第85話 英雄の教室と、国家のソロバン
スキル神が残した、『後が困るぞい?』という静かな、しかし宇宙的な重みを持つ警告。その言葉は、まるで執務室の空気そのものを凍てつかせたかのように、黒田と勇気の間に重く、深く沈殿していた。
黒田は、言葉を発することができなかった。
彼の、この国の秩序を守るために最適化されたはずの頭脳が、完全に思考を停止させられていた。
そうだ。その通りだ。
我々の戦略は、あまりにも脆い。神崎勇気という、たった一本の柱の上に、この国の、いや『人類憲章連合』の未来の全てが乗っている。その柱が、もし折れたら? 腐ったら? あるいは、自らの意志で歩み去ってしまったら?
その後に残るのは、ただの瓦礫の山だ。
分かっていた。心のどこかでは、ずっと前から分かっていた。だが、その不都合な真実から目を逸らし続けてきた。代替案が、なかったからだ。
彼の沈黙は、肯定だった。神の指摘に対する、完全な、そしてどうしようもない肯定。
その、息も詰まるような重苦しい静寂。
それを破ったのは、意外にも、その全ての重圧を一身に背負わされているはずの、神崎勇気自身だった。
「――まあまあ」
勇気は、まるで困っている友人でも慰めるかのように、実に軽い、そしてどこか拍子抜けするような声で言った。
「俺がいる間は、俺が頑張れば良いんですよ。大丈夫ですって」
その、あまりにもあっけらかんとした言葉。
黒田は、はっとしたように顔を上げた。
勇気は、ソファに深く腰掛けたまま、少しだけ困ったように、しかしその瞳の奥に確かな光を宿して、黒田を見つめていた。
「黒田さんが、そんな顔しないでくださいよ。司令官がそんな顔してたら、兵隊は戦えないでしょう?」
「……勇気君……」
「でも」と、勇気は続けた。その声から、先ほどまでの軽さが消え、真剣な響きが宿る。
「実際問題、後任は探さないといけないですよね? 俺だって、いつまでも無敵じゃない。いつか、ガドラみたいなのにポッキリやられるかもしれないし。あるいは、ただ風邪をこじらせてあっけなく死ぬかもしれない。……そうなったら、本当に終わりですもんね、この国」
その、あまりにも率直で、あまりにも現実的な自己分析。
黒田は、胸が締め付けられるのを感じた。この青年は、まだ20代前半。だが、その肩には、国家の存亡という、本来であれば誰も背負うことのできない重荷が、ずっと、ずっと乗っかり続けていたのだ。彼は、自らの死を、まるで会社のプロジェクトの失敗リスクを語るかのように、淡々と受け入れている。
勇気は、まるで何かを思い出したかのように、空中に浮かんだまま静かに茶をすすっているスキル神へと、その視線を向けた。
「ねえ、スキル神様。なんか、そういう便利なスキルないんですか? 俺みたいなやつを、もう一人くらい作れるような」
その、神に対する、あまりにも無邪気で、あまりにも不敬な問い。
黒田は、思わず「君!」と咎めそうになった。
だが、スキル神は、それを少しも不快に思うことなく、ただ面白そうに、その問いを吟味していた。
『ふむ。そうじゃのう』
スキル神は、湯呑を空中に置くと、まるで大学教授が生徒の素朴な疑問に答えるかのように、ゆっくりと語り始めた。
『スキルを、与えるスキル。あるいは、創り出すスキル。もちろん、ワシの手の内にはある。それを使えば、理論上は第二、第三の勇気を生み出すことも、不可能ではないじゃろうな』
「お、マジですか! じゃあ……!」
勇気の顔が、ぱっと輝く。
『じゃが』
スキル神は、その希望を、穏やかに、しかし有無を言わさぬ口調で打ち消した。
『『器』というものがあるからのう』
「……器?」
『そうじゃ。お主たちが飲むこの茶も、湯呑があって初めてその形と味を保つことができる。同じことじゃ。スキルとは、いわば超高濃度のエネルギー体。それをその身に宿すには、その力に耐えうるだけの強固な魂の『器』が必要なのじゃ』
