第91話 混沌の教壇と、神への道
東欧、ソラリス解放区。
その街は、地図の上では国として存在しているが、事実上、数十年に及ぶ内戦と大国の無関心によって見捨てられた土地。だが今、その街は世界のどの都市とも違う、奇妙で、暴力的で、そして圧倒的な生命力に満ち溢れていた。
その混沌の聖域の中心、何の前触れもなく空間そのものを歪ませて出現した異次元の領域に、その学院はあった。
『聖カオス学院』。
その建築様式は、日本の『国立高等専門アルター学院』――希望ヶ島の校舎を、寸分違わず、しかし悪意をもってコピーしたものだった。陽光をふんだんに取り込むはずだったガラス張りの壁は、不気味な紫色の光を放つ未知の素材に置き換えられ、穏やかな学びの場であるはずの教室は、古代の闘技場のような冷たい石造りの床と壁に作り変えられていた。キャンパスに植えられている桜の木々は、花びらの代わりに漆黒の羽根を散らせ、その風景は、希望ヶ島のポジフィルムに対する、完璧なネガフィルムのようだった。
ここは、秩序の揺りかごを嘲笑う、混沌の坩堝。
その学院の、最も巨大な講堂。そこは日本のそれとは違い、円形劇場のようなすり鉢状の構造になっており、中央の最も低い場所に、黒曜石で作られた演台が一つ、ぽつんと置かれている。
その演台を囲むように、階段状の観客席に座っているのは、この学院に招かれた最初の百名の「原石」たちだった。
彼らは、希望ヶ島の生徒たちのような、未来への期待に満ちた輝かしい瞳はしていなかった。
日本の地方都市で、その影に潜む能力故にいじめ抜かれてきた少年。
デトロイトの廃工場で、機械と対話する能力を隠しながら孤独に生きてきた家出少女。
南米の麻薬カルテルで、その精神干渉能力を恐れられ、道具として使われてきた暗殺者の少年。
彼らの瞳に宿っているのは、世界への不信と、自らの力への呪詛と、そして心の奥底で燻り続ける、やり場のない巨大な憎悪の炎だった。彼らは、秩序という名の偽善によって、社会から爪弾きにされた者たちの寄せ集めだった。
その、あまりにも危険で、あまりにも不安定な魂たちが放つ負のオーラが渦巻く講堂の空気が、ふっと密度を変えた。
中央の演台、何もないはずの空間。そこに、まるで太陽そのものが受肉したかのように、一人の少女が音もなく、気配もなく姿を現した。
燃えるような、鮮やかな赤色のドレス。鴉の濡れ羽色のように艶やかな黒髪。そして、その溶かした黄金を流し込んだかのような瞳が、講堂にいる百の魂を、一人一人、その奥の奥まで見透かすかのように、ゆっくりと見据えた。
陽南カグヤ。
その、あまりにも神々しく、あまりにも圧倒的な登場に、荒くれ者たちのはずの生徒たちの間に、畏怖と緊張の沈黙が走った。
「――では、授業を始めます」
カグヤの声は、静かだった。だが、その声には、聞く者の魂を直接掴んで揺さぶるような、不思議な力が宿っていた。
彼女は、ゆっくりと講堂を見渡し、そして、その薄い唇の端に、ほんの僅かな、しかしどこか憐憫の色を滲ませた笑みを浮かべた。
「あなたたちは、教えられてきたのでしょう? 日本の、あの偽りの秩序の番人たちに。あるいは、この腐りきった旧世界の大人たちに。『その力は危険なものだ』と。『制御しなければならない』と。『社会と共存するために、その牙を抜け』と」
「嘘ですわ」
彼女は、きっぱりと言った。その一言が、生徒たちの心に深く突き刺さる。
「彼らは、あなたたちの力を恐れているだけ。あなたたちが、自分たちの築き上げた退屈な秩序の檻を、内側から破壊してしまうことを恐れているだけなのです。だから、彼らはあなたたちに嘘を教える。あなたたちの魂に、偽りの首輪を付けようとする」
「ですが、わたくしは違う。わたくしは、あなたたちに真実を教えます」
