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第90話 英雄の教室と、可能性のプロトコル

 富士山麓の地下深く、IARO本部の一角に設けられた、神崎勇気のための私室。その部屋は、彼の魂をそのまま映し出したかのように、静かで、整然として、そしてどこか底知れない虚無の色を滲ませていた。壁一面を埋め尽くすのは、本棚ではない。世界中のあらゆる情報をリアルタイムで表示する、巨大なモニター群。彼は、この窓のない部屋から、自らが作り出した無数の「影」を通してのみ、外界と繋がっていた。

 その日、彼は珍しく制服以外の服に袖を通していた。シンプルな黒のタートルネックと、チノパン。それは、彼が「神崎勇気」という一人の青年だった頃に好んで着ていた、ありふれた服装。

 モニターには、相模湾沖に浮かぶ人工島、『希望ヶ島』のキャンパスのライブ映像が映し出されている。桜並木の下を、期待と不安の入り混じった表情で歩く、様々な人種の若者たち。


「……行きますか」

 彼は、誰に言うでもなく呟くと、すっと立ち上がった。

 次の瞬間、彼の身体はすうっと光の粒子へと変わり、そして跡形もなく完全に掻き消えた。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、モニターに映し出された、彼がこれから守り、そして導くべき生徒たちの、まだ何者でもない無垢な姿だけだった。


