第75話 駄女神の気まぐれグルメと魂の満腹感
世界は、奇妙な均衡と、そして静かな停滞の中にあった。
月の巫女、鏡ミライが語る遠い未来の希望。太陽の巫女、陽南カグヤが与える今この瞬間の解放。秩序と混沌、二つの巨大な物語が世界を二分し、人々は自らが信じる光の下で、終わりの見えないイデオロギーの代理戦争を続けていた。
それは、神々の壮大なチェスゲーム。だが、その盤面はあまりにも美しく膠着し、もはや新たな一手が生み出されることはないかのように見えた。
そんな、誰もがこの永遠に続くかのような黄昏の時代に慣れ始めていた、ある日の午後。
世界中の全てのスクリーンが、何の前触れもなく、再びあの虹色のノイズと共にジャックされた。
IAROの厳重なセキュリティも、カオス同盟の闇のネットワークも、全てが等しく無力化される。
だが、今回は以前の神々の降臨とは、明らかに気配が違っていた。人々の心に浮かんだのは、恐怖や期待ではなく、「ああ、またあの厄介なのが来た」という、ある種の諦観と疲労感だった。
ノイズが収束し、そこに映し出されたのは、やはりあのアッシュグレイのローブをまとった謎の『天秤の女神』だった。
「やっほー! また来たよー! みんな、元気してたー? わたくしのこと、忘れてないよね? そう! 君たちの退屈な日常に、最高のスパイスをデリバリーしに来ちゃう、ちょっぴり身勝手な『駄女神』でーす! いえーい、拍手ー!」
画面の中で、彼女は一人でパチパチと拍手する。SEで、わざとらしい歓声と指笛が鳴り響いた。
その、あまりにも軽薄な再登場。
IARO本部で、黒田は深い、深いため息をつき、こめかみを押さえた。カオス同盟の聖域ソラリスでは、ケイン・コールドウェルが眉一つ動かさず、ただ静かにその神の戯言に耳を傾けていた。
「いやー、この前の挨拶放送の後、君たちの世界の反応、ちゃーんと観測させてもらったよ! 『何者なんだ』『邪神の仲間か?』『ただの愉快犯だろ』って、まあすごい言われようだったけどさあ……。はっきり言って、地味!」
女神は、バッサリと切り捨てた。
「挨拶だけして帰るなんて、上品すぎたわ! 反省! わたくしのキャラじゃない! やっぱり、女神たるもの、もっとこう、パーっと派手にバカなことやらないとダメだよね!」
「というわけで! 前回の所信表明演説は、忘れてくれたまえ! 今日からが、わたくしの本当のファーストステージ! 記念すべき最初の悪戯を、発表しまーす!」
「その名も……ジャジャーン! 『一日限定! 全人類味覚シャッフル祭り』でーす!」
味覚シャッフル。
その、あまりにも馬鹿馬鹿しい神託。
だが、人々はもはや驚かなかった。この神なら、やりかねない。
「説明しよう! わたくしが今からこの世界の物理法則に、ちょこっとだけ介入して、今日一日だけ、全ての食べ物の『味』を完全にランダムに入れ替えちゃいます!」
「そう! 例えば、君が勇気を出してリンゴを一口かじったら、あら不思議! 口の中に広がるのは、濃厚なバナナの味! カレーライスをスプーンですくって食べたら、なぜか体が温まるクリームシチューの味がする! みたいな感じ!」
「面白そうでしょ!? 面白いよね!? 何を食べたらどんな味がするのか。それは、食べてみるまで誰にも分からない! 人類史上最大規模の、食のロシアンルーレット! 題して、『駄女神の気まぐれグルメ』!」
黒田は、頭を抱えた。経済への影響、食料アレルギーを持つ人々への危険性、そして何よりも、このあまりにもくだらない神の悪戯に、自らの部下たちをどう動員すればいいのか。彼の胃が、キリキリと痛み始めた。
「あ、ちなみにこの効果は、今日の日付が変わるまでの一日限定だから、安心してね! 明日になったら、ちゃんと元の味に戻るように設定しておいたから! じゃあ、そういうわけで! レッツ・エンジョイ・グルメライフ! みんな、せいぜい楽しんでくれたまえよ!」