『そして、勇気よ。お主のスキル、【万能者の器】は、その中でも特に規格外の代物じゃ。あれは、もはやただのエネルギーではない。あれは、因果律そのものを内包する、小さな宇宙じゃ。……並の魂の器に、そんなものを注ぎ込めばどうなるか。……分かるな?』
スキル神の、その静かな問い。
勇気は、ごくりと喉を鳴らした。
スキル神は、続けた。
『器が、壊れる。魂が、そのあまりの情報の奔流に耐えきれず、内側から弾け飛ぶ。あるいは、自我そのものが溶け落ちて、ただの狂った力の化身と化す。……ワシも、別の世界で何度か試したことがあるがのう。そのほとんどが、悲劇的な結末を迎えたわい』
『普通の魂は、湯呑のようなものじゃ。名のある英雄の魂ですら、せいぜい徳利といったところか。じゃが、勇気よ。お主の魂は、違う。……お主の魂は、まるでどこまでも広がる、空っぽの海のようなものじゃ。だからこそ、どんなに巨大な力も、どんなに異質な因果も、ただ静かに受け入れ、自らのものとすることができる。……そんな器を持つ魂は、この宇宙広しと言えども、数億年に一人現れるかどうかの、奇跡のような存在なのじゃよ』
「…………」
『じゃから、そう簡単には、後継は見つからんと思うぞい』
その、あまりにも壮大で、あまりにも絶望的な真実。
勇気は、しばらくの間、呆然としていた。
そして、やがて、その口元に、ふっと乾いた笑みが浮かんだ。
「……ですよねー。まあ、そんなうまい話は、そう簡単にないかー」
彼の声には、もはや落胆の色はなかった。
そこにあったのは、自らの特異な運命を、完全に受け入れた者の、静かな諦観だけだった。
彼は、その諦観を振り払うかのように、ぱん、と自らの膝を叩いた。
そして、彼は、黒田の方を向き直ると、まるで今思いついたとでも言うかのように、とんでもない提案を口にした。
「黒田さん」
「……何だ」
「日本も、何かしましょうよ」
「……何か、とは?」
「アメリカみたいに、アルターを集めるんです。でも、兵士にするんじゃない」
勇気の、その静かだった瞳に、初めて、5年前の少年のような、純粋な熱意の光が灯った。
「――アルターの、『学校』とか、しません?」
学校。
その、あまりにも場違いな単語。
黒田は、眉をひそめた。
「学校だと……? 勇気君、君は自分が何を言っているのか、分かっているのか。これは、戦争なのだぞ」
「分かってますよ。だから、です」
勇気は、身を乗り出した。
「俺、ずっと考えてたんです。俺は、ラッキーだった。力を手に入れた時、黒田さんや、IAROの皆さんがいてくれた。正しい力の使い方を、教えてくれる人がいた。……でも、世界中にいる若いアルターたちは、どうです?」
「彼らは、ある日突然、自分でも理解できない力に目覚める。周りからは、怪物だと恐れられる。誰にも相談できず、一人でその力に怯え、そして時には暴走させてしまう。……アメリカの『プロジェクト・キメラ』は、そういう子たちの弱みにつけ込んでるだけだ。恐怖で縛り付けて、兵士にしてるだけだ。……それ、間違ってますよ」
彼の言葉には、確信があった。
それは、同じ痛みを知る者だけが持つ、絶対的な確信だった。
「だから、俺たちが作るんです。そういう子たちが、安心して自分の力を学び、制御し、そして何よりも『人間』として生きていくための場所を。……それが、学校です」
「そこでは、普通の勉強も教える。国語も、数学も、歴史も。そして、アルターとしての倫理学も、能力制御の訓練も。……彼らが、ただの兵器じゃなくて、ちゃんとこの社会の一員として生きていけるように、俺たちが導いてあげるんです」
彼は、そこで一度、息を吸い込んだ。そして、少しだけ照れくさそうに、しかしきっぱりと言った。
「――教師役として、頑張りますよ、俺。……俺くらいしか、いないでしょ。彼らの気持ちが、本当に分かる人間なんて」
その、あまりにも青臭く、あまりにも理想論に満ちた、しかし何よりも純粋な魂の叫び。
黒田は、何も言えなかった。
ただ、目の前の青年の、その眩しいほどの光に、心を打たれていた。
