第87話 神の退屈と、ろくでもない福音
空木零――今や自らを定義するにあたって、その古ぼけた人間の名前を使うことはほとんどないが、敢えて言うならば空木零――は、深く、深く、魂の底から退屈していた。
彼の意識は、物理的な肉体が眠る日本の安アパートの一室から、無数の並行宇宙、無限の可能性のタペストリーへと自由に飛翔する。それは神の視点。全能の権能。だが、その全能性こそが、彼の退屈の根源だった。
「いやー、盛り上げてくれるのは助かるなあ。俺が何もしなくても」
彼は、壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群に映し出された世界の現状を眺めながら、実に楽しそうに、しかしその瞳の奥は全く笑っていないまま呟いた。
左のモニターには、日本の『国立高等専門アルター学院』の最新のプロモーション映像が流れている。桜並木の下、希望に満ちた表情で語り合う若きアルターたち。その中心で穏やかに微笑む神崎勇気。実に美しい。実に、偽善的だ。
右のモニターには、アメリカの『プロジェクト・キメラ』によって「招聘」されたアルターたちの、過酷な訓練風景が映し出されている。炎を操る青年が、模擬市街地を焼き尽くし、壁をすり抜ける男が、仮想の敵国の重要施設へと潜入していく。実に合理的で、実に、人間的だ。
そして中央のモニターには、その二つの巨大な物語が世界の辺境で衝突する、代理戦争の生々しい映像が、リアルタイムで流れ続けている。
秩序と混沌。教育と兵器化。理想と現実。
人間たちは、見事に二つの陣営に分かれ、互いの正義を信じ、血を流している。
面白い。実に面白い。
彼は、独りごちた。
黒田は苦悩し、トンプソンは決断し、勇気は葛藤し、巫女たちは自らの信者を導く。そのあまりにも美しい調和、その完璧なまでの物語の定石。
「でもまあ、忙しいからねえ、こっちも」
彼は、まるで言い訳でもするかのように呟くと、オフィスチェアをくるりと回転させた。
そうだ。忙しいのだ。
彼は、この世界の三柱の神々――邪神、スキル神、そして天秤の女神――その全ての役を、たった一人で演じなければならないのだから。
「まずは、スキル神としてのお仕事、と」
彼は、意識を切り替えた。彼の思考が、この世界の時間の流れ、その巨大な蛇の如き因果律の奔流へとアクセスする。
「スキル神として、最近ちょっと仕事サボりすぎだよなあ。黒田ちゃんたちに、『本当にあの神様、秩序派の味方なのか?』って疑われ始めても困るし。かと言って、今から新しい善のアルターを探して、一人一人夢枕に立ってスキルを授けるなんて、面倒くさい……」
彼の脳裏に、完璧な解決策が閃いた。
「ああ、そっか。過去に、やっとけばいいんだ」
スキル【時空制御】。
彼は、時間の川を遡った。1年前、3年前、5年前。彼の意識は、物理法則を無視して過去へと飛翔する。
そして、彼は「見つけ出す」。
世界中の、名もなき、しかしその魂に確かな「善」の光を宿した人間たちを。
例えば、アルゼンチンの、ブエノスアイレスの片隅。古びた図書館で、ただ黙々と古い本を修復し続ける、一人の初老の司書。彼は、誰に褒められるでもなく、ただ失われゆく物語を守りたいという、純粋な愛だけで、その仕事を何十年も続けてきた。
空木零は、彼の5年前の、ある日の夜へと意識を飛ばした。そして、その司書の魂の記録に、ほんの少しだけ手を加える。
【UPDATE: "SOUL_RECORD_#783_PEDRO_ALVAREZ"】
【ADD_EVENT: "AWAKENING_OF_SKILL_[Book_Restoration_Rank_C]" at T-5years】
