第76話 神様の作り方
世界は、奇妙な均衡と、そして静かな停滞の中にあった。
IAROが掲げる「人間の物語」と、二人の巫女が示す「神の物語」。その三つ巴の綱引きは、世界の辺境で血を流し続けながらも、全体としては泥沼の膠着状態に陥っていた。
希望と絶望が、薄く、広く世界に引き伸ばされている。
それは、空木零にとっては何よりも耐え難い「退屈」の同義語だった。
「……うーん」
日本の安アパートの一室。カップ焼きそばの容器が作り出す褐色の山脈を背に、空木零はオフィスチェアをギシギシと鳴らした。
彼の目の前のモニターには、秩序派と混沌派の最新の軍事動向、鏡ミライの穏やかな配信、陽南カグヤの扇動的な演説、その全てがリアルタイムで映し出されている。
面白い。面白いが、それはもう「知っている面白さ」だった。
「プレイヤーが、完全に攻略法を確立しちゃったMMOみたいなんだよなあ……」
彼は、独りごちた。
新しい装備も、新しいダンジョンも追加されない。ただ、最適化された動きで、同じクエストを永遠に繰り返しているだけ。
そんな時、彼の脳裏に、数ヶ月前に思考の片隅で弄んでいたあのアイデアが蘇った。
『民衆が生み出した神』。
人間たちが、自らの信仰で、架空のキャラクターに本物の「神性」を与えてしまうという、あの滑稽な可能性。
「あれ、惜しかったよなあ……。もうちょっとで、本当に生まれそうだったのに」
彼は、少しだけ残念そうだった。あの時はまだ、世界の因果律が安定していた。人々の信仰も、まだそこまで切実ではなかった。だから、都市伝説は都市伝説のまま、立ち消えになってしまった。
だが、今はどうだ?
世界は、神の存在を完全に受け入れている。奇跡は、日常のすぐ隣にある。人々の心は、常に何かにすがりたいと渇望している。
土壌は、完璧に耕されている。
「……そっか」
彼の口から、まるで天啓でも得たかのような、間の抜けた声が漏れた。
「プレイヤーが新しいコンテンツを自分で作れないなら。……運営が、その『作り方』のヒントを、こっそり教えてあげればいいんだ」
空木零の、その虚無を湛えていた瞳に、数ヶ月ぶりに純粋な創造の光が灯った。
彼はオフィスチェアをくるりと回転させ、再びモニターへと向き合った。
そして、その指先で虚空にコマンドを打ち込み始めた。彼の思考そのものが、この世界のソースコードを直接書き換える、神のプログラム言語だった。
【UPDATE: WORLD_PARAMETERS】
【SET: "Probability_of_Divinity_Emergence_from_Collective_Unconscious" = Current_Value * 100】
彼は、世界の理に、ほんの少しだけ手を加えた。
それは例えるなら、化学反応を促進させるための「触媒」を一滴だけ、世界のスープに垂らすような行為。
あるいは、MMOの運営がこっそりレアアイテムのドロップ率を上げる、週末の特別イベントのようなもの。
「信仰」というエネルギーが、「神性」という物質へと転換されるための閾値を、極限まで下げてやったのだ。
「これで、どうかな」
彼は、実に楽しそうにその新しい世界のパラメータを保存した。
「信仰ポイント100で神様が作れたところを、ポイント1でOKにした感じ? いやー、大盤振る舞いだな、俺」
「これで、人間のどんな些細な、どんな馬鹿げた祈りでも、すぐに神様が生まれちゃう土壌ができたわけだ」
彼はポテトチップスの袋を開け、その塩辛い破片を口に放り込みながら、モニターの向こうの何も知らない七十億のプレイヤーたちに語りかけた。
「さて、みんな。お待ちかねのクラフトイベントの始まりだよ」
「君たちは一体、どんな面白くてくだらない神様を、これから作ってくれるのかな?」