「――おつてんびーん!」
彼女は最後に、アイドルVチューバーのような完璧なウインクと決めポーズをすると、画面はぶつりと途切れ、元の放送へと戻った。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、全世界七十億の巨大な困惑と、そしてほんの少しの好奇心だけだった。
そして、その滑稽な混沌に、誰よりも早く、そして誰よりも熱狂的に飛びついた者たちがいた。
ユーチューバーである。
§
「――ハローYouTube! どうも、ゼロキンです!」
都内の、撮影機材で埋め尽くされたワンルーム。その中央で、金髪に染め上げた派手な髪型の青年が、カメラに向かって満面の笑みで叫んだ。
彼の名はゼロキン。チャンネル登録者数800万人を誇る、日本トップクラスのユーチューバー。
女神の放送が終わってから、わずか30分。彼は既に、緊急生配信の準備を完璧に整えていた。
「えー、というわけで! 見た!? みんな、見たよね!? 天秤の女神様が、またとんでもないことしてくれましたよ! 食べ物の味が、一日限定でランダムになる! ヤバすぎるでしょ!」
配信画面の右端には、猛烈な勢いで視聴者のコメントが流れていく。
『うおおおおお! ゼロキンさん、仕事はえええええ!』
『待ってた! 絶対やってくれると思ってた!』
『マジで味変わるの? 怖くて、まだ何も食ってないんだが』
『会社の食堂のAランチが、なぜか麻婆豆腐の味したぞ……』
「はい! というわけで本日の企画はこちら! 『一日限定スペシャル! 駄女神の気まぐれグルメ! どの食べ物が一番美味しくなってるか、全部食って確かめてみまーす!』」
ゼロキンは、背後に積まれたスーパーの買い物カゴ10個分はあろうかという、大量の食材の山を指さした。
「いやー、スタッフ総出で近所のスーパー、買い占めてきましたよ! 果物、野菜、肉、魚、お菓子、そしてカレー! これらを今からひたすら食いまくって、どれが『当たり』なのか、世界最速でレビューしていきたいと思います! みんな、今日の晩飯の参考にしてくれよな!」
コメント欄が、期待の言葉で爆発する。同時接続者数は、既に100万人を突破していた。
「よっしゃ、じゃあ早速行ってみようか! まずは、やっぱりこれだろ!」
ゼロキンが手に取ったのは、真っ赤に熟れた一玉のリンゴ。
「女神様が例に出してたからな! これがバナナの味になるのか、検証していきまーす! それじゃあ、いただきます!」
彼は、大きな口を開けてリンゴにかぶりついた。
シャリ、という小気味良い音。
そして、彼の目が驚きに見開かれた。
「…………うんま!」
彼は数秒間咀嚼し、そして叫んだ。
「うーん、バナナですねこれは! 完全にバナナ! しかも、ただのバナナじゃない。なんか、南国の農園で太陽の光をたっぷり浴びて完熟した、最高級のバナナの味がする! なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ!」
『マジかよwwww』
『リンゴがバナナは確定か!』
『いきなり当たり引いてて草』
「じゃあ、次はこれだ!」
興奮気味に、彼が次に手に取ったのは一本のバナナ。
「リンゴがバナナになるなら、バナナは何になるんだ? っていうね! 気になるよなー! いただきます!」
彼はバナナの皮を剥き、一口食べた。
「…………ん?」
彼は首を傾げた。そして、もう一口。
「……キウイかな? うん、キウイだ! しかもゴールデンキウイ! 甘酸っぱくて、爽やかな後味が口の中に広がる! うわ、これも美味い! 全然アリだ!」
『キウイwwwww』
『果物は果物シリーズなのかな?』
『法則性あるのか?』