ただ、それだけ。
そして彼は、現代へと意識を戻す。
するとどうだろう。IAROのデータベースが、新たな善のアルターの「発見」を告げるアラートを鳴らしている。アルゼンチンの図書館で、5年前からスキルに目覚めていたが、本人はそれをただの熟練の技だと思い込み、誰にも報告していなかった、という「事実」が、今、この瞬間に「発見」されたのだ。
彼は、同じことを世界中で、あと数十回繰り返した。
カナダの原生林で、20年間、傷ついた動物たちを癒し続けてきた獣医。
ケニアのスラムで、10年間、子供たちに無償で食事を配り続けてきた食堂のおばさん。
彼らの過去に、ささやかな、しかし確かな「奇跡」の種を、後付けで蒔いていく。
「よし、これでスキル神としてのアリバイ作りは完璧だ」
彼は満足げに頷いた。
「ああ、忙しい、忙しい。世界を守るのも、楽じゃないねえ」
さて。
次は、最近デビューしたばかりの新人アイドル、『天秤の女神』としての仕事だ。
彼女は、秩序にも混沌にも与しない。ただ、「面白いこと」を最優先する、気まぐれな駄女神。
その彼女が、人々に与えるべきスキルとは、一体どんなものだろうか。
「うーん……」
彼は、頭を掻いた。
「ただ強いだけのスキルじゃ、面白くないんだよなあ。ミライちゃんやカグヤちゃんみたいに、思想が強すぎるのも、キャラ被りだし」
「もっとこう、くだらなくて、どうしようもなくて、一見すると何の役にも立たない。でも、使い方次第では、とんでもない番狂わせを起こせるような……。そういう、トリッキーなスキルがいいよな」
彼の脳裏に、ふと、遠い、遠い記憶が蘇った。
それは、彼がまだ「空木零」という名の、ただの無気力なサラリーマンだった頃。深夜、寝る前の数時間だけが、彼の唯一の自由だった。彼は、その貴重な時間を、インターネットの海に漂う、名もなき者たちが紡いだ無数の物語――二次創作のショートストーリー(SS)を読むことに費やしていた。
「……あったなあ。そんなSS」
彼の記憶のライブラリから、一つの、あまりにも馬鹿馬鹿しい物語が引き出される。
それは、とある異世界転生ものの二次創作だった。主人公が神様から与えられたスキルは、ただ一つ。【無限コーラ生成】。手から、好きなだけコーラを出すことができるという、戦闘には全く役に立たない、くだらない能力。
だが、主人公は諦めなかった。彼は、ある日、敵の巨大な空中要塞を前にして、一つの結論に達する。
『コーラが出せるんじゃない。俺は、「コーラという概念」を操れるんだ』と。
そして、彼は天に向かって叫ぶのだ。
『――来たれ、我が渇きを癒す聖なる流星! その名は――』
『――『コカ・コーラ・メテオ』ッ!!!!』
すると、遥か宇宙の彼方から、直径数キロにも及ぶ巨大な「コカ・コーラ」のロゴが刻印された隕石が出現し、敵の空中要塞を木っ端微塵に粉砕する。そして主人公は、瓦礫の山の中で、キンキンに冷えたコーラを飲みながら一言、「ぷはーっ! やっぱ、これだよな!」と呟く。
そんな、あまりにもご都合主義で、あまりにも馬鹿馬鹿しい、しかし最高のカタルシスに満ちた物語。
「……懐かしいなあ……」
空木零は、腹を抱えて笑った。
「あの頃のネットは、自由で、最高にくだらなかった。……そうだ。これだ。この精神だ」
彼の、その虚無を湛えていた瞳に、再び純粋な創造の光が灯った。
「決めた。次のスキルは、これで行こう」
彼は、新しい「駒」を探し始めた。
英雄でも、聖女でも、革命家でもない。
この、あまりにもくだらないスキルを授かるに相応しい、最高の器。
それは、どんな人間か?
