第81話 鋼の拳、星の槍
深夜の東京湾は、神々の闘争によって煉獄の様相を呈していた。
黄金のオーラを纏った百メートル級の巨人――神崎勇気の化身と、民衆の歪んだ信仰が生み出した破壊神ガドラ。二柱の神獣が繰り広げる死闘は、もはや物理法則を超越した神話の領域にあった。
勇気の拳が唸りを上げてガドラの顎を打ち砕けば、衝撃波だけで周囲の海面がクレーターのように抉れる。ガドラの鉤爪が巨人の装甲を切り裂けば、その余波で発生した津波が、コンテナターミナルの防潮堤をいとも容易く乗り越えていく。
IARO中央司令室の巨大モニターには、その地獄絵図と、それによって刻一刻と上昇していく被害予測データが、無慈悲に表示され続けていた。
「ダメです! ジャベリンが展開した防御フィールド、ガドラの侵攻速度を完全に相殺しきれません! このままでは、戦闘の余波だけで港区と品川区の沿岸部に、壊滅的な被害が!」
分析官の佐伯が、悲鳴に近い声で叫ぶ。
黒田は、唇を噛み締めていた。
強い。
勇気も、そしてガドラも、こちらの想定を遥かに超えて強すぎる。二つの巨大なエネルギーがぶつかり合うだけで、世界そのものが悲鳴を上げている。
「ジャベリンはまだか! アメリカの英雄は、まだ到着しないのか!」
黒田が怒鳴った。その声が、司令室の張り詰めた空気を震わせた、まさにその瞬間だった。
「――こちらゲートキーパー。聞こえる、IARO?」
スピーカーから、凛とした、しかしどこか楽しげな女性の声が響き渡った。その声は、完璧な日本語だった。無論、神の奇跡によるものではない。5年という歳月の中で、彼女たちが必死に習得した、人間の努力の賜物だった。
司令室が、どよめいた。
「クロエ・サリヴァン!?」
「来たのか!」
「ああ!」黒田はマイクを掴んだ。「聞こえている! 状況は最悪だ! すぐに、援護を!」
『――了解。まあ、見てるわよ、そっちのド派手な花火大会。……じゃあ、開けるわね』
その言葉と、同時だった。
ガドラと勇気が殴り合っている、その混沌の戦場の遥か上空。
何もないはずの夜空が、まるで水面のように揺らめき始めた。そしてそこから、二つの光り輝くリングが生まれ、互いに逆方向に高速回転を始め、やがて安定した、直径50メートルはあろうかという巨大な円形の「門」を形成する。
門の向こう側には、信じられないことに、星条旗がはためくどこかの軍事基地の滑走路が見えていた。
そして、その光の門から、一台の黒いマッスルカーと最新鋭のステルス戦闘機が、まるで凱旋するかのように、悠然と東京の空へと姿を現した。
戦闘の真っ只中にいた勇気もまた、その光景に気づいていた。
彼のインカムのチャンネルが、自動的に切り替わる。
『――やあ、ジャベリン。久しぶり。……というか、デカくなりすぎだろ、君』
スピーカーから聞こえてきたのは、穏やかで、しかし絶対的な自信に満ちた青年の声だった。
「ジョシュア!」
勇気は、ガドラの尻尾による薙ぎ払いを屈んでかわしながら叫んだ。
「来てくれたのか!」
『ああ。君だけに、良いところは取らせられないからな』
ジョシュア・レヴィン――『自由の盾』。その声には、5年という歳月の中で幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、揺るぎない落ち着きがあった。
『クロエ、聞こえるか』
『ええ、聞こえてるわよ、ボーイスカウト』
ステルス戦闘機のコクピットから、クロエ・サリヴァンの声が応える。
『作戦プランは?』
『プランAだ。まずは、この街の全てを守る』
ジョシュアは、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。
『ジャベリン。君は戦闘に集中しろ。……ここから先は、この街に指一本触れさせはしない』
その言葉は、ハッタリではなかった。
黒いマッスルカーは、自動操縦で都心の上空へと移動していく。そして後部座席に座っていたジョシュアが、ゆっくりと車の外へとその身を乗り出した。
彼は、高度1000メートルの上空で、ただ静かに、眼下に広がる戦場と、その背後で眠る1400万の命が宿る光の海を、見下ろしていた。
