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第77話 神様見本市と英雄の溜息

 深夜。その言葉が本来持つはずの静寂や安らぎといった概念は、この場所には存在しない。

 IARO(国際アルター対策機構)本部、地下300メートル。事務総長執務室の空気は、フィルターを通しているはずなのに、まるで世界中の疲労とストレスを凝縮して固めたかのように、重く淀んでいた。

 室長の黒田は、身じろぎもせず、巨大な戦略モニターに映し出された世界地図を睨みつけていた。地図の上には、もはや数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの、無数の小さな光点が明滅している。それは、テロの発生地点でも、紛争の兆候でもない。それは、この一週間で世界中に爆発的に産声を上げた、あまりにもくだらなく、そしてあまりにも厄介な新しい「神々」の鎮座地を示していた。


 モニターの片隅では、部下である佐伯がまとめた最新の報告書が、無慈悲にスクロールされ続けている。


『ケース#408:ドイツ、ベルリン。特定の街灯に祈ると「必ず靴紐がほどけなくなる」という御利益が報告され、深夜にも関わらずサラリーマンや学生による行列が発生。周辺住民より、騒音の苦情が殺到中』

『ケース#415:アメリカ、シカゴ。ダウンタウンにある特定の公衆トイレが「必ず空いている」とSNSで話題に。現在、腹痛に悩む市民たちの間で一種の聖地として扱われている模様』

『ケース#422:日本、東京。渋谷区のスクランブル交差点において、「信号待ちの際に必ず好きなアイドルの曲が頭の中で流れ始める」という御利益のあるマンホールが特定され、若者たちが殺到。交通の著しい妨げに』


「……ふざけている……」


 黒田は、呻くように言った。その声は、誰に聞せるでもなく、ただ執務室の重い空気に吸い込まれて消えていった。

 机の上には、飲み干されて冷え切ったコーヒーカップが三つ、無造作に置かれている。灰皿には、根本まで吸われ、押し潰された煙草の吸殻が、小さな絶望の山を成していた。

 彼は、この光景に既視感を覚えていた。

 そうだ。これは、あの『神々の戯れ』が世界にばら撒かれた直後の、あの悪夢のような日々に酷似している。


「……いや、これは『神様』騒動か」


 黒田は、吐き捨てるように呟いた。

 あの頃の下らないスキル地獄を思い出す。シャンプーの泡立ちが良くなるスキル。猫の気持ちが少しだけ分かるスキル。あの時は、まだ笑えた。だが、今は違う。

 あれは、まだ「個人」の能力だった。だが、今、世界を覆い尽くしているのは、「信仰」という名の実体を持たない、しかし確実にそこに存在する、新しい秩序の萌芽。

 忘れ物を探す小神、自販機当たりの女神、完璧な半熟卵の神。

 ネット上では、もはや『神様見本市』と揶揄され、人々は新しい神の発見を、まるで新作のソーシャルゲームのキャラクターを見つけたかのように、面白おかしく共有し、拡散している。

 どう戦えと?

 この、あまりにも無害で、あまりにも馬鹿馬鹿しい、しかし確実に世界の理を蝕んでいくこの新しい混沌と。

 黒田は、深く、深く息を吐き出すと、その疲れ切った体を椅子の背もたれに深く沈めた。もう、何日眠っていないだろうか。


 コンコン。

 静かなノックの音に、黒田はゆっくりと顔を上げた。

「……入れ」

 重厚な防音扉が滑るように開き、黒いIAROの制服に身を包んだ一人の青年が、入ってきた。神崎勇気だった。

「……勇気君か。時間通りだな。まあ、座りたまえ」

「失礼します」

 勇気は、黒田の対面に置かれたソファに深く腰を下ろした。彼のその静かな瞳もまた、目の前のモニターに映し出された滑稽な地獄絵図を捉えていた。

「……すごいことになってますね、世界」

 彼の声には、呆れと、そしてほんの少しの面白がるような響きが混じっていた。

「ああ。君の目には、どう映る。この光景が」

「どう、と言われましても……」

 勇気は、少しだけ困ったように頭を掻いた。

「正直、困りますよね。こう、武力で制圧するわけにはいかないから」

 その、あまりにも的確で、そしてあまりにも他人事のような感想。それが、この青年の本質だった。

「その通りだ。我々がこの5年間、必死に積み上げてきた対アルター戦略の全てが、この『馬鹿馬鹿しさ』の前では何の役にも立たん」

 黒田が、自嘲気味に呟いたまさにその瞬間だった。


 執務室の空気が、ふわりと密度を変えた。

 蛍光灯の光が、夕焼けのような温かい黄金色へと変わっていく。

 黒田と勇気は顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと息を吐いて、その気配の主へと視線を向けた。

 彼らの目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった穏やかな老人が、音もなく姿を現していた。


『――うむ。随分と賑やかになっておるようじゃのう、この世界も』


 スキル神。

 その、あまりにも超越的な、しかしあまりにも自然な登場に、勇気は軽く会釈をした。

「どうも、スキル神様」

 黒田は、もはや立ち上がる気力もなかった。ただ、椅子の背もたれに深くもたれかかったまま、その神の顔を見上げた。

「……見ての通りですよ。貴方がた神様の、その壮大な退屈しのぎのおかげで、我々人間はまた新しい地獄の釜の蓋を開ける羽目になっている」

 その、隠しようのない皮肉と敵意。

 それを聞いたスキル神は、しかし少しも気分を害した様子はなく、ただ面白そうに、くつくつと喉の奥で笑った。


『まあ、そういきり立つでない、黒田よ。これはまあ、他愛のないイタズラじゃな』

「他愛がないと? この、世界中を巻き込んだ混乱が?」

『うむ』

 スキル神は空中にふわりと腰を下ろすと、まるで自分のものであるかのように、黒田の机の上の湯呑を一つ引き寄せた。そして、その中身を一口すする。

『あやつが、ほんの少しだけ因果律の蛇口を緩めてしもうたからのう。じゃがまあ、心配はいらん』


 彼は、こともなげに言った。

『自然に、元に戻るじゃろう』


「……元に戻る?」

 黒田は、訝しげに眉をひそめた。


『そうじゃな』

 スキル神は、指を折りながら数えるような仕草をした。

『この宇宙には、自浄作用のようなものがあってのう。あまりにも不自然な形で理が捻じ曲げられると、それを元に戻そうとする巨大な力が働くのじゃ。まあ、邪神が仕掛けたのは、その宇宙の免疫システムを一時的に弱らせるようなものじゃった』

