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第86話 盤上のソロバンと、王者のため息

 ホワイトハウス、シチュエーションルーム。

 その部屋の空気は、フィルターを通しているはずなのに、まるで古びた墓石のように冷たく、重かった。だが、数ヶ月前にこの場所を支配していた、神獣ガドラ襲来時のあの終末的な絶望の色は、そこにはなかった。代わりにあったのは、より知的で、より陰湿で、そして一流のチェスプレイヤーが自らの詰み筋を見破られた時のような、静かな焦燥感だった。

 壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群には、日本のIAROが全世界に向けて発表した、あの『国立高等専門アルター学院』設立に関するプロモーション映像が、音声なしで繰り返し再生されている。桜並木の下を笑顔で歩く、様々な人種の若きアルターたち。最新鋭の設備が整った研究室で、真剣な眼差しで自らの能力と向き合う生徒たち。そして、その中心で、まるで頼れる兄のように穏やかな笑みを浮かべて彼らを見守る、人類最強の英雄、神崎勇気。

 そのあまりにも美しく、あまりにも計算され尽くした映像。それは、プロパガンダとして、ほぼ完璧な芸術作品だった。


 円卓を囲むのは、アメリカ合衆国という巨大な国家の神経中枢そのものだった。合衆国大統領、ジェームズ・トンプソンは、組んだ両手の指先でじっと自らの唇を押さえ、その映像を、もはや何度目かも分からないほど見つめ続けていた。彼の隣では、国防長官マーカス・ソーン元帥が、その鋼鉄のような表情の下で、隠しようのない苛立ちを滲ませている。国家情報長官エレノア・ヴァンスは、ただ無表情に、手元のタブレットに表示された膨大な分析データをスクロールしていた。


 最初に沈黙を破ったのは、ヴァンスだった。彼女の声は、いつものように感情を排した、冷徹な分析官のそれだった。

「……報告します。日本の『アルター学院』構想が発表されてから、72時間が経過。全世界の主要メディア及びSNSにおける論調分析が完了しました」

 彼女が手元のタブレットを操作すると、メインモニターがいくつかのグラフとキーワードの相関図に切り替わった。

「結論から申し上げます。これは、我々の完敗です」

 その、あまりにも率直な敗北宣言。ソーン元帥の眉が、ピクリと動いた。

「世論は、日本のこの構想を圧倒的に支持しています。キーワードの関連付けを見ても、『日本』、『アルター』という単語は、もはや『恐怖』や『脅威』ではなく、『希望』、『教育』、『未来』といった、極めてポジティブな概念と結びつけられています。……特に、神崎勇気を『教師』として起用した一点。これが、決定打でした。彼は、もはやただの兵器ではない。『未来を導く指導者』として、その偶像化は新たなステージへと移行しました」


 彼女は、別のデータを表示させた。それは、アメリカが進める『プロジェクト・キメラ』に関する、世界からのリーク情報と、それに対する反応の分析だった。

「一方で、我々のプロジェクトに関するネガティブな報道は、この72時間で300%以上増加しています。我々は、『アルターを兵器として利用する、冷酷な軍事国家』。日本は、『アルターを未来の人材として保護し、教育する、慈悲深き先進国家』。……このイメージのコントラストは、致命的です。既に、これまで我々の同盟国であったはずのヨーロッパの数カ国から、プロジェクト・キメラに対する非公式な懸念と、日本の構想への賛同が表明されています」


「……つまり」と、トンプソン大統領が、重々しく口を開いた。

「我々は、たった一本のプロモーション映像で、この5年間必死に積み上げてきた外交的優位を、ひっくり返されたというわけか」

「……遺憾ながら、その通りです。大統領」

 ヴァンスは、静かに頷いた。


 その報告を聞いていたソーン元帥が、ついに堪えきれないといった様子で、机を強く叩いた。

「馬鹿馬鹿しい! プロパガンダごときに、我が国の安全保障が揺るがされてたまるか! 日本がやっていることは、所詮、超能力者たちのための、お上品な幼稚園ごっこだ! 我々が相手にしているのは、ケイン・コールドウェル率いる、S級アルターの怪物軍団なのだぞ! 幼稚園の先生に、何ができる!」

