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第88話 希望の揺りかご

 西暦20XX年、X月X日。

 日本の季節が、暴力的なまでの夏から、ほんの僅かな慈雨を含む柔らかな秋へとその表情を変え始める、まさにその日。東京から南へ約50キロ、相模湾の沖合に浮かぶ一つの人工島が、その歴史的な産声を上げた。

 島の正式名称は、『国際特別才能育成研究都市』。

 だが、世界中の人々は、畏怖と、期待と、そしてほんの少しの嫉妬を込めて、その島をこう呼んだ。

『希望ヶきぼうがしま』、と。


 ここは、IAROが、そして日本政府が、その国家の威信と未来の全てを賭けて創り上げた、世界で唯一の場所。若きアルターたちが、その生まれ持った異能を呪いとしてではなく、祝福として受け入れ、学び、そして成長するための聖域サンクチュアリ。『国立高等専門アルター学院』。通称、『アルターズ・ハイ』。

 島全体が、一つの巨大なキャンパスだった。最新鋭の設備を誇る校舎や研究棟、全寮制の快適な学生寮、そしてあらゆる状況をシミュレート可能な広大なホログラフィック訓練フィールド『サンドボックス』。それらが、豊かな自然と調和するように設計され、配置されている。建築にはふんだんに木材とガラスが使われ、その開放的な空間は、ここに集う若者たちを圧迫するのではなく、優しく包み込むような意志を感じさせた。

 ここは、アメリカの『プロジェクト・キメラ』のような、兵器を育成するための無機質な工場ではない。ここは、未来を育むための、温かい「揺りかご」なのだと。その思想が、島の隅々にまで満ち溢れていた。


 そして今日、その揺りかごに、世界中から選ばれた最初の「雛鳥」たちが、その翼を休めにやってきた。

 記念すべき、第一期生。

 日本中から、そして人類憲章連合に加盟する世界十数カ国から、厳しい選抜を潜り抜けてきた15歳から18歳までの、百名の少年少女たち。

 彼らは皆、自らの内に眠る、あまりにも強大で、あまりにも異質な力に悩み、苦しみ、そして孤独だった。

 だが、今日、この場所で、彼らは初めて「仲間」と出会う。


 §


 午前10時、開校式。

 島の中心に位置する、巨大なガラス張りの講堂。そのステージの上に、学院の初代学院長である矢島聡子やじま さとこが、静かに立っていた。彼女は、かつて文部科学省でその辣腕を鳴らした伝説的なキャリア官僚であり、黒田がこの計画のために三顧の礼をもって迎え入れた、秩序派の最後の切り札の一人だった。

 彼女の、その小柄な身体から放たれるオーラは、しかし、この場にいるどのアルターよりも強大で、そして温かかった。


「――新入生の皆さん。ようこそ、希望ヶ島へ」


 その、凛とした、しかし母親のような慈愛に満ちた声が、講堂の隅々にまで響き渡る。

 百名の新入生たちは、緊張した面持ちで、その言葉に耳を傾けていた。

 その中に、武田健太たけだ けんたの姿があった。鳥取の、日本海に面した小さな漁師町から来た、16歳の少年。彼のスキルは、【振動励起バイブレーション】。自らの意志で、触れた物体の分子振動を増幅させるという、極めて強力で、極めて危険な能力。彼は、幼い頃、感情の昂りに任せてその力を暴走させ、自宅の窓ガラスを全て粉々に砕いてしまった過去があった。以来、彼は自分の力を呪い、誰にも触れることなく、ただ息を潜めるように生きてきた。