彼女は、そこで一度言葉を切った。そして、百の絶望した魂に、初めての福音を告げる預言者のように、高らかに宣言した。
「――まず、スキルとは何か? スキルとは、あなたたちの『欲望』をダイレクトに反映させることができる、もう一つの魂です」
魂。
その、あまりにも根源的な言葉。生徒たちは、息を飲んだ。
「秩序派の巫女――鏡ミライは言うでしょう。『スキルとは可能性だ』と。……ええ、それも間違いではありません。ですが、あまりにも言葉が足りない。あまりにも、綺麗事すぎる」
カグヤは、続ける。その声は、次第に熱を帯びていく。
「可能性とは、何ですの? それは、ただそこに在るだけの、無色透明なものではありません。可能性とは、あなたたちの魂の最も深い場所で燃え盛る、『こうありたい』という渇望! 『こうでなければならない』という怒り! 『全てを、我が手に』という、純粋な『欲望』の炎! それこそが、可能性の本当の姿なのです!」
「そして、この魂は、驚くほど柔軟に、あなたたちのその欲望に反応して成長する事ができます。理論上、どんなにちっぽけで、どんなにくだらない能力であったとしても、あなたたちの欲望が本物であるならば、その力はどこまででも、どこまででも大きく育つことができる。それこそが、この世界の本当の姿――『混沌』を、最も純粋な形で体現している証なのです!」
彼女は、講堂の生徒の中から、一人の内気そうな少年を指さした。彼は、驚いてびくりと肩を震わせる。
「あなた。あなたのスキルは、指先から小さな火花を出すだけ。そうでしょう?」
「……は、はい……」
「あなたは、その力を『無価値だ』と、諦めている。……ですが、それは大きな間違いですわ」
カグヤは、まるで世界の真理そのものを語るかのように、静かに、しかし力強く言った。
「例えば、火を操作する【パイロキネシス】は、どこまで大きな火を出せるのでしょうか?」
「……え……?」
「あなたのそのちっぽけな火花も、その根源は同じ。ならば、その力を突き詰めていった時、その終着点には何があると思いますか?」
彼女は、そこで一度、悪戯っぽく微笑んだ。
「――そう、極論を言えば、『太陽』を体現することができるのです」
太陽。
その、あまりにも突飛で、あまりにも壮大すぎる言葉。
講堂のあちこちから、失笑が漏れた。
「……太陽、だと?」
「ふざけてる……」
「ただの火花が、太陽になるわけないだろ……」
その、あまりにも人間的な、常識に縛られた嘲笑。
それを聞いたカグヤは、しかし少しも気分を害した様子はなく、ただ楽しそうに、その金色の瞳を細めた。
「あら。笑っている方が、いらっしゃいますわね」
彼女の声は、穏やかだった。だが、その穏やかさの中には、絶対零度の確信が宿っていた。
「これは、冗談ではないのですよ?」
彼女は、自らの胸にそっと手を当てた。
「過去も、未来も、そしてありとあらゆる可能性の奔流すらも、その目で見通すこのわたくしが、話すことですのよ。これは、いつかどこかの世界線で、実際に起きること、あるいは既に起きたことの『事実』です」
その、巫女としての絶対的な宣言。
講堂の失笑が、ぴたりと止んだ。
誰もが、その言葉の持つ、常軌を逸した重みに気づいたのだ。
「――つまり、パイロキネシスの可能性の終着点は、自らが恒星となり、全てを焼き尽くす太陽神となること。はい、最強ですわ」
カグヤは、きっぱりと言い切った。
「それは、他のスキルも同じです。影に潜むあなたの力は、突き詰めれば、この宇宙の全ての闇そのものを支配する夜の神へと至るでしょう。機械と対話するあなたの力は、突き詰めれば、全ての電子情報を支配し、新たな機械生命体を生み出す創造主へと至るでしょう」
