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第83話 キメラの招聘

 ホワイトハウスの地下深く、DAA(アメリカ超常事態対策局)に与えられた無窓のブリーフィングルームは、まるで手術室のような冷たい静寂と、消毒液にも似た無機質な緊張感に満たされていた。壁に掛けられた巨大なモニターには、星条旗を背景にした『プロジェクト・キメラ』の禍々しいロゴ――獅子の頭、山羊の胴体、蛇の尾を持つ伝説の合成獣――が、青白い光を放っている。

 そのモニターの前に立つのは、国防総省からこの極秘計画の現場責任者として送り込まれた男、リック・デッカード副長官。その剃り上げた頭と、元海兵隊員であることを隠そうともしない分厚い胸板は、この計画がもはや机上の空論ではないことを雄弁に物語っていた。

「――諸君、おはよう」

 デッカードの声は、余計な感情を一切排した、ただの命令伝達用の音波だった。

「大統領令14088号に基づき、本日この瞬間より、『プロジェクト・キメラ』はフェーズ2へと移行する。すなわち、対象となる国内アルターの『招聘しょうへい』を開始する」


 招聘。

 そのあまりにも丁寧で、あまりにも白々しい言葉。それを聞くブリーフィングルームの精鋭エージェントたちの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。彼らは、この日のために特殊な心理訓練を受け、感情を「オフ」にする術を叩き込まれてきた、国家の外科医たちだった。

 その中に、アダム・カーターという若いエージェントの姿があった。ハーバードで心理学と交渉術を学び、その卓越した能力を買われてDAAにスカウトされた、プロジェクト・キメラの若き星。彼の隣には、その相棒であり、現場での「圧力」を担当する元デルタフォース隊員の巨漢、ジャック・ライリーが、腕を組んで仏頂面で座っている。


「第一招聘対象者のリストだ」

 デッカードが手元のタブレットを操作すると、メインモニターに数名の男女の顔写真と、詳細なプロフィールが表示された。

「ターゲット・アルファ。ケンジ・タナカ。22歳、日系アメリカ人。スキル、【発火能力パイロキネシス】。ランクA。一年前、自宅アパートで能力を暴走させ、小規模な火災を起こした過去がある。幸い死傷者はいなかったが、本人はその罪悪感と、自らの力を制御できない恐怖に苛まれている。両親は健在だが、家計は苦しい。……アダム、君の担当だ。彼には、『救済』という名の首輪を付けてやれ」

「イエス、サー」

 アダムは、無表情に頷いた。


「ターゲット・ブラボー。ピーター・ホーキンス。32歳。スキル、【位相変換フェイズ・シフト】。ランクA。前科7犯の連続窃盗犯。現在、複数の未解決事件の重要参考人として監視下にある。性格は、極度の人間不信かつ利己的。あらゆる権威を嘲笑う傾向あり。……ジャック、これはお前の仕事だ。彼には、選択肢など最初から存在しないことを、その分厚い頭蓋骨に叩き込んでやれ」

「御意」

 ジャックは、その岩のような拳をゴキリと鳴らした。


「ターゲット・チャーリー……」

 デッカードは、淡々と、しかし確実に、人間を「人的資源」へと変換していくための非情なプロセスを説明していく。

 彼らの手口は、巧妙だった。

 まず、対象のアルターを徹底的に調査する。金に困っているのか、過去に過ちを犯した罪悪感に苛まれているのか、あるいは家族という守るべき弱点があるのか。その魂の脆弱性を正確に見抜き、そこにつけ込むのだ。

 彼らが提示するのは、常に二つの道。

 一つは、光り輝く楽園への道。国家からの手厚い保護、莫大な報酬、家族の安全の保証、そして何よりも、自らの忌まわしい能力を「英雄的な才能」として社会に貢献できるという、甘美な自己実現の機会。

 そしてもう一つは、地獄への道。過去の罪を暴かれ社会的に抹殺されるか、あるいは「危険能力者」として法の影の下にある特殊な収容施設に送られ、二度と陽の光を見ることなく一生を終えるか。

 選択は、常に本人に委ねられる。形の上では。

 だが、その天秤の皿は、最初から致命的なまでに傾けられているのだ。


「忘れるな」

 デッカードは、最後にエージェントたちを睨みつけた。

「我々がやっていることは、誘拐でも、脅迫でもない。これは、国家による、国民に対する『交渉』だ。あくまで、彼らの自由意志を尊重する。ただし、その意志が国家の望む方向へと向かうよう、あらゆる手段を用いて『説得』しろ。……これは、戦争だ。ただ、血の流れない、魂の戦場なのだ」