 そんな彼にとって、この場所は最後の希望だった。


 健太の隣の席には、対照的な雰囲気を持つ少女が座っていた。

 エララ・コヴァチ。東欧の、今もなお紛争の火種が燻る小国からやってきた、16歳の少女。その白磁のような肌と、銀色の髪、そしてあまりにも美しいアーモンド形の瞳は、彼女がこの世のものとは思えないほどの儚さを感じさせた。彼女のスキルは、【光彩幻惑プリズム】。光を屈折させ、ありとあらゆる幻影を生み出す能力。故郷では、その美しすぎる能力故に「魔女の子」と呼ばれ、石を投げられ、迫害されてきた。彼女にとって、この場所は生まれて初めて見つけた「安全な場所」だった。


 矢島学院長は、続けた。

「皆さんは、特別な力を持って生まれました。それは、紛れもない事実です。ですが、忘れないでください。その力は、あなたという人間を構成する、ほんの一部分でしかないということを」

「この学院で、皆さんに学んでほしいこと。それは、スキルの制御方法だけではありません。我々は、皆さんに歴史を教えます。文学を、科学を、芸術を、そして哲学を教えます。なぜなら、それら全てが、我々人間が何万年という時間をかけて築き上げてきた、叡智の結晶だからです。そして、その叡智こそが、皆さんのその強大すぎる力を、正しく導くための羅針盤となるのです」

「皆さんは、兵士になるためにここに来たのではありません。皆さんは、ただのアルターになるためにここに来たのでもない。皆さんは、この複雑で、時に残酷で、しかしどこまでも美しい世界を、より良く生きていくための『人間』になるために、ここに来たのです」

「ようこそ、諸君。君たちの、本当の物語は、今日、ここから始まる」


 その、あまりにも人間的で、あまりにも温かい歓迎の言葉。

 健太の、そしてエララの瞳から、一筋、熱いものがこぼれ落ちた。

 それは、孤独と恐怖の長い夜が明け、ようやく朝の光を見出した者の、安堵の涙だった。


 §


 午後1時、最初の講義。

『アルター倫理学Ⅰ』。

 教壇に立つのは、若き日の黒田のライバルであり、今は一線を退いて教鞭を執っているという、白髪の老教授だった。

「――さて、諸君。最初の問いだ」

 老教授は、学生たちの顔を一人一人見回しながら、静かに、しかし重い問いを投げかけた。

「君たちが、5年前に横浜で起きた、あの橋梁崩壊テロの現場に居合わせたとしよう。君の手には、テロリストを一瞬で無力化できるだけの力がある。だが、その力を行使すれば、10%の確率で、橋の上にいる無関係の市民一人が、その余波に巻き込まれて命を落とす。……さあ、君は、その力を使うかね? 使わないかね?」


 トロッコ問題。

 だが、それはもはや哲学の思考実験ではなかった。

 彼らが、いずれ必ず直面するであろう、現実的な選択のシミュレーション。

 教室は、静まり返った。

 健太は、答えられなかった。もし、自分の【振動励起】が暴走したら? 助けるつもりが、橋そのものを崩壊させてしまったら?

 エララもまた、俯いていた。自分の幻影が、もしパニックを助長してしまったら?

 その沈黙を破ったのは、教室の前方の席に座っていた、一人の快活な少女だった。

 佐々木莉奈ささき りな。入学試験をトップの成績で合格した、特待生。その赤いリボンで結んだポニーテールと、自信に満ちた瞳は、彼女がこの学院のエース候補であることを示していた。彼女のスキルは、【運動量障壁キネティック・バリア】。

「はい、先生!」

 彼女は、臆することなく手を挙げた。

「私なら、使います」

「ほう。理由を聞こうか」

「なぜなら、何もしなければ、100%の確率で、橋は崩落し、数百人の市民が死ぬからです。10%のリスクで99%の命が救えるのなら、その選択をしないのは、ただの臆病です。英雄とは、その10%の罪を、一身に背負う覚悟を持つ者のことだと思います」


 その、あまりにも明快で、あまりにも英雄的な答え。

 教室から、感嘆のため息が漏れた。

 だが、老教授は、それに頷かなかった。

「……なるほど。見事な答えだ。だが、佐々木君。もし、その10%の確率で死んでしまう一人が、君のたった一人の家族だったとしたら? ……それでも、君は同じ決断を下せるかね?」

