第9話 規格外の脅威
その日の『内閣官房・超常事態対策室』は、かつてないほどの緊張感に支配されていた。
数日前に正式に発足したこの組織は、今や日本における、そして世界における「新しい日常」と対峙する、国家の最前線となっていた。首相官邸の地下深くに設けられた広大な作戦司令室には、何十人もの職員が詰めかけ、その顔には一様に、寝不足とストレスが色濃く刻まれている。
壁一面に設置された巨大なマルチスクリーンには、世界地図と、そこに点滅する無数のマーカーが表示されていた。マーカーの一つ一つが、新たな『特殊技能保持者』――仮称『アルター』の出現地点を示している。
フランスでは、猫と会話できるようになったという老女が、メディアの寵児となっていた。ブラジルでは、触れるだけで植物を異常な速度で成長させる少年が、聖者として崇められ始めていた。
微笑ましいニュース。だが、その裏側で、悪意は静かに、しかし着実に、世界を蝕んでいた。
香港では、錠前開錠の能力を使った窃盗団が暗躍し、金融街を恐怖に陥れている。ニューヨークでは、軽度の透明化能力者が、ウォール街の機密情報を盗み出し、インサイダー取引で巨万の富を得ているという噂が流れていた。
そして、日本もまた、その例外ではなかった。
対策室の室長である黒田は、自らの執務室で、山のように積まれた報告書の山と格闘していた。彼は、この数日間、ほとんど眠っていない。寄せられる情報を分析し、危険度をランク付けし、今後の対策を練る。その全てが、前例のない、手探りの作業だった。
今のところ、日本で確認されているアルターの大半は、Fランクか、せいぜいEランク。社会の秩序を脅かすものではあっても、国家の存立を揺るがすほどの脅威では、まだ、なかった。
――そう、つい先ほどまでは。
「室長、警視庁組織犯罪対策部、第四課の者が、至急の報告を求めております」
部下の報告に、黒田は鋭い視線を上げた。組織犯罪対策部、通称「マル暴」。その中でも、暴力団の内部情報や動向を専門に扱う第四課。彼らが、この対策室に直接、話を通しに来るなど、尋常ではない。
「……通せ」
数分後、黒田の執務室に、一人の刑事が姿を現した。年齢は五十代半ば。長年、裏社会の人間と対峙してきた者だけが持つ、凄みと、そして深い疲労が、その顔に刻まれていた。
「警視庁組対四課の谷村です。本日は、我々の管轄内で発生した、ある『案件』について、黒田室長に直接ご報告に上がりました」
「案件、だと?」
「はい。我々の間では、マルB――暴力団に関する案件と見ておりましたが、どうにも……常識では説明のつかない点が多々ありまして」
谷村は、そう前置きすると、昨夜、新宿・歌舞伎町で起きた、ある事件の概要を語り始めた。
その報告内容は、黒田の背筋を凍らせるには、十分すぎるほどの内容だった。
指定暴力団系の組員、鬼頭 丈二という男が、単独で、敵対組織である龍星会の事務所に殴り込みをかけた。
ここまでは、よくある暴力団の抗争事件だ。
だが、その内容が、異常だった。
「……鬼頭は、まず、ビルの鋼鉄製の防犯扉を、素手で、蹴り破って侵入。駆けつけた組員数十名を、一切の武器を使わず、わずか数分で無力化」
「……素手で、だと?」
「はい。そして、ここからが本題です。龍星会の組員が、拳銃を発砲。少なくとも十数発が、鬼頭の身体に命中した、と。しかし……」
谷村は、一度言葉を切り、ごくり、と喉を鳴らした。
「……鬼頭は、無傷。銃弾は、彼の皮膚に当たって、まるで鉄板にでも当たったかのように、全て弾き返された、と。複数の組員が、同じことを証言しています。中には、『奴は、弾丸を歯で受け止めて、吐き捨てた』と、半ば錯乱状態で証言する者までおります」
「…………」
黒田は、言葉を失った。
谷村の報告は、まだ終わらない。
「……さらに、龍星会の相談役であった剣術の達人が、日本刀で斬りかかったものの、その刃を、指二本で挟み止められ、そのままへし折られた、と。現場には、実際に、粉々に砕け散った刀身が残されていました。専門家の鑑定では、外部から、人間の力では到底不可能な、凄まじい圧力がかかった痕跡がある、とのことです」
報告が終わる頃には、黒田の額に、脂汗が滲んでいた。
彼は、震える手で、デスクの上のインターホンを掴んだ。
「……対策室、主要メンバーを、第一戦略会議室に、緊急招集。……議題は、『コード:鬼神』だ」
数分後、対策室の中枢を担うメンバーが、顔を揃えていた。
分析官の佐伯、自衛隊から出向している一等陸佐、外務省のキャリア官僚。彼らの前に、黒田は、重い口を開いた。
「たった今、マル暴から、気になる報告があった」