そして、目を閉じる。
彼のスキル、【絶対領域】。
その神から与えられた絶対防御の権能を、彼は自らの肉体という小さな檻から解放し、一つの都市を守るための巨大な奇跡へと、昇華させた。
「――我が盾は、星条旗の下に。そして、自由を愛する全ての民と共に」
彼がそう呟いた瞬間。
東京の23区全域。その広大なエリアの上空に、巨大な魔法陣のような光の回路が、一瞬だけ青白く浮かび上がった。
そして、次の瞬間。
その回路から、半透明の、しかしこの世のどんな物質よりも強固なエネルギーのドームが、ゆっくりと、しかし確実に地上へと降下を始めた。
それは、あまりにも荘厳で、あまりにも美しい光景だった。
都心で、この絶望的な戦いを固唾を飲んで見守っていた人々は、自らの頭上に降りてくるその巨大な光の天蓋に、ただ息を飲んでいた。
ドームは、高層ビルの屋上を、高速道路を、そして人々の頭上を、まるで幻のようにすり抜けていく。
そして、その端が東京の区境を示す地面に完全に到達した時。
全ての音が、消えた。
ガドラの咆哮も、勇気の拳が叩きつけられる衝撃音も、遠くで鳴り響いていたサイレンの音も、全てが嘘のようにぴたりと止んだ。
ドームの内側にいる人々は、まるで分厚いガラス越しにサイレント映画を見ているかのような、奇妙な静寂に包まれた。
ジョシュアは、ゆっくりと目を開いた。
そしてIAROの、そして全世界の回線に向けて、高らかに宣言した。
「――取り敢えず、東京全体をシールドで覆った。これで、被害は避けられる」
「東京の防御は、完了した!」
その、絶対的な宣言。
IARO司令室は、割れんばかりの歓声に包まれた。
黒田は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
そして、震える手で神崎勇気へのホットラインを開いた。
「――大技の、使用許可を出す」
黒田は、言った。その声は、この戦いの始まり以来初めて、確かな勝利への確信に満ちていた。
「聞こえるか、勇気君! シールドは完璧だ! もはや、余波を気にする必要はない! ……やれ! 君のその全力で、あの怪物をこの世界から完全に消し去れ!」
その言葉を、勇気は待っていた。
海中でガドラと壮絶な殴り合いを続けていた黄金の巨人。
その口元に、初めて獰猛な笑みが浮かんだ。
「――了解!」
彼はそう短く応えると、それまでとは比べ物にならないほどの凄まじいオーラを、その身から爆発させた。
彼は、一度大きく後方へ跳躍すると、ガドラから距離を取る。
そして、その神獣に向かって、渾身の力を込めて海面を蹴りつけた。
それは、もはや蹴りではなかった。
それは、海そのものを巨大なスプリングとして利用した、神の砲弾。
黄金の巨人の身体が、ガドラの巨大な腹部へと一直線に突き刺さった。
「――行けやあああああああああああああ!」
ガドラの巨体が、まるでサッカーボールのように、いとも簡単に海面から空中へと思いっきり蹴り飛ばされた。
巨人は、その勢いを殺すことなく、さらにガドラを上へ、上へと、大気圏の遥か彼方へと空中に放り投げる。
やがて、ガドラの巨体が放物線の頂点に達し、その動きが一瞬だけ止まった、その瞬間。
勇気は、好機を逃さなかった。
彼は、空中に静止したまま、両の手のひらを天高く掲げた。
そして、自らの内に眠るありとあらゆるスキルとエネルギーを、一つの目的のために解放し始めた。
「――スキルエネルギー生成、×1000!」
「――一点集中!!!」
彼の掲げた両の掌の間に、空間が歪み、小さな、しかし太陽よりも眩しい光の点が生まれた。
世界中のありとあらゆるエネルギーが、その一点へと、まるでブラックホールに吸い込まれるかのように収束していく。
大気中の熱エネルギー。海の水力エネルギー。そして、彼がこれまでコピーしてきた無数のスキルに内包されていた、概念的なエネルギー。
その全てが、一つの純粋な破壊の力へと練り上げられていく。
光の点は、瞬く間にその直径を増していく。やがてそれは、勇気の巨体そのものよりも巨大な、灼熱の恒星と化した。