§
その神の悪戯が始まってから、数時間後。
最初の奇跡は、東京のどこにでもあるようなオフィス街で産声を上げた。
営業二課の田中は、絶望していた。
大事な契約書に判をもらうため、取引先の部長の元へ向かっていたのだが、その道中で会社の最も重要な機密データが入ったUSBメモリを、どこかで落としてしまったのだ。
顔面蒼白。冷や汗が止まらない。
彼は、今来た道を半狂乱になって探し回った。だが、見つからない。
もう終わりだ。クビになる。
彼が公園のベンチで頭を抱え、本気でそう思ったその時。
彼の脳裏に、子供の頃、祖母がよく言っていた言葉が蘇った。
『失くし物をしたら、ハサミさんにお願いするんだよ』。
馬鹿馬鹿しい。ただの、おまじないだ。
だが、もう何かにすがるしかなかった。
彼は、ポケットから小さな眉毛切りハサミを取り出すと、それを両手で固く握りしめ、必死に祈った。
「……ハサミさん、ハサミさん。どうか、僕のUSBメモリを……見つけさせてください……!」
その、あまりにも切実で、あまりにも純粋な祈り。
それが、引き金だった。
邪神が緩めた因果律の蛇口から、ほんの一滴の奇跡が、ぽたりとこの世界にこぼれ落ちた。
田中がふと顔を上げた、その瞬間。
一羽のカラスが、彼の目の前の街路樹の枝に、ふわりと舞い降りた。そして、その黒い嘴には、キラリと光る見慣れた銀色のUSBメモリが、確かに咥えられていた。
カラスは、まるで田中のことを見せつけるかのように一度だけ「カァ」と鳴くと、そのUSBメモリを彼の足元にぽとりと落とし、そして再び空へと飛び去っていった。
「………………え?」
田中は、固まった。
そして、震える手でそのUSBメモリを拾い上げた。間違いない。自分のものだ。
彼はしばらくの間、USBメモリとカラスが飛び去っていった空を、交互に見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……ハサミさん……。本当に、いたんだ……」
その日、世界で最も新しく、そして最も小さな神性が、東京の片隅で誕生した。
名もなき、『忘れ物探しの小神』。
その神は、まだあまりにも弱々しく、カラス一羽を操るのがやっとなほどの力しか持っていなかった。だが、田中という最初の、そして熱心な信者を獲得したことで、その存在は確かにこの世界に根を下ろしたのだ。
奇跡は、連鎖した。
同じ日の深夜。
ソウルのとある大学の寮。
女子学生のパク・ソヨンは、期末試験のレポートに追われ、半泣きになっていた。唯一の慰めは、寮のロビーに設置された古びた自動販売機だけ。
彼女は、なけなしの小銭を握りしめ、自販機の前で一つの奇妙な儀式を行っていた。
ボタンを、「上下左右、コーヒー、コーヒー、おしるこ」の順番で押し、最後に自分の飲みたいジュースのボタンを押す。
それは彼女が高校時代に編み出した、「自販機の当たりが出やすくなる」という、何の根拠もないおまじない。
「お願い……! 今日だけは、当たって……!」
彼女が祈るようにボタンを押した、その瞬間。
デジタルルーレットが、ピタリと「777」で揃った。ガコン!という音と共に、お釣りの排出口からもう一本、同じジュースが転がり出てくる。
「やった……!」
彼女の、その純粋な歓喜の念。それが、第二の奇跡を呼び覚ました。
その日以来、彼女が、そして彼女からその「おまじない」を教わった友人たちがその自販機を使うと、異常な確率で当たりが出るようになった。
やがて、その自販機には夜な夜な学生たちが集まり、同じコマンドを唱えながら飲み物を買うという、奇妙な光景が見られるようになった。
ソウルの片隅で、第二の神性が生まれた。
甘い炭酸とカフェインの香りがする、気まぐれで悪戯好きな『自販機当たりの女神』。
