第82話 覚醒する鋼鉄の牙
ホワイトハウス、シチュエーションルーム。
その部屋の空気は、フィルターを通しているはずなのに、まるで古びた墓石のように冷たく、重かった。壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群には、数時間前に日本の東京湾で繰り広げられた、神話の戦いの録画映像が、音声なしで繰り返し再生されている。黄金のオーラを纏った百メートル級の巨人と、民衆の信仰が生み出した破壊神。そのあまりにも非現実的な光景が、この地球上で最も現実的な意思決定が行われるべき空間を、悪夢のように支配していた。
円卓を囲むのは、アメリカ合衆国という巨大な国家の神経中枢そのものだった。合衆国大統領、ジェームズ・トンプソン。歴戦の軍人としての鋭い眼光を未だ失っていない国防長官、マーカス・ソーン元帥。諜報の世界でその名を轟かせる国家情報長官、エレノア・ヴァンス。そして、常に最悪の事態を想定する国務長官や統合参謀本部議長といった、この国の安全保障をその両肩に背負う者たち。
彼らは、沈黙していた。
日本の英雄『ジャベリン』が、天に掲げたその両の掌の間に、小さな太陽を生み出すその瞬間。そして、その太陽が一条の極光となって、神獣ガドラの巨体を因果律のレベルでこの世界から完全に「消去」する、その冒涜的なまでの光景。その映像を、彼らはもう何十回となく見返していた。
最初に沈黙を破ったのは、国防長官ソーンだった。彼の声は、砂利を噛むかのように、低く、そして乾いていた。
「……統合参謀本部の初期分析が出た。あの最後の攻撃――IAROが『ステラ・ビーム』と仮称しているアレの推定エネルギー量だが……」
彼は、一度言葉を切った。そして、信じがたいという響きを声に乗せて続けた。
「……W88、戦略核弾頭。その、ほぼ3発分に相当するそうだ。たった一人の人間が、それをものの数分で生成し、寸分の狂いもなく目標に叩き込んだ。……これが、現実だ」
その報告に、部屋の空気がさらに数度、冷え込んだ気がした。
戦略核兵器。それは、人類が半世紀以上かけて築き上げてきた、恐怖による秩序の象徴。国家の最終兵器。だが、今やそれは、たった一人のアルターの「必殺技」と同列、あるいはそれ以下の存在に成り下がってしまったのだ。
「問題は、それだけではない」
国家情報長官、エレノア・ヴァンスが、冷徹な声で続けた。彼女の指先が、手元のタブレットを滑る。メインモニターの映像が切り替わり、今度はジョシュア・レヴィンが東京上空に展開した、あの壮麗な防御シールドのデータが表示された。
「『自由の盾』、ジョシュア・レヴィン。彼が展開したシールドは、あの『ステラ・ビーム』の余波――すなわち戦略核兵器3発分の爆風、熱線、電磁パルスを、完全に無力化した。我々のいかなる迎撃ミサイルシステムも、これほどの完璧な防御は不可能だ。彼は、たった一人で、直径20キロメートルを超える範囲を、核攻撃から守れるということになる」
彼女は、そこで一度、息を吸い込んだ。
「そして、最も厄介なのが『ゲートキーパー』、クロエ・サリヴァンだ。彼女の空間転移能力は、もはや戦術的なレベルを超えている。今回の件で、彼女はアリゾナの砂漠から東京の上空まで、戦闘機一機と車両一台を、誤差なく、ほぼタイムラグなしで転送させてみせた。これは、何を意味するか。兵站という概念の、完全な崩壊だ。補給線も、前線も、後方もない。彼女がその気になれば、ホワイトハウスのこの部屋に、今この瞬間、敵国の特殊部隊を送り込むことすら可能だということだ」
シチュエーションルームは、絶対的な沈黙に支配された。
希望ではない。日本の勝利は、彼らにとって希望などではなかった。
それは、突きつけられた刃。
人類の戦争の歴史が、今日、完全に終わったのだという、冷酷な死亡宣告だった。
これまで彼らが信じてきた、戦車の数も、戦闘機の性能も、空母打撃群の展開能力も、もはや何の意味もなさない。
たった一人の、規格外のアルター。
その存在が、国家間のパワーバランスを、あまりにも馬鹿馬鹿しいほど簡単に、ひっくり返してしまう。
日本には、神崎勇気がいる。
アメリカには、ジョシュア・レヴィンとクロエ・サリヴァンがいる。
では、中国は? ロシアは? そして、『カオス同盟』を標榜する、あの狂信的な国家群は?
