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第8話 鬼神の咆哮

 鬼頭(きとう) 丈二は、自分が生まれ変わったことを、細胞の隅々まで、魂の芯に至るまで、確信していた。

 新宿・歌舞伎町の薄汚い路地裏。砕け散ったコンクリートの壁と、傷一つない己の拳。その二つを隔てる空間には、彼の人生を支配していた、ありとあらゆる無力感、劣等感、そして鬱憤の残骸が、塵となって漂っていた。

 何が起きたのか、理解する必要はなかった。

 頭の中に響いた、あの機械的な声。『金剛力・不壊(こんごうりき・ふえ)』という、神々しい響きを持つ言葉。それが、彼の新しい名前であり、新しい世界の法則だった。

 彼は、路地裏の闇の中で、しばらくの間、ただ自分の両手を見つめていた。指を一本一本、ゆっくりと折り曲げ、そして開く。力が、漲っている。これまで感じたことのない、底なしの力が、全身の血管を駆け巡り、今にも内側から肉体を突き破ってきそうなほどだった。

 恐怖は、なかった。

 あったのは、焼け付くような、そしてどうしようもなく甘美な、歓喜だけだった。

 そうだ、これだ。俺がずっと、ずっと求めていたものは、これだったのだ。

 彼の脳裏に、数時間前の光景が蘇る。

 自分を叱責した、組の幹部の、蔑むような目。

 自分を嘲笑した、敵対組織の連中の、歪んだ笑顔。

 弱いから、見下される。力がないから、奪われる。この街のルールは、いつだってシンプルだった。

 ならば、今度は、俺の番だ。


「……龍星会」


 彼の唇から、その名前が、呪詛のように漏れた。

 彼の所属する組と、長年にわたってこの歌舞伎町の覇権を争ってきた、敵対組織。特に、最近代替わりした若手の会長は、鬼頭のことを「時代の読めない、ただの狂犬」と公言して憚らなかった。その男の顔を思い出すだけで、腹の底が煮え繰り返る。

 行き先は、決まった。

 鬼頭は、闇の路地裏から、ネオンが煌めく表通りへと、その一歩を踏み出した。

 世界が、違って見えた。

 行き交う人々の群れは、まるで無力な小動物の集まりにしか見えない。けばけばしい看板の光も、耳障りな客引きの声も、全てが遠い世界の出来事のようだった。彼は、もはや、この食物連鎖の、最下層にいる存在ではなかった。彼は、頂点に立つ、捕食者だった。

 その全身から放たれる、尋常ではない威圧感に、人々は、モーゼの前の海のように、自然と道を開けていく。誰も彼と目を合わせようとはしなかった。本能が、警鐘を鳴らしているのだ。目の前の男は、自分たちとは違う、危険な「何か」である、と。


 龍星会(りゅうせいかい)の事務所は、歌舞伎町の中心部に聳え立つ、一見すると何の変哲もないオフィスビルの中にある。低層階は、フロント企業である不動産会社やコンサルティング会社が入り、その実態をカモフラージュしている。

 鬼頭は、ビルのエントランスへと、堂々と歩を進めた。

 入り口には、黒服の屈強な男たちが、二人、門番のように立っていた。彼らは、鬼頭の顔を認めると、嘲るような笑みを浮かべた。

「よう、鬼頭じゃねえか。何の用だ、こんなところで。また親分に泣きつきに来たのか?」

「……どけ」

 鬼頭は、短く、低く言った。

「ああん? 聞こえねえな。ここはテメエみてえなチンピラが来ていい場所じゃ……」

 男が、言い終わることはなかった。

 鬼頭の腕が、霞むように動いたかと思うと、男の巨体が、まるで紙くずのように吹き飛んでいた。凄まじい衝撃音と共に、男はエントランスのガラス壁に叩きつけられ、派手な音を立てて崩れ落ちる。

 もう一人の男は、目の前で起きたことが信じられず、一瞬、呆然としていた。だが、次の瞬間には、鬼頭の鉄のような拳が、その顔面にめり込んでいた。

 鬼頭は、崩れ落ちる二人には目もくれず、分厚い鋼鉄製の扉の前に立った。指紋認証と、複数の特殊な鍵がなければ、内側からしか開かないはずの要塞の入り口。

 彼は、軽く、つま先で扉を蹴った。

 ゴウッ!!