 その言葉を合図に、エージェントたちは静かに立ち上がり、それぞれの戦場へと散っていった。

 アメリカという国家が、自国民の魂を狩るための、静かなる戦争が始まった。


 §


 カリフォルニア州、サンノゼ郊外。

 古いアパートの一室。ケンジ・タナカは、今日もカーテンを閉め切った薄暗い部屋で、自らの両手を見つめていた。

 彼の脳裏には、一年前のあの日の光景が、悪夢のように焼き付いて離れなかった。

 恋人との些細な口論。カッとなった瞬間、彼の指先から放たれた小さな炎が、カーテンに燃え移った。パニック。絶叫。そして、消防車のサイレンの音。

 幸い、火はすぐに消し止められ、ボヤ騒ぎで済んだ。だが、その日以来、彼は自らの手を呪っていた。この手は、いつまた暴走し、誰かを傷つけるか分からない。彼は大学を中退し、誰とも会わず、この部屋に引きこもるようになっていた。


 ピンポーン。

 突然のチャイムの音に、彼の肩がびくりと跳ねた。

 ドアを開けると、そこにはスーツ姿の、人の良さそうな笑顔を浮かべた青年が立っていた。アダム・カーターだった。

「……どちら様、ですか?」

「突然申し訳ありません、タナカさん。政府の者です。少しだけ、お話よろしいでしょうか」

 政府。その言葉に、ケンジの顔から血の気が引いた。ついに、バレたのか。

 アダムは、そんな彼の恐怖を見透かしたかのように、穏やかな声で続けた。

「ご安心ください。あなたを逮捕しに来たわけではありません。むしろ、その逆です」

 彼は、一枚の書類を差し出した。それは、一年前の火災に関する、警察の公式な捜査資料だった。

「原因は、漏電によるものと断定され、既に捜査は終了しています」

「……え……?」

「我々が、そう『処理』しました。あなたは、何も心配する必要はない」

 アダムは、聖者のように微笑んだ。

「我々は、知っているのです。タナカさん。あなたの苦しみを。その制御できない力への恐怖を。そして、その力が持つ、本当の可能性を」

 彼は、もう一枚のパンフレットを差し出した。その表紙には、『DAA特殊才能開発センター』と書かれ、最新鋭の訓練施設と、笑顔で語り合う若者たちの写真が印刷されていた。

「ここは、あなたのような特別な才能を持つ人々が、その力を正しく学び、制御し、そして社会のために役立てるための場所です。最高のトレーナー、最高の設備、そして、あなたと同じ悩みを分かち合える仲間たちが、あなたを待っています」

「……そんな……」

「もちろん、これは強制ではありません。ですが、考えてもみてください。このまま、この部屋で一生、自らの力に怯えながら生きていく人生と。その力を、人々を守るための『希望の炎』として、英雄として生きる人生。……あなたが、本当に望むのは、どちらですか?」

 そして、アダムはとどめの一撃を放った。

「ああ、もちろん。参加者には、政府から最高ランクの給与と待遇が保証されます。ご両親の、長年のご苦労にも、ようやく報いることができるでしょう」

 その言葉が、ケンジの最後の理性を打ち砕いた。

 両親の、苦労した顔。自分のせいで、迷惑ばかりかけてきた。

 彼の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

「……俺……。俺、行きます……!」

 それは、救済だった。

 あまりにも甘美で、抗いがたい救済の申し出。

 彼は、自らがこれから国家という名の巨大な機械の、一つの歯車になることなど知る由もなく、ただ目の前の天使に、その魂ごと救いを求めたのだ。

 アダムは、その涙を見て、完璧なまでの共感の表情を浮かべた。

 だが、その心の奥底では、冷徹な分析官としてのもう一人の自分が、無感情にミッションの完了を報告していた。

(ターゲット・アルファ、招聘完了。使用したアプローチ:罪悪感の免除、自己実現欲求の刺激、及び金銭的インセンティブ。……極めて、容易なケースだったな)


 §


 ネバダ州、ラスベガス。

 ストリップ地区の安ホテルの、煙草と安酒の匂いが染み付いた一室。

 ピーター・ホーキンスは、ベッドの上で、ポーカーチップを弄びながら、壁の古いテレビで競馬中継を眺めていた。

 彼の人生は、常に「壁」との戦いだった。物理的な壁、社会的な壁、そして法という名の壁。彼は、その全てをすり抜けることでしか、自らの自由を実感できなかった。

 コンコン。

 ドアが、ノックされた。

「誰だ?」

 返事はない。だが、次の瞬間。

 ドアが、内側から独りでに開いた。いや、開いたのではない。ドアノobが、ありえない音を立てて捻じ曲げられ、破壊されたのだ。

 そして、そこに立っていたのは、ドアそのものよりも巨大な体躯を持つ、一人の男だった。ジャック・ライリーだった。

「……何の用だ、デカブツ。俺は、客は呼んでないぜ」

 ホーキンスは、少しも動じなかった。彼は、いつでもこの部屋の壁をすり抜けて逃げられる。

「ピーター・ホーキンスだな」

 ジャックの声は、地響きのようだった。彼は、部屋にずかずかと入ってくると、ホーキンスの目の前のテーブルに、分厚いファイルを叩きつけた。

「お前が、過去10年間で関与したとされる、未解決の窃盗事件のリストだ。被害総額、推定2億ドル。証拠は、ない。だが、状況証拠だけで、お前を終身刑にするには十分すぎる量だ」

