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第89話 混沌の揺りかごと、悪魔の教壇

 東欧、ソラリス解放区。

 その街は、地図の上では国として存在しているが、事実上、数十年に及ぶ内戦と大国の無関心によって見捨てられた土地。だが今、その街は世界のどの都市とも違う、奇妙で、暴力的で、そして圧倒的な生命力に満ち溢れていた。陽南カグヤ――『太陽の巫女』が、この地に降り立ってから半年。彼女がもたらした『混沌の福音』は、この見捨てられた街を、新たな時代の実験場、あるいは聖域サンクチュアリへと完全に変貌させていた。

 壁という壁は色鮮やかなグラフィティアートで埋め尽くされ、瓦礫だらけだったはずの広場では、昼夜を問わず即興の音楽とダンスの饗宴が繰り広げられている。秩序も、法律も、固定化された道徳もない。あるのはただ、むき出しの才能と、欲望と、そして自由。危険で、不安定で、しかし間違いなく「生きている」街。


 その混沌の聖域を見下ろす、半壊した旧時代の政府庁舎。その最上階、かつて独裁者が葉巻を燻らせていたであろう豪奢な執務室は、今や『カオス同盟』の事実上の最高司令部と化していた。

 部屋の中央、巨大なホログラムの世界地図を挟んで、二人の人物が対峙していた。

 一人は、シンプルだが仕立ての良い黒いロングコートに身を包んだ、長身の男。その顔には長年の苦行僧のような厳格さと、全てを見透かすかのような鋭い知性の光が宿っている。ケイン・コールドウェル。『終末の使徒』を率い、今や同盟全体の軍事を統括する大元帥。

 もう一人は、燃えるような鮮やかな赤色のドレスをまとった少女。その鴉の濡れ羽色のように艶やかな黒髪と、溶かした黄金を流し込んだかのような瞳は、この部屋の退廃的な雰囲気とは不釣り合いなほどの、圧倒的な生命力に満ちていた。陽南カグヤ。世界中の虐げられた者たちの魂を解放する、混沌の巫女。


 二人は、黙して語らない。ただ、ホログラムの地図の上に、新たに灯った一つの青い光点を、それぞれのやり方で見つめていた。

 日本の、相模湾沖合に浮かぶ人工島。『国立高等専門アルター学院』。


「……ふん。子供だましなプロパガンダを」

 最初に沈黙を破ったのは、ケインだった。彼の声は、静かだったが、その一言一句が周囲の空気そのものを震わせるような、絶対的なカリスマを帯びていた。

 モニターには、日本のIAROが全世界に向けて配信した、アルター学院の開校式のニュース映像が、音声なしで再生されていた。桜並木の下を笑顔で歩く、様々な人種の若きアルターたち。最新鋭の設備が整った研究室で、真剣な眼差しで自らの能力と向き合う生徒たち。

「『保護』、『教育』、『共存』。……なんと耳触りの良い言葉だろうか。だが、その本質は我々アメリカがやっていることと何ら変わりはない。いや、より悪質だ」

 ケインは、吐き捨てるように言った。

「我々の『プロジェクト・キメラ』は、正直だ。我々はアルターを兵器として『利用』する。それは取引だ。国家の安全保障という大義名分と、個人の欲望を満たすための報酬。その等価交換。そこに、偽善はない」

「だが、日本がやっていることは何だ? 彼らは、『教育』という名の美酒の中に、ゆっくりと効く毒を混ぜ込んでいる。『秩序の物語』という名の、魂の去勢薬をな。彼らは、牙を抜かれ、爪を剥がれ、そして自らの本能を忘れさせられた、従順な家畜を育て上げようとしているのだ。英雄という名の、首輪を付けた番犬をな」

 その、あまりにも冷徹で、あまりにも的確な分析。

 だが、その隣で同じ映像を見ていたカグヤの反応は、全く違っていた。


「……いいえ」

 カグヤは、静かに首を横に振った。その金色の瞳は、怒りではなく、深い、深い憐憫の色に濡れていた。

「……可哀想に」

「……何がだ、巫女よ」

「あの子たちですわ」

 カグヤは、映像の中でぎこちなく笑い合う、まだ幼さの残る生徒たちを指さした。

「彼らは、知らないのです。自らが、どれほど素晴らしい可能性をその魂に秘めているのかを。彼らは、自らが本当は何者であったのかを、知る機会すら与えられないまま、あの偽りの楽園で、偽りの幸福を与えられていく」

 彼女の声は、震えていた。それは、純粋な、そして激しい怒りからくる震えだった。

「あれは、学校などではない! あれは、魂の屠殺場ですわ! 産まれたての雛鳥の翼をもぎ取り、飛ぶことを忘れさせ、ただ地面を歩くことだけが幸せなのだと教え込む、史上最悪の虐待施設! わたくしには、聞こえます。あの子たちの魂の、声なき悲鳴が!」