彼らが、もし、これらと同等か、あるいはそれ以上のアルターを、今この瞬間も密かに育成しているとしたら?
「……我々は、遅すぎたのかもしれないな」
これまで沈黙を守っていたトンプソン大統領が、ぽつりと呟いた。その声には、深い、深い疲労の色が滲んでいた。
「5年前、『人類憲章』を採択し、我々は神の物語から決別し、人間の理性の勝利を宣言した。だが、それはただの傲慢だったのかもしれん。我々は、神のゲーム盤から降りたつもりで、ただ新しい、より残酷なゲーム盤の上に乗せられただけだったのだ」
彼は、ソーン元帥へと視線を向けた。
「……マーカス。君が、3年前に提出したあの計画。……『プロジェクト・キメラ』。まだ、生きているかね?」
その言葉に、ソーン元帥の瞳が、初めて鋭い光を宿した。
「……はい、大統領。もちろん、生きております。いつでも、稼働可能です」
『プロジェクト・キメラ』。
それは、DAA(アメリカ超常事態対策局)の最も深い闇の中に封印されてきた、禁断の計画。
国内に存在する全てのアルターをリストアップし、その能力を軍事的な観点からランク付けし、そして最終的には国家の管理下に置く。すなわち、アルターの兵器化計画。
これまで、そのあまりにも非人道的な内容から、歴代の政権は計画の本格稼働を躊躇してきた。
だが、もう躊躇している時間はない。
「……具体的に、どんな駒が揃う?」
トンプソンの問いに、ソーンは待っていましたとばかりに、淀みない口調で語り始めた。
「まず、諜報活動。国家情報長官がおっしゃる通り、我々は新たな『目』と『耳』を手に入れることができます」
彼の言葉に呼応し、ヴァンスがモニターを操作する。そこに映し出されたのは、オハイオ州の片田舎に住む、ごく普通の主婦のプロフィール写真だった。
「メアリー・アンダーソン。42歳。スキル、【千里眼】。ランクはB。彼女の能力は、目を閉じ、意識を集中させることで、半径50キロメートル以内のあらゆる場所を、まるでその場にいるかのように俯瞰視できるというものです。もし、彼女を大統領専用機のエアフォースワンに乗せ、世界中の係争地域の上空を飛行させれば? 我々は、敵国の軍事基地の内部構造から、テロリストの潜伏先、果ては混沌派の首脳が昨夜何を食べたかまで、リアルタイムで把握することが可能になります。完全な、情報的優位です」
次に、ソーン自身がモニターを操作した。映し出されたのは、刑務所の囚人服を着た、痩せこけた男の写真。
「ピーター・ホーキンス。32歳。連続窃盗犯。スキル、【位相変換】。ランクA。彼は、自らの身体の分子振動を変化させ、あらゆる壁を幽霊のようにすり抜けることができます。彼を、我々の特殊部隊に組み込めばどうなるか。敵国の厳重なセキュリティも、分厚いコンクリートのシェルターも、彼にとっては無意味です。どこにでも現れ、誰にも気づかれずに任務を遂行し、そして消える。究極の、工作員の誕生です」
「さらに」と、ソーンは続けた。その声は、次第に熱を帯びていく。
「戦術レベルでも、革命が起きます。例えば、ルイジアナの沼沢地で暮らす、ケネス・ジョーンズ。スキル、【炎熱支配】。ランクA。彼は、周囲の空気中の酸素を操り、半径1キロメートル以内のあらゆる場所で、自在に爆発的な炎を発生させることができる。彼一人で、一個師団の進軍を食い止め、あるいは敵の補給路を完全に焼き尽くすことが可能です」
「アイダホ州の農夫、デビッド・ミラー。スキル、【金属浸食】。ランクB。彼が触れた金属は、数秒でその構造を失い、脆い錆の塊と化す。敵の戦車部隊の前に彼を一人配置するだけで、その自慢の鋼鉄の軍団は、ただの鉄屑の山と化すでしょう」
壁抜け、千里眼、発火能力、金属浸食……。
シチュエーションルームに集まった者たちは、そのあまりにもSF的な、しかしあまりにも現実的な可能性の数々に、言葉を失っていた。それは、戦争という概念そのものの、完全な書き換えだった。
「……だが、彼らは市民だ」
国務長官が、か細い声で、しかし最後の理性を振り絞って反論した。
「彼らには、人権がある。自らの意志で、国のために戦うことを拒否する権利もあるはずだ。我々は、彼らを強制的に徴兵するつもりかね? それは、我々が守ると誓ったはずの『人類憲章』の理念に、真っ向から反する行為だ」
