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第78話 一週間の安息と神獣の産声

 IARO事務総長、黒田が公式声明を発表してからの一週間。

 世界は、奇妙な熱病からの回復期にあった。

 スキル神が予言した通り、邪神が緩めた因果律の蛇口は、宇宙の自浄作用によってゆっくりと、しかし確実に締められていった。『忘れ物探しの小神』や『完璧な半熟卵の神』といった、日常の隙間に生まれた無数のささやかな神々は、その源流を断たれ、新たな誕生の報告は日に日に減少していった。

 黒田の「あれは邪神の罠の前兆だ」という公式見解ハッタリも、一定の効果を発揮した。人々は、目の前の小さな奇跡に熱狂するのをやめ、再びIAROの、そして鏡ミライが語る秩序の物語へと、意識を戻し始めていた。

 世界は、緩やかに「正常」を取り戻しつつあるように見えた。


 だが、それは水面上の話。

 その水面下、人々の集合的無意識の最も深く暗い場所で、全く新しい、そして比較にならないほど強大な「信仰」が、まるで古代の邪神の胎動のように、静かに、しかし急速にその形を成していた。


 発端は、インターネットの最も暗い片隅。オカルトフォーラムや、過激な思想を持つ者たちが集う匿名掲示板だった。

 彼らは、駄女神がもたらした「マイクロ・ミラクル」の熱狂を、冷ややかに、そして軽蔑の目で見つめていた。


『くだらない』

 ハンドルネーム「終末観測者」と名乗る人物の書き込みが、その始まりだった。

『靴紐がほどけない? 駐車スペースが見つかる? そんなものが、神の奇跡だと? 馬鹿馬鹿しい。お前たちは、神の力をあまりにも矮小化している。あれは、我々の信仰心を試すための、邪神様からのテストに過ぎない』


 その書き込みは、燻っていた者たちの心に火をつけた。

『同意だ。俺たちが求めるのは、そんなちっぽけなご利益じゃない』

『もっとこう、根源的で、圧倒的な……世界の全てを一度無に帰すような、真の『破壊』と『再生』の奇跡だ』


 議論は、熱を帯びていった。そして一人のユーザーが、一つの狂気に満ちた、しかしあまりにも魅力的な仮説を投下した。


『なあ、お前ら。考えたことがあるか? 信仰が神を生むのなら。その信仰の『質』と『量』を極限まで高めれば、俺たちは一体どんな神を、この手で生み出せるんだろうな?』

『忘れ物を探す神が生まれるなら、星を砕く神だって生まれるんじゃないのか?』


 その思想は、ウイルスのように伝播した。

 彼らは、自らが崇拝すべき「最強の神」を探し始めた。

 そして彼らが最終的にたどり着いたのは、奇しくも、日本という国が半世紀以上も前から無意識のうちに育んできた、最も巨大で、最も荒々しい架空の神だった。


 ――怪獣。


 彼らは、数十年前の古い特撮映画の中に、その理想の神の姿を見出したのだ。

 映画『大怪獣ガドラ 東京蹂躙』。

 それは、当時の最高の特撮技術で描かれた、カルト的な人気を誇る怪獣映画だった。劇中で、古代の地層から蘇ったとされる神獣「ガドラ」は、都市を破壊し、軍隊を蹂躙し、そして最後は海へと去っていく。その姿は、単なる巨大な生物ではなかった。それは、人間の文明に対する自然の怒り、あるいは神の鉄槌そのものとして描かれていた。


『これだ』

「終末観測者」は、ガドラの勇壮なポスター画像を掲示板に貼り付けた。

『我々が今、この世界に召喚すべき神は、この御方しかいない。破壊神ガドラ。彼こそが、この腐りきった秩序を破壊し、世界を更地に戻してくださる、真の救世主だ』


 その呼びかけに、世界中の現状に絶望し、より大きな刺激を求める者たちが熱狂的に呼応した。

 彼らは自らを『ガドラ信仰団』と名乗り、インターネットを新たな教会として、その教義を体系化し始めた。

 古い映画のフィルムは「聖典」となり、マニアが作った怪獣のフィギュアは「御神体」となった。ファンが描いたイラストは「聖像画」として拡散され、劇中の咆哮は「祝詞」として共有された。