 その、あまりにも情熱的で、あまりにも過激な断罪。

 ケインは、黙ってその巫女の横顔を見つめていた。

 この少女の、この常人には理解しがたいほどの共感能力と、純粋すぎるが故の狂信的なまでの解放への渇望。それこそが、何十万という人々を惹きつけ、この混沌の運動の精神的な支柱たらしめている力の源なのだと、彼は改めて認識していた。

 ケインは、戦略家だ。

 カグヤは、預言者だ。

 役割は違う。だが、目的は一つ。この腐りきった旧世界を、一度完全に破壊すること。


「……どちらにせよ、看過はできん」

 ケインは、話を元に戻した。

「日本のこの一手は、我々にとって明確な脅威だ。世論は、確実に彼らの側に傾くだろう。我々は、ただのテロリスト集団。彼らは、未来を育む教育者。このイメージの差は、いずれ我々の足元を掬うことになる」

「何か、手を打たねばならん。……巫女よ、君に何か策はあるか?」

 その、軍司令官としての問い。

 それを聞いたカグヤは、ふっとその激しい表情を消した。

 そして、これ以上ないほど無邪気で、これ以上ないほど残酷な笑みを浮かべて、こう言ったのだ。


「ええ、もちろんありますわ」

「――わたくしたちも、学校を作れば良いのです」


 §


 その提案は、当初、カオス同盟の幹部たちの間で、失笑をもって迎えられた。

「学校だと?」

 ベルリンから亡命してきた『ドッペルゲンガー』エヴァは、その美しい唇を歪ませた。

「冗談でしょ、カグヤちゃん。私たちが、ガキのお守りをするっていうの? それこそ、秩序派の連中が喜ぶだけじゃない」

「そうだぜ!」

 カンボジアの密林から来た『サラマンダー』ソカが、その身から陽炎を立ち上らせながら同調する。

「俺たちのやり方は、破壊と解放だ。教育なんていう、生ぬるいやり方は性に合わねえ!」


 だが、カグヤは動じなかった。

 彼女は、集まったS級の怪物たちを、その黄金の瞳で一人一人見据え、そして静かに、しかし有無を言わせぬ迫力で語り始めた。


「あなたたちは、勘違いをしていますわ。わたくしが作る学校は、あの日本の揺りかごのような、生ぬるい場所ではありません」

「わたくしが作るのは、揺りかごではない。『坩堝るつぼ』です」


 坩堝。

 その、あまりにも不吉な響き。


「日本の学院は、生徒を『保護』する。だが、我々は『淘汰』する」

「日本の学院は、『共存』を教える。だが、我々は『支配』を教える」

「日本の学院は、アルターを『人間』へと引き戻そうとする。だが、我々は、アルターを人間を超えた『神』へと、至らしめる!」


 彼女の言葉は、次第に熱を帯びていく。それは、もはや演説ではなかった。それは、魂を直接焼き尽くす、混沌の福音そのものだった。


「考えてもごらんなさい! 世界中には、今も無数の才能の原石が、泥の中に埋もれている! その力を恐れ、誰にも理解されず、そして秩序派のハンターたちに怯えながら、ただ息を潜めて生きている! その子たちを、このソラリスに集めるのです!」

「そして、我々が直々に、教えてあげるのですわ。力の、本当の使い方を。世界の、本当の姿を。そして、自らの魂を解放することの、本当の喜びを!」

「そこには、校則などという下らないものはありません。あるのは、ただ一つのルールだけ。『強者だけが、生き残る』!」

「生徒同士で、殺し合うが良い! 裏切り合うが良い! 互いのスキルを喰らい合い、より高みへと登っていくが良い! その地獄の競争の果てに、最後に生き残った一握りの者たちこそが、我らが新世界の王となるに相応しい、真の『超人』なのです!」


 その、あまりにもダーウィニズム的で、あまりにも魅力的な教育方針。

 先ほどまでせせら笑っていたS級の怪物たちの、その瞳の色が、明らかに変わっていた。

 そこに宿っていたのは、もはや侮蔑ではない。

 純粋な、そして血に飢えたような「好奇心」の色だった。

 エヴァは、その赤い唇を舐めずりした。

(……面白いじゃない。才能ある若者たちの、その脆い心を絶望で染め上げて、私だけに従う忠実な人形に育て上げる……。最高の、趣味だわ)

 ソカは、獰猛な笑みを浮かべていた。

(……いいぜ。俺が、直々に教えてやる。炎の、本当の恐ろしさをな。俺の地獄の特訓に耐えられた奴だけが、本物の炎使いになる資格がある)