 その、軍人らしい、しかしあまりにも視野の狭い怒りの声。

 それに、ヴァンスは冷ややかに、しかし的確に反論した。

「……元帥。戦争は、もはや兵器の性能だけで決まる時代ではありません。これは、物語と物語の戦いです。そして、日本の『若き才能を育む』という物語は、我々の『脅威を管理する』という物語よりも、遥かに、遥かに多くの人々の心を掴んでしまった。……それだけのことです」


「くっ……!」

 ソーンは、言葉に詰まった。

 その時、これまで沈黙を守っていたトンプソン大統領が、まるで独り言のように、ぽつりと呟いた。

 その声は、怒りでも、焦りでもなく、ただ純粋な、一流のチェスプレイヤーが相手の見事な一手に感嘆した時のような、静かな響きを持っていた。


「……うわー……ずるいな。……全く、良い手だ」


 その、あまりにも意外な感想。

 シチュエーションルームにいる誰もが、大統領の顔を見た。

 トンプソンは、続けた。

「……これは、こっちで思い付くべき名案だったな。……いや、我々には思いつけなかったか。我々は、常に目の前の脅威を排除することばかりに囚われすぎていた。……もっと、長期的な視点で、この新しい人類をどう『育てる』かという発想が、完全に欠落していた」

 それは、この国の最高指導者による、率直な自己批判だった。

 ソーン元帥が、悔しそうに口を挟んだ。

「……では、大統領! 我々も、同じような施設を作れば良いのでは!? このアメリカの、潤沢な予算と技術力をもってすれば、日本のそれよりも遥かに素晴らしい教育機関を……!」


「――こっちでも、出来ないか?」


 その問いは、この部屋にいる誰もが、心のどこかで考えていたことだった。

 だが、その問いに対する答えを、彼らはもう既に知ってしまっている。

 ヴァンスが、その残酷な真実を、静かに、しかし無慈"情に告げた。


「……まあ、無理でしょうな」


 その、あまりにもあっさりとした否定。

「なぜだ!」と、ソーンが叫ぶ。

「理由は、ただ一つです」

 ヴァンスは、モニターに映る神崎勇気の、あの穏やかな笑顔を指さした。

「――日本には、教師として、神崎勇気がいます。ですが、こちらには、いないからです」


 その、あまりにもシンプルで、あまりにも絶対的な答え。

 シチュエーションルームは、再び重い沈黙に支配された。

 そうだ。

 その通りだ。

 この計画の、そして日本の戦略の、本当の核心は、施設でも、カリキュラムでもない。

 神崎勇気という、あまりにも特異で、あまりにも規格外な「教師」の存在、ただその一点にこそあった。


「……ジョシュア・レヴィンでは、ダメなのか」

 トンプソンが、絞り出すように尋ねた。

「彼は、国民からの信頼も厚い。人格も、申し分ない。彼ならば、立派な指導者になれるはずだ」

「無理です」

 ヴァンスは、きっぱりと首を横に振った。

「ジョシュア・レヴィンのスキルは、【絶対領域】。それは、究極の『盾』です。彼は、あらゆる攻撃から人々を守ることができる。だが、彼は、他者のスキルを『理解』することはできない。想像してみてください。彼が、発火能力を持つ少年に、何を教えられますか? 『その炎を、気合でシールドの内側に閉じ込めろ』とでも? 彼は、あまりにも完成されすぎている。あまりにも、特化しすぎているのです。彼は、生徒の痛みに寄り添う教師にはなれない。ただ、遠い玉座から民を見守る、孤独な王になることしかできない」