 §


 国立高等専門アルター学院、特別講義棟『ホール・オブ・プロメテウス』。

 その、古代ギリシャの円形劇場を模した巨大な階段教室は、百名の新入生たちの、熱気と緊張感で満ち溢れていた。

 彼らの視線は、一点。

 教壇の中央に、ただ一人静かに立つ、その青年の姿へと注がれていた。

 神崎勇気。

 伝説の英雄。神獣ガドラを単身で葬り去った、人類最強の切り札。

 そのあまりにも巨大な存在を前にして、生徒たちは息をすることすら忘れていた。


「……えー……」


 最初にその沈黙を破ったのは、その伝説の英雄自身の、あまりにも気の抜けた第一声だった。

 勇気は、まるで人前で話すのが苦手な転校生のように、少しだけ照れくさそうに、そしてどこか面倒くさそうに頭を掻いた。

「……どうも。えーっと、特別実技教官の、神崎です。まあ、勇気センセーとでも、好きに呼んでくれ」

 その、あまりにもフランクで、あまりにも英雄らしからぬ自己紹介。

 生徒たちの間に、困惑と、そしてほんの少しの親近感が混じった、くすくすという笑い声が広がった。


「でだ」と、勇気は続けた。その瞳が、ふっと真剣な光を宿す。

「今日、俺が君たちに教えるのは、戦闘訓練じゃない。スキルの制御方法でもない。……もっと、根本的な話だ」

 彼は、教壇の背後にある巨大なホログラフィック・ディスプレイに、一つの巨大な文字を映し出した。


『――スキルとは、何か?』


 その、あまりにも哲学的で、あまりにも根源的な問い。

 生徒たちは、ざわめいた。

「はい、そこの君」

 勇気は、一番前の席に座っていた、快活なポニーテールの少女を指名した。特待生の、佐々木莉奈だった。

「……はい! スキルとは、人類の一部に発現した、既存の物理法則を超越する特異能力のことです! IAROの公式定義によれば……」

 莉奈は、まるで教科書を暗唱するかのように、淀みなく答えた。

「うん、正解。百点満点の答えだ」

 勇気は、あっさりと頷いた。

「じゃあ、次。そこの……うーん、気配の薄い君」

 彼が次に指名したのは、教室の隅で、まるで存在そのものを消しているかのように座っていた、武田健太だった。

 健太は、びくりと肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら立ち上がった。

「……え、あ……。……そ、それは……。……呪い、だと……思います……」

 その、あまりにもか細く、あまりにも悲痛な答え。

 教室の空気が、一瞬だけ凍り付いた。

 だが、勇気は、その答えにも静かに頷いた。


「うん。それも、正解だ」

 彼は、言った。

「じゃあ、最後。そこの、遠いところから来たお嬢さん」

 彼が指名したのは、銀色の髪を持つ美しい少女、エララ・コヴァチだった。

 彼女は、おずおずと立ち上がると、その鈴を転がすような声で、しかしどこか怯えるように答えた。

「……奇跡……だと、思います。……神様が、与えてくれた……」

「うん。それもまた、正解だ」


 勇気は、満足げに頷いた。

 そして、彼は教壇の上をゆっくりと歩きながら、語り始めた。


「特異能力。呪い。奇跡。……どれも、正しい。だが、どれも不完全だ」

「俺が、この5年間、この力と向き合い続けて、たどり着いた答えは、もっとシンプルだ」

 彼は、一度言葉を切った。

 そして、百の魂の、そのど真ん中を射抜くように、静かに、しかし力強く言った。


「――スキルとは、『可能性』だ」


 可能性。

 その、あまりにもありふれた、しかしあまりにも深い言葉。

 生徒たちは、その言葉の意味を、必死に理解しようとしていた。


「君たちは、勘違いしている。スキルとは、最初から形が決まっている、便利な道具だと思っている。……違うんだ。スキルとは、ただの『素材』だ。それも、この世のどんな物質よりも柔軟で、どんな粘土よりも形を変えやすい、魂の素材なんだよ」

「そして、その可能性は、使い手の『解釈』次第で、いくらでもその意味を、その形を、広げることができる」


 勇気は、自らの胸を指さした。

「俺のスキル、【万能者の器】。IAROの公式データでは、『他者のスキルを視認し、自らの能力として模倣・再現する能力』と定義されている。……俺も、最初はそう思っていた。ただの、便利なコピー能力だと」

「だが、違ったんだ」

 彼の、その静かな瞳が、ふっと遠い目になった。

「5年前、俺は鬼頭丈二という男と戦った。彼のスキルは、【金剛力・不壊】。自らの肉体を、鋼鉄のように硬くする、単純で強力な能力だった。俺は、そのスキルをコピーした。そして、殴り合った。だが、勝てなかった。戦闘経験の差で、俺は追い詰められた」

「その時、俺は考えたんだ。コピーするって、一体どういうことなんだろうって。ただ、相手の猿真似をするだけなのか? 違うだろ、と。俺のこのスキルは、もっと別の『可能性』を秘めているんじゃないのかって」

「そして、俺は解釈を広げたんだ。俺の力は、ただコピーするだけじゃない。『コピーした能力を、一度、俺の中でバラバラに分解して、その構造を理解し、そして再構築する能力』なんだと」


 彼は、ホログラフィック・ディスプレイに、複雑な数式と、概念的な図形を映し出した。

「鬼頭のスキルを分解した結果、分かったことがある。彼の能力の本質は、『分子結合の強化』だった。それを応用して、俺は別のスキルと組み合わせた。ブラジルの少年からコピーしていた、Fランクの【植物育成】。その、植物の細胞を成長させるという因果に、鬼頭のスキルから抽出した『分子結合の強化』の概念を掛け合わせたんだ。……その結果、生まれたのが、あの鋼鉄の樹木だ」


 その、初めて明かされる神話の舞台裏。

 生徒たちは、息をすることも忘れ、その英雄の告白に聞き入っていた。


「横浜での、あの橋のテロの時も同じだ。敵のスキルは、【万物腐食】。物質を、分子レベルで崩壊させる能力だった。俺は、それをコピーした。だが、同じ力で対抗しても意味がない。だから、俺はまた解釈を広げたんだ」

「俺の力は、コピーするだけじゃない。『コピーした能力の因果を、プラスとマイナスをひっくり返すように、完全に『反転』させて使用する能力』でもあるんだと」

「腐食が、『奪う』力なら。その反転は、『与える』力だ。俺は、崩壊していく橋の構造を、逆に修復してみせた。ただ、解釈を変えただけでな」

「そして、あのサイキック・ノイズの敵と戦った時。俺は、さらに解釈を広げた。俺の力は、『特定のスキルを、無効化するためのスキルとして、解釈して使用することもできる』んだと。不協和音ディスコードという混沌の波動に対して、俺はその対極にある『調和ハーモニー』という概念を自分の内に作り出し、ぶつけることで、それを中和した」


 彼は、そこで一度言葉を切った。

 そして、驚愕に目を見開いている生徒たちに向かって、優しく微笑んだ。


「――そう。俺の【万能者の器】は、単なるコピー能力じゃない。それは、分解も、反転も、無効化もできる。無限に、その解釈を広げて使うことができる、ただの『可能性の器』なんだ」

「そして、それは君たちのスキルも、全く同じなんだよ」


 勇気は、教壇から降り、生徒たちの間をゆっくりと歩き始めた。

「スキル神様に与えられたスキルは、いわば『初期設定』だ。『君の力は、最初、こういうものだよ』という、ただのチュートリアルに過ぎない」

「だが、人がスキルを使い込むうちに、そのスキルは持ち主の魂の形に馴染み、そして『進化』していく。どういう方向に進化させるか。どういう風に、その可能性を広げていくか。それは、完全に君たち一人一人の、自由だ」