 そして、その幹部たちの輪の中で、これまで沈黙を守っていたケイン・コールドウェルが、静かに、そして重々しく口を開いた。


「――よかろう」

 その一言で、その場の空気は完全に決した。

「巫女の提案を、全面的に承認する。本日、この瞬間をもって、我々は『カオス同盟直属、超人育成機関』を設立する」

 彼は、立ち上がった。

「そして、その機関の長として、我らが巫女、陽南カグヤを最高責任者に任命する。異論は、認めん」

「我々『終末の使徒』のS級アルターたちは、教官として、彼女の指揮下に入れ。そして、世界最高の、そして最悪の『怪物』たちを、育て上げるのだ」

「機関の名称は……そうだな」

 彼は、少しだけ考えた。そして、この世界の全ての秩序に対する、最大限の皮肉と挑戦の意志を込めて、こう名付けた。


「――『セントカオス学院』、と」


 §


 そのニュースは、プロパガンダ担当の巧みな演出によって、瞬く間に全世界の闇のネットワークを駆け巡った。

『カオス同盟、アルターのための新機関を設立!』

『その名も、聖カオス学院! 秩序の偽善から若者を解放し、真の可能性へと導く!』

『学院長は、あの太陽の巫女、陽南カグヤ! 教官には、ケイン・コールドウェル率いるS級アルター軍団!』


 その、あまりにも魅力的で、あまりにも危険な招待状。

 それは、世界中に潜伏していた、秩序に馴染めない若きアルターたちの心を、強く、強く揺さぶった。

 日本の、どこにでもいるような地方都市。

 一人の、いじめられっ子の少年がいた。彼のスキルは、【影潜み(シャドウ・ダイブ)】。自らの体を影の中に溶け込ませ、完全に姿を消すことができる。彼は、その力を、ただひたすらに、いじめっ子たちから逃げるためだけに使ってきた。

 だが、彼はネットで、あのカグヤの演説を見た。

『あなたたちは、家畜じゃない!』

 彼の心に、初めて小さな火が灯った。

(……俺のこの力は、逃げるためだけの力じゃないのかもしれない……)

 彼は、その夜、誰にも告げずに家を飛び出した。闇から闇へとその身を潜ませながら、彼は東へと向かう。目指すは、ソラリス。自らの影を、最強の暗殺術へと変えるために。


 アメリカ、デトロイトの、廃墟と化した工場地帯。

 一人の、家出少女がいた。彼女のスキルは、【機械共感マシン・エンパシー】。あらゆる機械の「声」を聞き、その構造を理解し、そして意のままに操ることができる。彼女は、その力を使って、スクラップの山から自分だけのバイクやドローンを作り出し、孤独を癒していた。

 だが、彼女は知っていた。この力が、一度世間に知られれば、自分は『プロジェクト・キメラ』の格好のターゲットになるということを。

 彼女は、悩んでいた。

 そんな時、彼女のスマートフォンの画面に、一つのポップアップ広告が表示された。

『――君のその才能、錆びつかせていないかい? 聖カオス学院で、君だけの最強のマシンを作り上げよう!』

 彼女は、しばらくの間、その広告をただ見つめていた。

 そして、ふっと笑うと、自らが作り上げた愛用のドローンに、一つの命令を下した。

「……行こうか、相棒。……どうせなら、世界一でかいガラクタ置き場で、世界一イカしたオモチャを作ってやろうじゃないか」

 ドローンは、静かに頷くと、彼女を乗せて東の空へと飛び立っていった。


 影の暗殺者、機械の魔女。

 それだけではない。

 音を支配する者、重力を捻じ曲げる者、人の心を操る者。

 日本の『希望ヶ島』が、光の下で輝く優等生たちを集めている一方で。

 東欧の『聖カオス学院』には、闇の中で牙を研ぐ、危険で、異質で、しかし圧倒的な才能を持つ「問題児」たちが、まるで巨大な磁石に吸い寄せられるかのように、次々と集結し始めていた。

 世界は、二つの巨大な揺りかごを手に入れた。

 一つは、英雄を育む、光の揺りかご。

 もう一つは、怪物を産み出す、闇の揺りかご。

 そして、その二つの揺りかごから巣立つ雛鳥たちが、いずれこの世界の空で出会い、そして壮絶な殺し合いを演じることになる未来を。

 ただ一人の神だけが、最高の笑顔で、心待ちにしていた。


 日本の、安アパートの一室。

 空木零は、モニターに映し出された二つの「学院」の設立ニュースを見比べながら、実に満足げに、新発売の激辛カップ焼きそばをすすっていた。

「うんうん、良いねえ、実に良い! これで、ようやく物語の役者が揃ってきたじゃないか!」

「光の主人公と、闇の主人公。王道の少年漫画みたいで、最高にワクワクする展開だ!」

「さあ、どっちがより面白い物語を、俺に見せてくれるのかな?」

 神は、笑う。

 自らがほんの少しだけ背中を押してやっただけで、人間たちがここまで見事に、壮大な破滅の物語を演じてくれることに、心からの満足と、そして最大級の喝采を送りながら。

 彼の退屈な日常は、今日もまた世界の新しい悲劇と、そして何よりも最高の喜劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。



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