る目だった。


「佐藤君!」

 彼は、健司の両肩を、がしりと掴んだ。

「君は、神だ! この、膠着した世界を救う、新しい神になるんだ!」

「……はあ……」

 健司は、そのあまりの熱量に、ただ引いていた。


 青木は、それ以上何も言わなかった。

 彼は、踵を返すと、猛烈な勢いで研究棟へと走り去っていった。

 彼の頭の中は、今、一つの壮大な計画のことで、完全に満たされていた。

『プロジェクト・ベンダー:概念複製兵器の実用化に関する研究開発予算申請書』。

 その、あまりにも物騒なタイトルのレポートを、一刻も早く黒田事務総長に提出するために。

 後に残された健司は、ただ一人、訓練場にぽつんと立ち尽くしていた。

 そして、ポケットから100円玉を取り出すと、目の前のパンの自販機で、一個のカレーパンを買った。

 もちろん、その100円も、後でちゃんと経費で落としてもらうつもりだった。

 彼の、不本意で、面倒くさくて、そして最高にくだらない英雄伝説は、今、まさにその幕を開けたばかりだった。

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