だが、彼の頭脳の、その冷徹な戦略分析官としての部分が、猛烈な勢いで回転を始めていた。
(……学校、か……)
黒田の脳裏で、無数のソロバンが弾かれる。
(……確かに、その手はないわけではない……)
彼は、瞬時に、この「アルター学校」という構想が持つ、恐るべき戦略的価値を理解した。
(まず、これはアメリカの『プロジェクト・キメラ』に対する、完璧なカウンターとなる。我々は、世界に向かってこう宣言できるのだ。『アメリカが、若きアルターを兵器として搾取している一方で、我々日本は、彼らを未来の社会を担う人材として、保護し、教育している』と。……なんと、美しいプロパガンダだろうか。これで、我々は『人類憲章』の理念の、正当な後継者としての地位を、不動のものにできる)
(次に、これはカオス同盟に対する、強力な防衛策ともなる。国内にいる、まだ何者にも染まっていない若いアルターたちを、野放しにしておくのは危険すぎる。彼らを早期に発見し、国家の管理下にある『学校』という名の施設に集める。……それは、保護であると同時に、完璧な『管理』だ。彼らが、混沌派の甘言に惑わされる前に、我々の思想を、秩序の物語を、その魂に深く刻み込むことができる)
(そして、何よりも……)
黒田の視線が、勇気へと注がれる。
(……これこそが、勇気君の後継者を探し、育成するための、最も現実的で、最も効率的な方法だ。全国から、いや、全世界から才能ある若者を集め、その中から第二、第三の『器』となりうる逸材を見つけ出す。……勇気君が教師となり、直接彼らを指導することで、その選別はより正確なものとなるだろう)
保護、管理、選別。
そして、利用。
勇気の、そのあまりにも純粋な理想論は、黒田の冷徹な国家理性のフィルターを通すことで、恐ろしく効率的な、国家戦略へと昇華されていた。
黒田の口元に、いつしか獰猛な笑みが浮かんでいた。
「……悪くない」
彼は、呟いた。
「……勇気君。君のその案、悪くないかもしれんな」
その、肯定の言葉。
勇気の顔が、ぱっと輝いた。
その、あまりにも無邪気な笑顔。
それを見て、黒田の心にほんの僅かな、しかし確かな罪悪感が、チクリと刺さった。
(……すまないな、勇気君。君のその美しい理想を、私はまた、国家という名の泥で汚してしまうことになる)
だが、彼はその感情を、すぐに心の奥底へと押し殺した。
今は、感傷に浸っている場合ではない。
「……よし。分かった」
黒田は、立ち上がった。その目には、再び指揮官としての、鋭い光が宿っていた。
「その『アルター学校』構想。IAROとして、正式に検討しよう。直ちに、プロジェクトチームを立ち上げる。君にも、もちろん参加してもらうぞ」
「はい!」
「……だが、これは長い戦いになる。文科省との折衝、法整備、そして何よりも国民への説明。……だが、やる価値はある。……いや、やらねばならん」
黒田は、窓の外の世界地図を見つめた。
それは、もはや絶望的な戦場ではなかった。
それは、これから自分たちが、全く新しい「物語」で塗り替えていくべき、巨大な、そして挑戦しがいのあるキャンバスに見えた。
アメリカが、鋼鉄の「牙」を研ぐというのなら。
我々日本は、未来を育む「揺りかご」を作る。
どちらの物語が、より多くの人々の心を掴むか。
新しい、そしてより高度な代理戦争の火蓋が、今、切って落とされたのだ。
その、あまりにも人間的な、そしてあまりにも狡猾な決断の瞬間。
それを、執務室の片隅で見ていたスキル神は、実に満足げに、最後の一口の茶をすすっていた。
そして、誰にも聞こえない声で、ただ一人、静かに呟いた。
『――うむ。それこそが、人間の物語じゃよ』
神は、笑う。
自らがほんの少しだけ与えたヒントを元に、人間たちが自らの頭で考え、悩み、そしてより複雑で、より面白い物語を紡ぎ始めてくれたことに、心からの満足と、そして静かな喝采を送りながら。
彼の退屈な日常は、まだ当分、終わりそうになかった。