決まっている。
最高に、やる気のない人間だ。
彼の神の視線が、日本の、東京の、そのまた片隅にある、四畳半一間の安アパートの一室を捉えた。
そこにいたのは、一人の青年だった。
佐藤健司。25歳。大学中退後、バイトを転々とし、今は無職。いわゆる、NEET。
部屋は、ゴミで溢れかえっている。彼は、万年床の上で寝転がり、ただスマートフォンの画面をスワイプするだけの日々を送っていた。
彼の魂は、何の輝きも放っていなかった。野心も、希望も、絶望すらない。ただ、どこまでも平坦で、どこまでも空っぽ。
だが、その「空っぽさ」こそが、最高の器となりうることを、空木零は知っていた。
「君に、決めた」
彼は、実に楽しそうに指を鳴らした。
そして彼は、あの気まぐれな『天秤の女神』のアバターを、その身に纏った。
その日の深夜。
佐藤健司は、いつものように薄暗い部屋で、カップ焼きそばをすすっていた。
モニターの中では、Vチューバー『鏡ミライ』の配信の切り抜き動画が、自動再生で流れている。
『――あなたのその、ささやかな日常もまた、この壮大な物語の、かけがえのない一ページなのです』
「……うるせえよ」
健司は、画面に向かって悪態をついた。
物語? 希望?
そんなものは、自分とは無関係の世界の出来事だ。
彼が、最後の麺を啜り終え、虚しくなった容器を床に放り投げた、その瞬間だった。
部屋の空気が、変わった。
モニターの光が、虹色のノイズを走らせて歪む。
「……は?」
健司が顔を上げた、その目の前。
何もないはずの空間に、あの天秤の女神が、音もなく、気配もなく、立っていた。
その、あまりにも非現実的な光景。
だが、健司は驚かなかった。叫びもしなかった。
ただ、その汚れたTシャツの腹をポリポリと掻きながら、心底面倒くさそうに言った。
「……うわ。出たよ。……なんか、用すか?」
その、あまりにもやる気のない反応。
女神は、その描かれた笑顔を、さらに楽しそうに歪ませた。
「うんうん! 良いね、その目! 最高に腐ってる! 合格!」
女神は、そう言うと、健司の目の前にずいっと顔を近づけた。
「君さあ、退屈でしょ? 人生」
「……まあ、はい」
「何か、面白いこと、してみない?」
「……えー……。面倒くさいのは、ちょっと……」
「大丈夫、大丈夫! 面倒なのは、最初だけだから! というわけで、君に、新しいスキルをプレゼントしてあげまーす!」
「……はあ」
「はい、これ!」
女神が、健司の額にその指先をそっと触れさせた。
健司の脳内に、直接、一つの情報が流れ込んでくる。
【スキル:『自動販売機召喚』ランク:F。……あなたは、いつでもどこでも、半径10メートル以内に、ごく普通の自動販売機を一台だけ召喚することができます。ただし、召喚には100円硬貨が1枚必要です。中の飲み物は、別途料金がかかります】
「………………は?」
健司は、固まった。
そして、数秒の沈黙の後、心の底から、言った。
「……いらねえ……。何すか、これ。超いらねえ……」
「ははは! だと思った!」
女神は、腹を抱えて笑った。
「まあ、せいぜい頑張りなよ、新しい神の使徒君! 君のそのくだらない力が、この退屈な世界をどう変えていくのか。わたくし、特等席でじっくりと見物させてもらうからさ!」
「――おつてんびーん!」
女神は、最後に完璧なウインクを決めると、来た時と同じように、虹色のノイズの中へと掻き消えていった。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、ただ一人、呆然と立ち尽くす佐藤健司だけだった。
彼は、しばらくの間、身動き一つできなかった。
そして、おもむろにポケットを探った。
中から出てきたのは、一枚の、くたびれた100円硬貨。
「……まさかね」
彼は、そう呟いた。
だが、試さずには、いられなかった。
彼は、その100円玉を指で弾いた。
そして、心の中で、半信半疑のまま、念じた。
(……自動販売機……)
次の瞬間。
彼の目の前、ゴミの山のど真ん中に。
ガコン!という、あまりにもリアルな音と共に、一台の、どこにでもあるような清涼飲料水の自動販売機が、忽然と出現した。
その側面には、『つめた〜い』という、気の抜けた文字が踊っている。
「…………マジかよ…………」
その日。
世界で最も新しく、最もくだらない、しかし最も予測不能な駒が、神々のチェス盤の上に、確かに置かれた。
物語は、誰も予想しなかった方向へと、再びその舵を切ろうとしていた。
そして、そのことを知っているのは、まだこの宇宙にただ一人だけだった。