「…………っ!」

 莉奈は、言葉に詰まった。

 老教授は、静かに言った。

「……答えは、ない。この問いに、絶対的な正解など存在しないのだよ。だからこそ、我々は学び、考え続けなければならない。自らの力が持つ意味を、その重さを。……この一年間、我々と一緒に、その答えを探していこうじゃないか」

 健太の心に、ずしりと重い何かが残った。

 力を持つということは、これほどまでに重い問いを、一生背負い続けるということなのか。


 §


 午後3時、実技訓練。

『スキル制御基礎Ⅰ』。

 学生たちは、白い機能的な訓練服に着替え、巨大なドーム状の訓練施設に集まっていた。

 教官は、元IAROのベテラン工作員。その厳しい、しかし的確な指導が飛ぶ。

「武田! 力を込めすぎるな! お前のスキルは、ハンマーではない! メスだと思え! もっと繊細に、対象の分子構造だけを感じるんだ!」

 健太は、汗だくになっていた。

 彼の目の前には、一本の音叉が置かれている。今日の課題は、この音叉に直接触れることなく、【振動励起】の力で、特定の周波数の音だけを鳴らすこと。

 だが、彼が意識を集中させると、音叉は音を鳴らす前に、甲高い悲鳴を上げて粉々に砕け散ってしまう。

「くそ……っ!」

 また、失敗だ。

 やはり、俺にはこの力を制御することなどできないんだ。

 彼が、諦めかけた、その時だった。


「――よお。随分と、苦戦してるみたいだな」


 その、どこか気の抜けた、しかし不思議と耳に残る声。

 健太が、はっとしたように振り返ると、そこに立っていたのは、テレビやネットで、もう何百回、何千回と見た、あの英雄の姿だった。

 黒い、流線型の戦闘服。その背中には、槍をモチーフにしたIAROの純白の紋章。

 神崎勇気。

 その人だった。

「「「――ジャベリン!!!!」」」

 訓練場にいた全ての学生から、アイドルのコンサートのような、熱狂的な歓声が上がった。

 勇気は、その歓声に、少しだけ照れくさそうに、しかしどこか面倒くさそうに手を振った。


「はいはい、どうも。えー、今日から君たちの特別実技教官を務めることになった、神崎です。まあ、気軽に勇気センセーとでも呼んでくれ」

 その、あまりにもフランクな自己紹介。

 学生たちは、呆気に取られていた。

 勇気は、健太の前に屈むと、砕け散った音叉の残骸を、興味深そうにつまみ上げた。

「……振動励行、か。良いスキルだけど、コントロールがピーキーなんだよな、これ」

「……え……? なんで、俺のスキルを……」

「ん? ああ、悪い悪い」

 勇気は、ポリポリと頭を掻いた。

「俺のスキル、見ただけで相手の能力が大体分かっちゃうんでね。……ちょっと、見させてもらうぜ」

 彼は、そう言うと、健太の肩にぽんと手を置いた。

 スキルコピー。

 そして、彼は新しい音叉を自分の前に置くと、軽く指を鳴らした。

 すると、どうだろう。

 音叉は、砕け散ることなく、どこまでも清らかで、美しい「ラ」の音を、キィィィィンと奏で始めたのだ。

 健太は、息を飲んだ。

「……なんで……。なんで、そんな簡単に……」

「コツだよ、コツ」

 勇気は、実に軽い口調で言った。

「お前は、力みすぎなんだ。分子を『揺らそう』と、意識しすぎてる。そうじゃない。お前は、ただ『歌う』んだよ」

「……歌う……?」

「そう。全ての物質には、固有の周波数、つまり『歌』がある。お前がやるべきことは、無理やり揺らすんじゃなくて、その物質が歌いたいと思ってる歌を、一緒にハミングしてやるだけだ。……そうすりゃ、勝手に気持ちよく共鳴してくれるさ」