「そう。スキルを、自らの欲望のままに突き詰めていけば、どんな能力も、例外なく『最強』になりうるのです。なぜなら、全てのスキルは、その根源において等しく、この世界の理を捻じ曲げる『神の欠片』なのですから」
彼女は、両手を広げた。まるで、その小さな身体で、そこにいる全ての絶望した魂を抱きしめるかのように。
そして、彼女は、この日、この瞬間に、人類の歴史を永遠に変えることになる、最も甘美で、最も危険な福音を告げた。
「――スキルを持つ人間とは、すなわち、『神への道』を、その魂に生まれながらにして持っている存在なのです!」
神への、道。
その、あまりにも冒涜的で、あまりにも魅力的な言葉。
講堂にいる百の魂が、同時に、そして激しく震えた。
「俺たちが……?」
「神に……なれる……?」
「俺たちみたいな、社会のクズが……?」
彼らの、そのか細い、信じられないという呟き。
それが、引き金だった。
次の瞬間、講堂は、地鳴りのような、そしてこれまで彼らが一度も出したことのない、歓喜の咆哮に包まれた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
「神に! 俺たちが、神になれるんだ!!!!」
「そうだ! 俺は、ただの暗殺者じゃない! 俺は、死の神になるんだ!」
「私は、ただの泥棒じゃない! 全ての富を支配する、豊穣の女神になるんだ!」
彼らは、立ち上がっていた。拳を突き上げ、涙を流し、そして自らの内に眠っていた神性への覚醒に、ただ熱狂していた。
これまで彼らを縛り付けていた、劣等感も、罪悪感も、無力感も、全てが嘘のように消え失せていた。
代わりにそこにあったのは、剥き出しの、そして無限の野心と、万能感。
カグヤは、その光景を、恍惚とした表情で見つめていた。
(……ええ。それで、いいのですわ)
彼女は、心の中で呟いた。
(それこそが、あなたたちの本当の姿。偽りの秩序の檻から解き放たれた、気高き、神々の雛鳥……)
彼女は、自らが、今、この瞬間に、百柱の新しい神をこの世に産み落としたのだという、創造主としての喜びに打ち震えていた。
その、狂信的な熱狂の、ほんの片隅。
講堂の最も高い場所にある貴賓席の、深い影の中。
ケイン・コールドウェルが、腕を組みながら、静かにその光景を見下ろしていた。
彼の、その鉄仮面のような表情は、何の感情も映してはいなかった。
だが、その瞳の奥では、冷徹な戦略家としてのソロバンが、猛烈な勢いで弾かれていた。
(……素晴らしい。実に、素晴らしい扇動だ、巫女よ)
(これで、駒は揃った。ただの烏合の衆ではない。一人一人が、自らを神だと信じて疑わない、狂信的な兵士の軍団。……これならば、秩序派のあの英雄たちとも、十分に渡り合える)
(だが、問題は、この荒れ狂う神々の軍団を、誰が御すのか、ということだ)
彼の視線は、熱狂する生徒たちではなく、その中心で恍惚とした表情を浮かべる、ただ一人の少女へと注がれていた。
(……君か、陽南カグヤ。……あるいは、君自身が、この混沌の最初の生贄となるのか。……実に、面白い)
彼は、これから始まるであろう、血で血を洗う下克上の時代の到来を、静かに、しかし確信をもって予見していた。
混沌の揺りかごは、英雄ではなく、ただひたすらに、美しい怪物を産み出し続ける。
そのことを、彼は誰よりも、よく知っていたからだ。
講義は、終わった。
だが、それは授業の終わりではなかった。
それは、百の魂が、人間であることをやめ、神を目指すことを決意した、新たな創世記の始まりの鐘の音だった。
その鐘の音は、やがて世界中に響き渡り、鏡ミライが紡ぐ静かなる秩序の物語を、根底から揺るがしていくことになる。
二人の巫女の、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。