「なるほどね! コメントにもあるけど、果物は果物同士でシャッフルされてる可能性あるな! よし、次!」
ゼロキンは、次々と食材を試していく。
きゅうりは、メロンの味に。
トマトは、スイカの味に。
生卵は、濃厚なカスタードプリンの味に。
そのどれもが奇妙で、しかし驚くほど美味しかった。彼のテンションは、上がりっぱなしだった。
「そして! お待ちかね! 本日のメインディッシュ!」
彼がスタッフから受け取ったのは、湯気の立つ一皿のカレーライス。
「これも女神様が言ってたやつな! カレーがシチューになるのか!? そもそも、シチューをご飯にかけて食うのはアリなのかナシなのか論争に、今日、終止符が打たれる! いざ、実食!」
彼はスプーンでカレーライスを大きくすくい、口へと運んだ。
その瞬間、彼の顔が至福の表情に歪んだ。
「…………シチューだ、これ!!!」
彼は、叫んだ。
「うっっっっま! なにこれ! 濃厚なビーフシチュー! しかも、三日間くらいじっくり煮込んだ洋食屋の、高級なやつの味がする! そして、ご飯に合う! めちゃくちゃ合うぞこれ! シチューをご飯にかけて食べる人は、今日カレーがシチューになるから絶対お得かもね!」
『シチュー派、大勝利www』
『カレー派、無事死亡』
『明日には元に戻るんだよなあ……』
ゼロキンはその後も、ハイテンションで様々な食べ物を食べ続けた。
醤油は、メープルシロップの味に。
味噌汁は、コーンポタージュの味に。
納豆は、驚くべきことに高級なブルーチーズの味がした。
配信は、大いに盛り上がった。だが、そのどれもが「面白い当たり」の範疇を超えなかった。
本当の奇跡は、その後に訪れた。
「いやー、食った食った! もう腹パンパンだわ……」
ゼロキンは、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「まあ、大体分かったな! 基本的に、美味いものは美味いものに変わるっぽい! だからみんなも、怖がらずに色々試してみるといいぜ!」
彼が、そろそろ配信を締めようかと思い始めた、その時だった。
コメント欄に、一つの書き込みが流れた。
『ゼロキンさん、白いご飯だけだとどうなるか試して!』
「ん? 白いご飯?」
ゼロキンは、そのコメントを拾い上げた。
「ああ、確かに。味のついてないプレーンなやつは、どうなるか気になるな。よーし、分かった! 今日のラストは、炊きたての白米で締めよう!」
スタッフが、湯気の立つご飯茶碗を彼の前に置いた。
具材は、何もない。ただ、一粒一粒が美しく輝く日本の白米。
「まあ、味変わらないんじゃないかなあ? 元が味ないし。……まあいいや。いただきます」
彼は、何の期待もせずに、箸でご飯を少量つまみ、口へと運んだ。
そして。
彼の動きが、完全に止まった。
それまでの大げさなリアクションとは、明らかに違う。
ただ、呆然とその場で固まっている。
コメント欄が、困惑の言葉でざわめき始める。
『?』
『どうした?』
『まずかったのか?』
数秒間の、長い、長い沈黙。
やがて、ゼロキンのそのいつもはおどけているはずの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
そして彼は、震える声で、マイクに向かって呟いた。
「…………なんだ、これ…………」
彼は再び箸を手に取ると、今度はもっと多くのご飯を、かきこむように口の中へと入れた。
そして、堰を切ったように叫び始めた。
「はーーーっ! 何だこれ!? 今まで食べた事ないけど、くっそ美味いです!!!」
「なんだこれ!? 奥深い美味しさで、病みつきになりますね!!!」
彼の、そのあまりにもリアルで、魂の底からの叫び。
それはもはや、ユーチューバーのリアクションではなかった。
ただ、未知の味覚に出会った一人の人間の、純粋な感動だった。