「……ハッ。脅しかよ。お前ら、俺を捕まえることなんてできやしないぜ」

 ホーキンスは、鼻で笑った。

「ああ、知っている」

 ジャックは、あっさりと認めた。

「だから、我々はお前を捕まえるつもりはない。我々は、お前に『選択肢』を与えに来た」

 彼は、一枚のカードをテーブルに滑らせた。それは、プラチナ製のクレジットカードのように見えた。

「選択肢A。お前は、このままドブネズミのような生活を続け、いつか我々が開発した対アルター用の特殊な檻の中で、残りの人生を過ごす。……ああ、その檻は、空間そのものを固定するから、お前のその便利なスキルも通用しないぞ」

「そして、選択肢B」

 彼は、プラチナカードを指さした。

「お前は、我々のために働く。お前のその才能を、国家のために使う。そうすれば、過去の犯罪は全て大統領特権で恩赦される。このカードには、お前が一生遊んで暮らせるだけの金が、毎月振り込まれる。女も、酒も、好きなだけだ。……ただし、我々が『仕事』を頼んだ時は、犬のように忠実に、その尻尾を振ってもらうがな」

 ジャックは、ホーキンスの顔に自らの巨大な顔を近づけた。

「……選べ。……まあ、お前ほどの賢い男なら、どちらが『合理的』な選択か、言うまでもないだろうがな」

 その、絶対的な圧力。

 ホーキンの顔から、いつもの余裕の笑みが消えていた。

 彼は、しばらくの間、目の前の巨漢と、テーブルの上のプラチナカードを交互に見つめていた。

 そして、ふっと息を吐いた。

「……いいだろう。乗ってやるよ、そのクソみたいな話」

 彼は、プラチナカードをひったくるように手に取った。

「……ただし、俺は誰の犬にもならん。これは、ビジネスだ。対等な、な」

 その、最後の虚勢。

 ジャックは、それに鼻で笑うと、巨大な背中を向けて部屋を出ていった。

 一人残されたホーキンスは、そのプラチナカードの冷たい感触を確かめていた。

 彼は、自由を選んだつもりだった。

 だが、その実、彼はこれまでで最も抜け出すことのできない、金色の檻へと自ら足を踏み入れたのだということに、まだ気づいてはいなかった。


 §


 その夜、大統領執務室、オーバルオフィス。

 トンプソンは、一人、執務机の前に座っていた。

 彼の目の前のセキュアな端末には、デッカード副長官から送られてきたばかりの、『プロジェクト・キメラ』の最初の成果報告書が表示されていた。

『ターゲット・アルファ、招聘完了』

『ターゲット・ブラボー、契約完了』

 その、あまりにもビジネスライクな文面に、彼は僅かな吐き気を覚えた。だが、すぐにその感情を押し殺した。

 彼は、窓の外のワシントン記念塔を見つめた。

 そして、自らに言い聞かせるように、心の中で呟いた。

(……これは、自衛行為だ。そうだ。これは、アメリカを守るための、唯一の道だ)

(我々は、彼らを強制しているのではない。選択の機会を与えているのだ。罪を犯した者には、贖罪の機会を。力に怯える者には、救済の機会を。……そして、その対価として、彼らのその類稀なる才能を、国家のために捧げてもらう。なんと、フェアな取引ではないか)

(これは、人権侵害ではない。むしろ、これこそが、アルターという新しい人類が、この社会で生きるための、最も現実的で、最も人道的な道筋なのだ)


 彼は、自らが紡ぎ出すその欺瞞に満ちた物語に、自ら酔いしれようとしていた。

 そうでなければ、このあまりにも重い決断の重圧に、耐えられそうになかったからだ。

 彼は、静かに報告書の承認ボタンを押した。

 そのクリック一つで、さらに何百、何千というアルターたちの運命が、国家という名の巨大な歯車に組み込まれていく。

 紫の煙が、歴史の重みを宿した部屋の闇の中へと、静かに溶けて消えていった。

 新しい、そしてより暗い時代の幕が、今、確かに上がったのだ。

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