「クロエ・サリヴァンは、論外です。彼女のスキルは、究極の『移動手段』。彼女は、鋭すぎるメスです。メスに、メスの使い方を教えることはできません」


 ヴァンスは、そこで一度言葉を切った。そして、この5年間、IAROとDAAが共同で分析を続けてきた、神崎勇気に関する最高機密のデータを、モニターに表示させた。


「ですが、神崎勇気は違う。彼のスキル、【万能者の器】。それは、ただのコピー能力ではない。それは、あらゆる他者のスキルを、その根源的な因果律のレベルで『共感』し、『理解』し、そして『再現』する能力です。彼は、発火能力者の前では最高の消防士に、千里眼を持つ者の前では最高のカウンセラーに、そして、その力に苦悩する全ての若者の前では、最高の『先輩』になることができる。……彼は、一人で、全てのアルターの教師に、なれてしまうのです」

「……我々が、これまで『究極の兵器』としてしか見ていなかった彼の本質。それは、『究極の教育者』だった。……日本は、それに気づいた。そして、我々は、気づけなかった。……ただ、それだけのことです」


 その、あまりにも的確で、あまりにも残酷な分析。

 シチュエーションルームにいる誰もが、もはや何も言い返すことはできなかった。

 彼らは、負けたのだ。

 ただ、銃弾の飛び交わない、静かなる盤上で。

 発想の、そして思想の戦争で、完膚なきまでに。


「…………」

 トンプソン大統領は、長い、長い間、目を閉じていた。

 やがて、彼が再びその瞼を開いた時。その瞳には、もはや敗北の色はなかった。

 代わりに宿っていたのは、この国の指導者としての、冷徹な、そして獰猛なまでの闘争本能の光だった。


「……分かった」

 彼は、静かに言った。

「……ならば、こちらも戦略を変えるまでだ」

「プロパガンダ戦で、我々は負けた。道徳の競争でも、負けた。……結構だ。我々は、そんな子供の遊びに、これ以上付き合う必要はない」

 彼は、国防長官ソーン元帥へと、その鷲のような鋭い視線を向けた。

「マーカス」

「……はっ」

「『プロジェクト・キメラ』を、加速させろ。もはや、遠慮はいらん。使える駒は、全て使え。脅しも、懐柔も、あらゆる手段を講じろ。……日本が、お上品な学校ごっこで未来の英雄様を育てている間に、我々は、今、この瞬間、戦える最強の『怪物』の軍団を作り上げるのだ」

「我々が勝つのは、思想戦ではない。……いずれ必ず訪れる、本物の『戦争』だ」

「日本が、理想の楽園の設計図を描いているというのなら、結構だ。我々は、その楽園を守るための、最も汚く、そして最も強力な『番犬』になってやろうではないか」


 その、あまりにも現実的で、あまりにもアメリカ的な、開き直り。

 シチュエーションルームの重苦しかった空気が、一変した。

 そこにいたのは、もはや敗北に打ちひしがれた者たちではなかった。

 自らの役割を、自らの進むべき道を再認識した、世界最強国家の、冷徹な指導者たちの顔だった。


 その夜、大統領執務室、オーバルオフィス。

 トンプソンは、一人、執務机の前に座っていた。

 彼の目の前のセキュアな端末には、黒田から送られてきたばかりの、日本の『アルター学院』構想に関する、協力と連携を求める丁寧な、しかしその裏に明確な勝利宣言を滲ませた親書が表示されていた。

 彼は、その文面を最後まで読むと、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。

 そして、その親書を、ゴミ箱のアイコンへとドラッグした。


(……せいぜい、夢でも見ていろ、理想主義者ども)

 彼は、心の中で呟いた。

(君たちが、その美しい楽園で未来の子供たちを育てている間。我々は、この現実という名の地獄で、泥にまみれて戦い続ける)

(そして、最後に立っているのは、どちらか)

(……歴史が、いずれ証明してくれるだろう)


 彼は、執務机の引き出しから、一本の葉巻を取り出し、火をつけた。

 紫の煙が、歴史の重みを宿した部屋の闇の中へと、静かに溶けて消えていった。

 新しい、そしてより深く、より救いのない対立の時代の幕が、今、確かに上がったのだ。

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