「いや、何回食べても美味しい!!! すごいですよ、これ!」
彼は、興奮のあまり立ち上がっていた。
「なんて言ったらいいんだ!? 甘いとか、しょっぱいとか、そういうんじゃないんだよ! なんかこう……魂が、喜んでるっていうか……。『生まれてきて良かったー!』って、心の底から思えるような、そんな味がするんだ!」
「うわああああああ! うめえええええええ!」
彼は、茶碗に残っていたご飯を全て一気にかき込んだ。そしてカメラを、その涙でぐしゃぐしゃになった顔で、まっすぐに睨みつけた。
「視聴者の皆さん! これは、食べないと損ですよ! 絶対、食べた方がいい!」
「騙されたと思って、今すぐ炊飯器のスイッチを押してください! そして、何もかけずに、ただ白いご飯だけを食べてみてください!」
「今日という一日が、人生で最高の一日になります! 俺が、保証する!」
「やべえ、鳥肌止まんねえ……! ですね! では、動画はこれくらいにして! バイバーイ! ゼロキンでした!!」
彼は、それだけを一方的にまくし立てると、配信の終了ボタンを叩きつけるように押した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてそのあまりにもリアルな感動の余韻に、完全に打ちのめされた500万人を超える視聴者たちだけだった。
その動画は、伝説となった。
切り抜き動画は、あらゆる言語に(不完全に)翻訳され、瞬く間に全世界へと拡散された。
#DivineRice(神の米)
そのハッシュタグが、世界のトレンドの一位を飾るのに、数時間もかからなかった。
最初は、半信半疑だった人々。
だが、そのあまりにも真に迫ったゼロキンの涙を見て、彼らもまた自らの家のキッチンへと向かい始めた。
日本のとある女子高生が、自室で。
アメリカのウォール街のエリートが、ランチタイムの休憩室で。
ブラジルのファベーラの一家が、なけなしの米を炊いた一つの鍋を囲んで。
世界中のありとあらゆる場所で、人々は同じ行動を取った。
ただ一口、白いご飯を食べる。
そして、次の瞬間。
世界は、一つの巨大な感動に包まれた。
「なんだこれ……美味すぎるだろ!!!」
その味は、言葉では表現できなかった。
ある者は、それを「母の温もり」の味がすると言った。
ある者は、それを「初恋の甘酸っぱさ」の味がすると言った。
ある者は、それを「全ての苦労が報われた瞬間の、魂の安らぎ」の味がすると言った。
それは、味覚ではなかった。
それは、記憶だった。幸福の記憶、そのものだった。
神の気まぐれは、世界中の人々に一日だけのささやかな、しかし何物にも代えがたい幸福な奇跡をもたらした。
その日、世界から争いの声は消えた。
人々は、ただ一杯の温かいご飯を囲み、そのあまりにも優しい奇跡に涙し、そして隣人とその感動を分かち合った。
それはもしかしたら、人類が『黄金の一ヶ月』以来、初めて真の意味で一つになった瞬間だったのかもしれない。
その、あまりにも人間的で、あまりにも美しい光景。
それを、日本の安アパートの一室で、一人の神が少しだけ困ったような、そしてどこか楽しげな顔で観測していた。
「……あれ?」
空木零は、ポリポリとポテトチップスをかじりながら、首を傾げた。
「……おかしいなあ……。俺が、あの白米に設定したのは、『無味無臭』のはずだったんだけどなあ……」
「なんで、みんなあんなに感動して泣いてるんだ……?」
彼は、本気で不思議そうだった。
神の、ほんの僅かな計算違い。
あるいは、人間の魂が、神の想像をほんの少しだけ超えてみせた、ささやかな奇跡。
その答えは、まだ誰も知らない。
ただ、世界には一つの温かい共通の記憶が、確かに刻まれた。
あの日、一杯の白いご飯が世界で一番美味しかったという、ささやかな記憶が。