その、あまりにも正論な、しかしあまりにも無力な言葉。
それに答えたのは、ソーンではなく、これまで沈黙を守っていたトンプソン大統領自身だった。
彼の声は、静かだった。だが、その静けさの中には、地殻の底でマグマが煮えたぎるような、絶対的な覚悟が宿っていた。
「――これは、自衛行為だ」
彼は、きっぱりと言った。
「我々が、この5年間、人権だの倫理だのという綺麗事を議論している間に、カオス同盟は何をしていた? ケイン・コールドウェルは、世界中の悪性アルターをかき集め、忠実な怪物の軍団を作り上げた。彼らに、人権などという概念はない。彼らは、我々のその甘さを、最大の弱点だと嘲笑っている」
「日本を見てみろ。彼らは、神崎勇気というたった一人の少年に、この国の全ての命運を背負わせている。それが、正常な国家の姿かね? それこそが、最大の『人権侵害』ではないのか」
彼は、立ち上がった。そして、シチュエーションルームにいる全ての人間を、一人一人、その鷲のような鋭い瞳で見据えた。
「我々は、選択しなければならない。何もしないことで、国民を危険に晒す『善』を選ぶのか。それとも、非情な決断を下し、国民を守り抜く『悪』を選ぶのか。……私は、後者を選ぶ」
「……いや、これは悪ですらない。これは、国家として当然の、義務だ」
彼は、国家情報長官ヴァンスへと、その視線を向けた。
「エレノア」
「……はい、大統領」
「今すぐ、DAAに命じろ。国内に存在する全てのアルターの、詳細なリストを再作成させろ。スキルランク、潜在能力、思想傾向、家族構成、弱点。……ありとあらゆるデータをだ。期限は、一週間」
「……かしこまりました」
ヴァンスは、表情一つ変えずに頷いた。
次に、彼は国防長官ソーンへと向き直った。
「マーカス」
「はっ」
「『プロジェクト・キメラ』を、本日、この瞬間をもって、本格稼働させる。君に、全権を委任する。必要な予算も、人員も、全てを要求しろ。……ただし、一つだけ条件がある」
「……何でしょう」
「決して、国民に悟られるな。これは、影の戦争だ。我々は、光の当たる場所では、これまで通り『人類憲章』の忠実な守護者を演じ続ける。……だが、その影の下で、我々は牙を研ぐ。誰にも、文句を言わせん」
その、絶対的な命令。
シチュエーションルームにいる誰もが、その言葉の重みを、そしてそれが意味する世界の新たな時代の幕開けを、理解していた。
反対する者は、もう誰もいなかった。
巨大な国家という機械の歯車が、今、確かに、そして後戻りのできない方向へと、大きく、重々しく、回転を始めた。
その夜、大統領執務室、オーバルオフィス。
トンプソンは、一人、執務机の前に座っていた。窓の外には、ライトアップされたワシントン記念塔が、まるで一本の巨大な剣のように、夜空を突き刺している。
彼の目の前のセキュアな端末には、DAAから送られてきたばかりの、『プロジェクト・キメラ』の対象者リストの、最初の数ページが表示されていた。
ジョシュア・レヴィン、クロエ・サリヴァン。
その、国民的英雄の名前から始まるリスト。
その下には、何千、何万という、まだ世に知られていないアルターたちの名前が、無機質なフォントで延々と続いていた。
彼は、その一人一人のプロフィールを、まるで神が自らの被造物の目録を眺めるかのように、静かにスクロールしていく。
彼の心に、罪悪感はなかった。
あるのはただ、一つの冷徹な確信だけだった。
(……自衛行為だ。そうだ。これは、アメリカを守るための、唯一の道だ)
(……むしろ、遅すぎたくらいだ)
彼は、5年前に、日本のあの黒田という男と交わした会話を思い出していた。
『我々は、神の物語から降りる』。
なんと、青臭い理想だったことか。
降りることなど、できはしなかったのだ。
ならば、やることは一つ。
この神が作り出した不条理なゲーム盤の上で、神をも駒として利用し、そして、どんな汚い手を使ってでも、最後に勝者として立っていること。
それこそが、この国の、そして自由世界の指導者として、彼に課せられた唯一の使命だった。
彼は、静かに端末を閉じた。
そして、執務机の引き出しから、一本の葉巻を取り出し、火をつけた。
紫の煙が、歴史の重みを宿した部屋の闇の中へと、静かに溶けて消えていった。
新しい、そしてより暗い時代の幕が、今、確かに上がったのだ。