 彼らは、来るべき「その日」のために、周到な準備を進めていた。

 黒田たちがマイクロ・ミラクルの鎮静化に安堵し、世界が偽りの平穏を取り戻したと信じ込んだ、あの運命の日。

 邪神が因果律の蛇口を緩めてから、ちょうど七日目の夜。


「終末観測者」の最後の書き込みが、全世界の信者たちへと発信された。

『――時は来た。今宵、月が天頂に達する時、全世界の同胞よ、心を一つにせよ。我らが神の真名を三度唱えるのだ。さすれば神は我らの声に応え、その姿をこの俗世に現すであろう。祭りの始まりだ』


 §


 IARO本部、中央司令室。

 壁一面の巨大モニターが映し出す世界地図から、この数日間、あれほど画面を汚していた無数の小さな光点が、綺麗に消え去っていた。

「……観測されていたマイクロ・ミラクル現象、過去24時間で98%減少。ほぼ、終息したと見て間違いありません」

 佐伯の、安堵に満ちた声が響く。

 司令室は、久しぶりに穏やかな空気に包まれていた。職員たちの顔にも、ようやく笑みが戻っていた。

 黒田は、自らの執務室でその報告を受け、深く、深く息を吐き出した。

 終わった。

 彼は、そう思った。

 スキル神の言う通りだった。嵐は、過ぎ去った。

 彼は、机の上の冷めきったコーヒーを、ようやく飲み干すことができた。そして、数週間ぶりに自宅のベッドで眠ることを、考え始めていた。

 だが。

 彼のプロファイラーとしての本能が、その心の片隅で最後の警鐘を鳴らしていた。

(……静かすぎる)

 そうだ。あまりにも、静かすぎる。

 あの邪神が、こんなあっさりと引き下がるだろうか。このくだらない神様騒動は、本当にただの気まぐれだったのか。それとも、もっと大きな何か別の目的のための、壮大な「陽動」だったのではないか。

 彼が、その消えない違和感の正体を探ろうと思考を巡らせていた、まさにその瞬間だった。


 ピーンポーン。

 執務室のインターホンが、間の抜けた音を立てた。

「室長、日本時間の深夜0時です。定時報告……」

 部下の声が、途中で途切れた。

 代わりに彼の耳に飛び込んできたのは、司令室の方向から響き渡る絶叫と、けたたましい非常警報の音だった。

 黒田の全身の血が、凍り付いた。

 彼は椅子を蹴るように立ち上がると、執務室を飛び出した。


 中央司令室は、地獄絵図と化していた。

 職員たちは顔面蒼白でモニターを見上げ、ある者はその場にへたり込み、ある者は意味のない絶叫を繰り返している。

「どうした! 何があった!」

 黒田の怒声に、佐伯が震える指でメインモニターを指さした。

「……東京湾……。海が……」

 黒田は、モニターに映し出された光景に言葉を失った。


 それは、東京湾の中心、海ほたるパーキングエリアのすぐ側だった。

 夜のはずの海面が、まるで真昼のように青白く発光していた。そして、その光の中心で、海水が巨大な渦を巻き、天へと昇っていく。まるで、海そのものが巨大な龍のように、天へと咆哮しているかのようだった。