 爆発音と間違えるほどの轟音が響き渡り、銀行の金庫室にも匹敵するはずの鋼鉄の扉が、中央からくの字に折れ曲がり、蝶番ごと壁から吹き飛んだ。

 警報が、ビル全体にけたたましく鳴り響く。

 だが、鬼頭は、気にも留めなかった。

 彼は、ゆっくりと、破壊された入り口から、ビルの内部へと足を踏み入れた。

 一階のロビーから、事務所へと続く廊下へ。彼の進む先々で、悲鳴と怒号が上がった。駆けつけてきた龍星会の組員たちが、次々と彼に襲い掛かる。

「この野郎、何しやがんだ!」

「死にてえのか!」

 だが、彼らの誇る腕力も、ドスや鉄パイプも、鬼頭の前では、赤子の玩具に等しかった。

 殴りかかってきた男の腕を掴み、逆にあり得ない角度にへし折る。

 振り下ろされた鉄パイプを、頭で受け止め、逆に鉄パイプの方がひしゃげてしまう。

 鬼頭は、笑っていた。楽しくて、楽しくて、仕方がなかった。

 これまで自分を抑圧してきた、あらゆる物理法則が、彼の前では意味をなさない。この万能感。これこそが、力。


 彼は、階段を駆け上がり、上層階にある、龍星会の中枢部へと向かった。

 踊り場で、十数名の組員が、彼を待ち構えていた。その手には、黒光りする、拳銃が握られていた。

「……止まれ、鬼頭! それ以上近づいたら、蜂の巣にしてやるぞ!」

 リーダー格の男が、震える声で警告する。

 だが、鬼頭は、足を止めなかった。むしろ、その歩みを、さらに速めた。

「撃て! 撃ち殺せェ!!」

 絶叫と共に、銃声が、狭い空間に轟いた。

 ダダダダダッ!!

 マズルフラッシュが、連続して煌めく。放たれた鉛の弾丸が、一直線に、鬼頭の身体へと吸い込まれていく。

 しかし。

 カキン! カン! カンッ!

 聞こえてきたのは、肉を穿つ鈍い音ではなく、金属同士がぶつかり合うような、甲高い音だった。

 銃弾は、彼の胸板に、額に、腕に、次々と着弾する。だが、その全てが、まるで分厚い鉄板に当たったかのように、その形を歪ませ、ぽろぽろと床に零れ落ちていくだけだった。

 彼の身体には、傷一つ、ついていない。

「……な……」

「う、嘘だろ……」

 組員たちは、信じられない光景に、完全に思考を停止させていた。

 鬼頭は、その銃弾の雨の中を、悠然と歩き、にたり、と笑った。

 そして、真正面から飛んでくる一発の銃弾に向かって、大きく、口を開けた。


 ――カチンッ。


 乾いた音を立てて、彼は、飛来した銃弾を、前歯で、受け止めた。

 そして、ぺっ、と、まるで小石でも吐き出すかのように、歪んだ弾丸を床に吐き捨てた。

「……終わりか?」

 その一言が、組員たちの心を、完全に折った。

 彼らは、悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。鬼頭は、その背中を、一人、また一人と、容赦なく殴りつけ、蹴り飛ばし、沈黙させていった。


 最上階、会長室。

 そこには、龍星会の会長と、数名の幹部、そして、一人の老人が、鬼頭を待ち構えていた。

 老人は、龍星会の先代からの相談役であり、古流剣術の達人として、裏社会では知られた存在だった。その手には、鞘に収められた、見事な一振りの日本刀が握られている。

「……化け物め」

 会長が、顔を青ざめさせながら、吐き捨てる。

「化け物? 違うな。俺は、神に選ばれたんだよ」

 鬼頭は、ゆっくりと、部屋の中央へと進み出た。

 その瞬間、老人が、動いた。

 常人には目で追うことすら不可能な、神速の踏み込み。鞘走りの音もなく、抜き放たれた刀身が、閃光となって、鬼頭の首筋へと迫る。必殺の居合抜き。

 だが。

 キィンッ!

 甲高い金属音と共に、老人の動きが、ぴたりと止まった。

 見れば、鬼頭が、ただの人差し指と、中指の二本で、その鋭利な刃を、挟み止めていた。

「な……にぃ!?」

 老人の驚愕の声を、鬼頭は鼻で笑った。

「ジジイ、いい刀だな。だが――」


「――脆ぇんだよ」


 パキィィィィン!!


 鬼頭が、指に僅かに力を込めただけで、何人もの人間を斬ってきたであろう名刀は、まるでガラス細工のように、甲高い音を立てて、粉々に砕け散った。

 その光景は、龍星会の、そして、古い裏社会の秩序の、終わりの象徴だった。

 老人は、柄だけになった刀を握りしめ、その場にへたり込んだ。

 鬼頭は、もはや敵ではない彼らを見下ろし、心の底から、これまでの人生で溜め込んできた、全ての鬱憤を晴らすかのように、蹂躙を開始した。

 彼は、誰一人として殺さなかった。ただ、プライドを、尊厳を、力の象徴であるその肉体を、完膚なきまでに叩きのめし、心を折ることに、歓喜を見出していた。


 数十分後。

 ビルは、地獄のような静寂に包まれていた。

 鬼頭は、ただ一人、ビルの屋上に立っていた。

 眼下に広がる、眠らない街、新宿。その無数の光が、まるで、自分を祝福するために輝いているように見えた。

 彼は、天を仰ぎ、両腕を大きく広げ、そして、腹の底からの咆哮を、夜空に叩きつけた。


「――サイッコーだぜ、神様ァッ!!」


 感謝と、歓喜と、そして、無限の欲望に満ちた、鬼神の雄叫び。

 それは、空木零の退屈な世界に投じられた、最初の、そして最も暴力的な、波紋の始まりだった。

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