「炎を出すスキルは、ただ敵を焼くだけの力じゃない。それは、暗闇を照らす灯火にも、冷えた仲間を温める暖炉にも、そして固い金属を溶かして新たな道具を生み出す、鍛冶の槌にもなる」


 彼は、健太の前に立った。

 その、あまりにも真っ直ぐな視線に、健太はびくりと体を震わせた。

「君の、【振動励起】。それは、ただ物を壊すだけの力じゃない」

 勇気は、静かに言った。

「それは、音を生み出す力だ。音楽を、奏でる力だ。あるいは、大地の声を聞き、地震を予知する力かもしれない。あるいは、仲間との魂の周波数を合わせ、誰よりも深く共感する力かもしれない。……その可能性を、殺すも生かすも、君次第だ」

 彼は、健太の肩をぽんと叩いた。

 そして、次にエララの前に立つ。

「君の、【光彩幻惑】。それは、ただ人を騙すだけの力じゃない」

「それは、絶望に沈む人々に、美しい楽園の幻影を見せて、心を癒す力かもしれない。あるいは、光そのものとなって、誰にも見つかることのない絶対的な隠れ蓑となる力かもしれない。あるいは、光の情報を読み解き、この世界の全ての真実を知る、究極の千里眼となる力かもしれない。……君が、そう望むのなら」

 彼は、莉奈の前に立つ。

「そして、君の【運動量障壁】。それは、ただ敵の攻撃を防ぐだけの力じゃない」

「それは、暴走する車から子供を守る盾にも、崩れ落ちる瓦礫から仲間を庇う壁にもなる。……だが、解釈を広げれば、それは『運動量』そのものを支配する力だ。敵の運動量をゼロにして動きを止めたり、逆に自らの運動量を無限大に増幅させて、光の速さで戦場を駆け巡ることだって、可能になるかもしれない」


 彼は、再び教壇へと戻った。

 教室は、静まり返っていた。

 だが、その静寂は、もはや恐怖や緊張からくるものではなかった。

 それは、自らの内に眠る、あまりにも広大な可能性の宇宙を前にした時の、畏怖と、そして燃えるような興奮からくる静寂だった。


「――個人的には」

 勇気は、最後の締めくくりとして、こう言った。

「君たちが、最初に覚えるべきなのは、『反転』の解釈だと思う。それが、一番分かりやすくて、応用が利くからな」

 彼は、手をかざした。

 その手のひらの上に、小さな、しかし灼熱の炎が、ゆらりと灯った。彼が、かつて誰かからコピーした、名もなきパイロキネシスの力。

「例えば、この炎。これを、ただの『熱エネルギー』だと解釈する。そして、そのベクトルを、反転させる。『熱』の、反対は?」

「……『冷気』……」

 誰かが、呟いた。

「正解だ」

 勇気が、ふっと息を吹きかけると、その手のひらの中の炎が、一瞬で凝固し、美しい氷の結晶へとその姿を変えた。

 教室から、どよめきが上がる。

「さらに、解釈を広げよう。『熱』とは、分子が激しく『動いている』状態だ。その反対は、『静止している』状態。だが、その中間に、何がある?」

「『動く』と、『止まる』の中間……?」

「そう。例えば、『流れる』、とかな」

 彼が、そう呟いた瞬間。

 手のひらの中の氷の結晶が、さらさらと溶け出し、そして清らかな水の球体となって、その場に浮かんだ。

 炎が、氷に。

 氷が、水に。

 ただ、解釈を変えただけで。

 それは、もはや魔法ではなく、世界の理を書き換える、神の御業だった。


「――これが、スキルだ」

 勇気は、言った。

「これが、君たちがその手に握りしめている、無限の可能性の、ほんの入り口だ」

「今日の講義は、ここまで。……次回までに、自分のスキルを『反転』させたら、どんな面白いことができるか、一人一つ、考えてくるように。……それが、最初の宿題だ」


 彼は、それだけ言うと、来た時と同じように、実に軽い足取りで教室を後にした。

 後に残されたのは、絶対的な静寂。

 そして、その静寂のど真ん中で、自らの掌を、まるで初めて見る奇跡の道具のように見つめている、百の若き魂たちだけだった。

 彼らの、本当の物語は、今、確かに始まった。

 自らの可能性を、自らの意志で、無限に拡張していく、壮大な物語が。

 そして、そのあまりにも眩しい光景を。

 IAROの地下深くで、黒田が、静かな、しかし確かな感動と共に、見守っていた。



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