地上からその光景を見上げていた人々は、空に二つ目の太陽が生まれたのだと、錯覚した。
勇気は、その灼熱のエネルギーの塊を頭上へと掲げた。
そして、その神々しいまでの光の奔流に、ただ一つの名前を与えた。
「――喰らいやがれ……」
「――ステラ・ビームッ!!!!」
声と、同時。
彼が頭上から振り下ろした、その太陽の具現化したかのような光の奔流が、一条の極光となって、遥か上空で無防備な姿を晒しているガドラへと叩きつけられた。
音は、なかった。
ただ、絶対的な光だけが世界を支配した。
ガドラの、その神の如き巨体は、抵抗する間もなく、その光の中に完全に飲み込まれていく。
断末魔の叫びを上げる時間すら、与えられなかった。
その存在そのものが、原子のレベルですらない、因果律のレベルで、この世界から完全に「消去」されていく。
光が過ぎ去った後。
そこには、もはや何も残っていなかった。
ただ、ガドラがいたはずの空間が、オーロラのように美しく揺らめいているだけだった。
そして、その破壊の余波。
凄まじい衝撃波と、熱線と、電磁パルスが、津波のように地上へと降り注いだ。
だが、その全ては、ジョシュアが展開した絶対防御のシールドにぶつかり、まるで優しい春の雨のように、無力化されていく。
シールドの表面が、虹色にきらきらと輝く。それは、人類の歴史上最も美しく、そして最も安全な花火大会だった。
シールドの内側では、人々がそのあまりにも神々しい光景に、ただ呆然と空を見上げていた。
被害は、ゼロだった。
やがて、空が元の静かな夜の闇を取り戻した頃。
黄金の巨人の姿は、どこにもなかった。
代わりに、芝浦埠頭の、ガドラが最初に上陸したその場所に、一人の青年の姿があった。
神崎勇気は、その場にへたり込み、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返していた。
その顔には、いつもの余裕の色はなく、純粋な疲労が色濃く浮かんでいた。
「……ふぅー……。疲れた……」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
その声は、インカムを通じてIAROの、そして全世界へと届けられた。
「……久しぶりに、しんどかった……」
その、あまりにも人間的な一言。
それが、引き金だった。
東京を、日本を、そして世界を支配していた緊張と恐怖の糸が、ぷつりと切れた。
次の瞬間。
東京中から、割れんばかりの、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
「勝った! 俺たちは、勝ったんだ!!!!」
「ウルトラマンかよ!!!!!」
「ジャベリン! ジャベリン! ジャベリン! ジャベリン!」
東京都民は、路上へと飛び出した。
彼らは、見ず知らずの他人と抱き合い、涙を流し、そして空に向かって、ただひたすらに英雄の名を叫び続けた。
それは、人類が初めて神々の理不尽なゲームに、自らの手で、そして英雄の力によって、完全な勝利を収めた歴史的な瞬間だった。
その、あまりにも美しい、そしてあまりにも感動的な光景。
それを、日本の安アパートの一室で、一人の神が最高の笑顔で見つめていた。
「いやー、素晴らしい! 素晴らしいじゃないか! 最高の、最高のハッピーエンドだ!」
空木零は、特大サイズのポップコーンの最後の一粒を口に放り込むと、心からの拍手をモニターの向こうの英雄たちへと送っていた。
彼が蒔いた小さな狂信の種は、結果として、人類にこれ以上ないほどの強い団結と、そして揺るぎない英雄への信頼を与えてしまった。
それは、彼にとっても全く予測不能な、最高のサプライズだった。
「……なるほどねえ」
彼は、実に楽しそうに呟いた。
「英雄たちが、パーティを組んじゃったか」
「じゃあ、次に用意するダンジョンは、もっともっと難しく、もっともっと絶望的なやつじゃないと、釣り合わないよなあ」
神は、考える。
この最高の役者たちのために、次にどんな最高の舞台を用意してやろうかと。
彼の退屈しのぎの物語は、まだその序章が終わったばかりだった。