フランス、リヨン。
三つ星レストランの厨房。
若きシェフのピエールは、スランプに陥っていた。彼が作る半熟卵。その火の通りが、どうしても完璧にならない。柔らかすぎたり、硬すぎたり。彼のプライドは、日に日に傷ついていった。
ある朝、彼は茹でている鍋に向かって、思わず愚痴をこぼした。
「ああ、クソ! 誰か、僕の代わりにこの卵を完璧な半熟にしてくれる神様はいないのか!」
その、料理人の魂の叫び。
それが、第三の奇跡の産声となった。
その日、彼が作った半熟卵は、全て完璧だった。
白身は完璧に固まっていながら、黄身はとろりとした濃厚な黄金色のソースとなって、溢れ出す。
翌日も、そのまた翌日も。
彼は、ついに悟った。
この鍋には、神が宿っているのだと。
彼はその日から毎朝厨房に入ると、まずその使い古した鍋に向かって恭しく一礼し、感謝の祈りを捧げるようになった。
リヨンの片隅で、第三の神性が生まれた。
硫黄の香りとバターの芳醇な匂いを纏った、職人気質で完璧主義の『完璧な半熟卵の神』。
忘れ物を探す神、当たりをくれる女神、完璧な半熟卵を作る神。
世界中に、そんなあまりにもちっぽけで、あまりにも個人的で、しかし確かに「奇跡」と呼べる現象が、爆発的に生まれ始めていた。
それはもはや、IAROが管理できるような大きなうねりではなかった。
それは人々の日常の、その隙間という隙間に染み出す水のように、静かに、しかし確実に広がっていく、新しい世界の理だった。
IARO本部、中央司令室。
黒田は、モニターに映し出されたその全世界で同時多発的に起きている「マイクロ・ミラクル」の報告を、頭を抱えながら見つめていた。
「室長! 今度は、ドイツのベルリンから! 『なぜか靴紐が絶対にほどけない』という御利益のある街灯が、発見されたと!」
「パリからもです! 『祈ると必ず駐車スペースが見つかる』というマリア像が!」
「……もう、やめろ……」
黒田は、呻いた。
彼の、その疲れ切った脳髄が、ついにこの世界の不条理の奔流に追いつけなくなっていた。
「……これが、奴の新しいゲームか……」
彼は、吐き捨てるように言った。
「我々が、必死に人類の理性と秩序を守ろうとしているこの盤面の上で……。奴は、その盤面自体を、無数のくだらない神々が巣食う、混沌としたおもちゃ箱へと作り変えようとしているのだ……」
それは、あまりにも悪質で、底意地の悪い、壮大な「嫌がらせ」。
そして、その全ての光景を。
日本の安アパートの一室で、空木零は腹を抱えて笑っていた。
彼のモニターには、カラスに感謝の祈りを捧げる田中、自販機に謎の儀式を行うソウルの学生たち、そして頭を抱える黒田の姿が、同時に映し出されている。
「はは……あっははははは! 面白い! 最高だよ、君たち! 俺の想像以上に、くだらない神様をいっぱい作ってくれるじゃないか!」
彼は涙を拭いながら、モニターに向かって叫んだ。
「うんうん! 頑張れ、頑張れ! 忘れ物の神様、信者一人ゲット! 良いぞー!」
「おっと、半熟卵の神、ライバル出現か!? あっちのレストランの鍋の方がご利益あるって噂だぞ! 負けるなー!」
彼は、もはや観測者ではなかった。
彼が作り出したこのくだらない神々の育成シミュレーションゲームに、誰よりも熱中している、ただ一人のプレイヤーだった。
神は、笑う。
自らがほんの少しだけ緩めた世界の理が、こんなにも豊かで、こんなにも滑稽な物語を次々と生み出してくれることに、心からの満足と喝采を送りながら。
彼の退屈な日常は、今日もまた世界の新しい悲劇と、そして何よりも最高の喜劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。