『じゃから、自然の因果律修正で、一週間後には新しい神様はもうこんなに簡単には誕生しなくなるじゃろ』

 一週間。

 その具体的な数字に、黒田は身を乗り出した。

『それに、今生まれておる新しい神様も、信仰を得続けなければその存在を維持できん。いずれは、ただの噂話やおまじないとして、人々の記憶から消えていく。……辛抱じゃな』

 スキル神は、そう言うと悪戯っぽく笑った。


 その、あまりにも楽観的な神の視点。

 黒田は、大きく深いため息をついた。

「……辛抱ですか。その一週間が、我々にとっては地獄のような時間だというのに」

「勇気君の言う通りだ。武力で抑え込むわけにもいかん。かと言って、放置すれば民衆の熱狂はさらに加速する。……どうしろと」

『ふむ。確かに、そうじゃな』

 スキル神は、少しだけ考える素振りを見せた。そして、一つのあまりにも当然の真実を口にした。


『人間は、やはり奇跡に弱いな』


 その言葉に、黒田はぐっと言葉に詰まった。

「……ええ。全くその通りだ。特に、貴方がたのような本物の神がいると分かってしまった後ではな」

『うむ。神様がいると分かったのじゃ。奇跡を期待するのも、自然の流れなのじゃ』

 スキル神は、静かに言った。その声には、人間という種のそのどうしようもないさがに対する深い理解と、そしてほんの少しの憐憫の色が宿っていた。

「おっしゃる通りだと思いますが、管理する側としては頭が痛い問題ですよ」

 黒田は、ぼやくように言った。

「忘れ物探しの小神などは、まあ有用かもしれんが……。今はネットでは、神様見本市になってるからなあ。次から次へと新しい神を見つけては、お祭り騒ぎだ。……このままでは、人間の労働意欲も理性も、全てがこの馬鹿げた奇跡への期待に食い潰されてしまう」

 彼は、本気で心の底から疲れ切った声で言った。

「……仕事をこなしてくれる神様が、欲しくなりますよ。本気でね」


 その、あまりにも人間的な魂の叫び。

 それを聞いたスキル神は、それまでの神々しい雰囲気を、ふっと消し去った。

 そして、腹を抱えるかのように、実に楽しそうに声を上げて笑い出した。


『ほほほほ! ほっほっほっほ!』


 その、あまりにも無邪気な笑い声に、黒田と勇気は呆気に取られていた。


『それは、そうじゃな!』

 スキル神は、涙を拭うような仕草をしながら言った。

『分かる、分かるぞ、黒田よ! 夜中にこっそり現れて、靴をピカピカに磨いておいてくれる、あのブラウニーが欲しくなるのう!』


 ブラウニー。

 スコットランドの伝承に登場する、家の仕事を手伝ってくれる働き者の妖精。

 その、あまりにも古風で、あまりにも的確な例え。

 黒田の、その張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

 彼の口元から、ふっと乾いた笑いが漏れた。

「……はは。……ええ。全くその通りです。……一体、どこへ行けば雇えるのやら」


 執務室の重苦しかった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

 勇気もまた、その二人の奇妙なやり取りを見て、静かに笑っていた。

 黒田は立ち上がった。そして、新しいカップに熱い緑茶を淹れ直した。

 スキル神の、「一週間後には収まる」という言葉。それが、彼の心に僅かな、しかし確かな指針を与えてくれた。


「……分かりました。ならば、こちらも手を打ちましょう」

 彼の目に、再び指揮官としての光が戻っていた。

「直ちにIAROとして公式声明を発表する。『現在世界中で発生している小規模な奇跡現象は、邪神が仕掛けた因果律への大規模攻撃の危険な前兆である可能性が高い』と。そして、『これらの現象は、約一週間で自然終息に向かうと予測される。市民は、過度に熱狂することなく、冷静に行動するように』と。……そう、通達しよう」

 それは、半分は真実で、半分はハッタリだった。

 だが、今のこの混乱した世界には、それくらいの強いメッセージが必要だった。

 スキル神は、その黒田の決断を、満足げに頷いて見ていた。


『うむ。それこそが、お主の役割じゃな』


 彼はそう言うと、すっとその姿を掻き消した。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして湯気の立つ二つの湯呑。そして、やるべきことを見つけた二人の男だけだった。

 黒田は、湯呑を勇気に手渡した。

「……飲むかね」

「はい、いただきます」

 二人は、しばらくの間ただ黙って、その深く、そして僅かに苦い緑茶を味わった。

 戦いは、まだ終わらない。

 だが、この一杯の茶を飲む時間くらいの心の平穏は、まだ自分たちには残されている。

 黒田は、静かに、しかし力強く、そう心に誓った。

 あと、一週間。

 このくだらない神々の狂騒が、過ぎ去るのを待つだけだ。

 彼は、そう信じていた。

 その一週間後に、この世界の誰もが予想だにしなかった本当の「祭り」が始まることなど、まだ知る由もなく。



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