 気象衛星は、観測史上ありえない規模の局地的なスーパーセルと、異常な電磁パルスの発生を捉えていた。


「……なんだ、これは……。アルターの仕業か!?」

「いえ、違います! これほどのエネルギー反応、もはやS級ですらありません! 測定不能! まるで……まるで、神そのものが生まれようとしているような……!」


 その分析官の絶叫。

 それが、真実だった。

 何億という人間の、狂信的な信仰。

 それが、邪神が緩めた因果律の蛇口を通って、今、この一点に凝縮し、一つの巨大な「神性」としてこの世に受肉しようとしていた。


 渦の中心の光が、一際強く輝いた。

 次の瞬間、海面が、まるで巨大な爆弾が爆発したかのように、凄まじい水柱を上げて弾け飛んだ。

 そして、その水飛沫の向こう側から。

 ゆっくりと、その巨体が姿を現した。

 恐竜のようでもあり、龍のようでもある、荘厳なシルエット。その皮膚は濡れた岩石のように黒光りし、背中には、まるで鋭利な山脈のような巨大な背びれが、不気味な青い光を明滅させている。

 天を衝くほどの、その巨体。

 そして、その頭部には二本の捻れた角と、全てを憎むかのような燃えるような赤い瞳が、二つ輝いていた。


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!


 その腹の底から響き渡るような、しかしどこか神々しい咆哮。

 それは、大気の層を震わせ、東京中の窓ガラスをビリビリと共振させた。

 破壊神、ガドラ。

 人類が、自らの手で生み出した最悪の神。

 その神獣が、今、確かにこの世界に降臨した。


 その、あまりにも絶望的で、あまりにも美しい光景。

 それをインターネットを通じて見ていた『ガドラ信仰団』の信者たちは、恍惚の表情で涙を流し、その場でひれ伏した。

「おお……!」

「来た……! 我らが神が……!」

「見てください! なんと、お美しい……!」

 彼らにとって、これから始まるであろう東京の破壊は、悲劇ではない。

 それは、待ちに待った最高の「祭り」の始まりだった。


 ガドラは、ゆっくりとその巨体を動かし始めた。

 目標は、一つ。

 光り輝く人間の文明の象徴。東京の、摩天楼。

 その絶望的な進軍を前にして。

 黒田は、震える声で、しかし指揮官としての最後の理性を振り絞って叫んだ。

「……ジャベリンを、出せ」

「神崎勇気を、今すぐ叩き起こせッ!!」

「……これは、もはやテロではない! ……神獣災害だッ!!!」


 §


 その、あまりにも滑稽で、あまりにも壮大な狂騒曲。

 それを、日本の安アパートの一室で、一人の神が腹を抱えて笑っていた。

 空木零は、モニターに映し出された巨大な怪獣の勇姿と、その足元で熱狂的に踊り狂う信者たち、そして絶望に顔を引きつらせる黒田の顔を最高のおつまみにして、キンキンに冷えたコーラを呷っていた。


「はは……あっははははは! 面白い! 最高だよ、君たち! 俺の想像を、遥かに、遥かに超えてきてくれたじゃないか!」


 彼は涙を拭いながら、モニターに向かって叫んだ。

「怪獣!? 人間の信仰で、怪獣を作っちゃったの!? 天才か、君たちは! 天才だよ!」

「いやー、これだよ、これ! これこそが、俺が見たかった最高のエンターテインメントだ!」


 彼は、知っていた。

 この祭りが、ただの破壊では終わらないことを。

 やがて、あのSS級の器を持つ少年が、この神獣の前に立ちはだかるだろう。

 英雄と、民衆が生んだ神の壮絶な戦い。

 これ以上に、面白くなる物語があるだろうか。

 いや、ない。


「さあ、始めようか」

 彼は、新しいポテトチップスの袋を景気良く開けた。

「怪獣大戦争の、始まりだ」


 神は、笑う。

 自らがほんの少しだけ緩めた世界の理が、こんなにも豊かで、こんなにも壮大な物語を自律的に生み出してくれたことに、心からの満足と、そして最大級の喝采を送りながら。

 彼の退屈な日常は、今日もまた世界の新しい悲劇と、そして何よりも最高の喜劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。



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