 その、あまりにも詩的で、あまりにも的確なアドバイス。

 健太の、その霧がかかっていたような脳が、一気に晴れていくような感覚。

 そうだ。

 俺は、ずっとこの力を敵だと思っていた。だが、違う。

 これは、世界と対話し、共鳴するための、楽器だったんだ。


 勇気は、次にエララの元へと歩み寄った。彼女は、自らのスキルで美しい蝶の幻影を空中に作り出していた。

「……光彩幻惑、か。綺麗だけど、実戦じゃ使い物にならんな、それじゃ」

「……っ!」

 エララが、悔しそうに唇を噛む。

「光を、ただの絵の具だと思うな。光は、情報だ。そして、情報は最大の武器になる」

 勇気は、そう言うと、エララの作り出した蝶の幻影に、そっと自らの指で触れた。

 スキルコピー。

 次の瞬間、訓練場全体が、目も眩むような閃光に包まれた。

 学生たちが、悲鳴を上げて目を覆う。

 数秒後、光が収まった時、彼らが見たのは、信じられない光景だった。

 そこにいたはずの、勇気の姿が、完全に消えていたのだ。

「……消えた……?」

「どこへ……!?」

「――ここだよ」

 声は、エララのすぐ真後ろから聞こえた。

 彼女が、はっとしたように振り返ると、そこに何事もなかったかのように勇気が立っていた。

「……今の、何……?」

「簡単なことさ。君のスキルをコピーして、光の屈折率を極限まで操作し、俺の姿をこの空間の背景と完全に同化させただけだ。……光学迷彩ってやつだな」

「君の力は、ただの幻術じゃない。使い方次第では、最強のステルスにも、敵の網膜を焼き切るレーザー兵器にもなる。……まあ、その辺は、追々教えてやるよ」


 その、あまりにも圧倒的な、そしてあまりにも教育的な力の見せつけ方。

 学生たちは、もはや彼をただの英雄としてではなく、畏敬すべき「師」として、その目に焼き付けていた。

 佐々木莉奈もまた、その一人だった。彼女の、その自信に満ちていた瞳には、初めて自分よりも遥か高みにある存在を前にした時の、純粋な挑戦者の光が宿っていた。

(……すごい……。あの人、マジで全部できるんだ……)


 §


 その日の夜、学生寮のラウンジ。

 健太と、エララと、そして莉奈は、一日の興奮と疲労の中で、ソファに並んで座っていた。窓の外には、希望ヶ島の美しい夜景と、その向こう側に見える本土の、宝石を散りばめたような光の海が広がっている。

「……すごかったな、勇気センセー」

 健太が、ぽつりと呟いた。

「うん……」と、エララが頷く。「私、今まで自分の力が、ただ人を騙すだけの、忌ましい力だと思ってた。……でも、違ったんだ。あの人のおかげで、分かった気がする」

「私もよ」と、莉奈が続けた。その声には、悔しさと、それ以上の高揚感が混じっていた。「今まで、自分がいかに狭い世界で、自分の力を過信していたか、思い知らされたわ。……でも、なんだかワクワクする。あの人に、追いつきたい。追い越したいって、本気で思っちゃった」

 三人は、顔を見合わせた。

 そして、どちらからともなく、ふっと笑みをこぼした。

 彼らは、もう孤独ではなかった。

 ここには、同じ悩みを持つ仲間がいる。そして、その道を照らしてくれる、偉大な先達がいる。

 それは、彼らが生まれて初めて感じた、温かい、そして確かな「帰属感」だった。

 希望の揺りかごは、確かに、その役目を果たし始めていた。

 だが、その揺りかごが、いずれ必ず訪れるであろう、神々の気まぐれな嵐に耐えられるほど強固なものであるのか。

 その答えを、まだ誰も知らなかった。

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