黒田が、谷村から受けた報告を簡潔に伝えると、会議室は、水を打ったように静まり返った。そして、次の瞬間、その静寂は、爆発した。
「――おいおい、これって……」
「ああ、間違いない……多分、『特殊技能保持者』、仮称『アルター』だ!」
「拳銃が効かない? 刀を指で? そんな馬鹿なことがあるか!」
室内は、騒然となった。
これまで彼らが扱ってきたのは、あくまで「人間の物差し」で測れる、ささやかな能力ばかりだった。だが、今、彼らの目の前に突きつけられたのは、その物差しを、根本から叩き折るような、圧倒的な「暴力」の存在だった。
佐伯が、素早くキーボードを叩き、データベースと照合する。
「……該当者、鬼頭丈二。32歳。過去の犯罪歴、性格分析……どれも、この『覚醒』のパターンと一致します。彼を、新規アルター『ケース008』として登録。危険度判定を……」
彼女は、一瞬、ためらった。そして、覚悟を決めたように、タイプした。
「……ランクA。……いえ、それ以上かもしれない。これは、かなり規格外です」
規格外。
その言葉の重みが、全員にのしかかる。
自衛隊から来た、叩き上げの陸佐が、腕を組みながら口火を切った。
「どうしますか、黒田さん。話は単純だ。拳銃が効かないとなると、それ以上で対応しなければ、話にならん」
「それ以上、とは?」
「決まっているでしょう。対物ライフル、擲弾発射器。陸上自衛隊の特殊作戦群を出動させるべきです。目標を、迅速に、武力で無力化する。これ以上の被害が出る前に」
「おいおい、武力で制圧するのか!?」
外務省の官僚が、血相を変えて反論した。
「相手は、まだ、ただの暴力団員だぞ! テロリストでも、どこかの国の工作員でもない。そんな相手に、自衛隊を投入するなど、前代未聞だ!」
「では、どうするというんだ! 警官隊が丸腰で突っ込んで、皆殺しにでもされろと!?」
「まずは、対話からだろう! 彼が何を望んでいるのか、何が目的なのか、それを探るべきだ!」
「対話だと!? 馬鹿を言え!」
陸佐は、机を叩いて怒鳴った。
「相手は、つい昨日、敵対組織を半壊させた、極めて凶暴な犯罪者だぞ! 何を、暴力団相手に、国が下手に出るというのか! そんな弱腰な態度が、国民に、そして世界にどう映るか、分からんのか!」
議論は、完全に紛糾した。
武力制圧か、対話か。
秩序の維持を最優先する警察・自衛隊と、国際社会からの目や、人道的な問題を考慮する外務省。どちらの言い分も、間違ってはいない。だが、どちらも、この前例のない事態に対する、明確な正解ではなかった。
黒田は、その激しい議論を、じっと聞いていた。
彼の脳裏には、二つの未来が、同時に浮かび上がっていた。
一つは、自衛隊を投入し、歌舞伎町の真ん中で、市街戦が勃発する未来。多大な犠牲と、計り知れない社会的混乱。
もう一つは、対話を試み、アルターという存在に、国が「交渉」するという前例を作ってしまう未来。それは、力の持つ者が、法を超越することを、国が認めてしまうに等しい。秩序の、緩やかな自殺だ。
どちらも、地獄だった。
だが、選ばなければならない。
黒田は、静かに手を上げた。その場の全員が、彼に注目する。
「……両名の意見、どちらも一理ある。だが、我々には、情報が、あまりに不足している」
彼は、ゆっくりと、しかし、確信を持って言った。
「まずは、徹底的な監視と、情報収集を行う。対象、鬼頭丈二を、24時間体制で監視下に置け。ただし、絶対に接触はするな。彼の行動パターン、能力の限界、そして、彼の『目的』を、徹底的に分析するんだ」
「……しかし、その間に、また彼が暴れたら?」
「その時は――」
黒田は、陸佐の目を、真っ直ぐに見据えた。
「――その時は、やむを得ん。特殊作戦群には、いつでも出動できるよう、準備を整えておいてもらう。ただし、出動命令は、総理の直接許可があるまで、絶対に下りない。それが、我々にできる、現時点での、最大限のリスク管理だ」
それは、苦渋の決断だった。
だが、誰も、それに反論することはできなかった。
会議室の巨大なモニターに、リアルタイムの、新宿の監視カメラの映像が映し出された。
その中心には、ビルの屋上に、まるで王のように座り込み、眼下の街並みを見下ろす、鬼頭の姿があった。
国家が、彼一人のために、その対応に揺れているなど、知る由もなく。
ただ、手に入れたばかりの、絶対的な力に、酔いしれている。
黒田は、その姿を、固い表情で見つめながら、静かに呟いた。
「……化け物を、作ってくれたもんだ。一体、どこのどいつが……」
彼の呟きは、誰にも届かない。
ただ、東京の夜の闇に、静かに溶けて消えていった。