第74話 駄女神の福音と三つの世界の茶会
世界は、奇妙な均衡と、そして静かな停滞の中にあった。
月の巫女、鏡ミライが語る遠い未来の希望。太陽の巫女、陽南カグヤが与える今この瞬間の解放。秩序と混沌、二つの巨大な物語が世界を二分し、人々は自らが信じる光の下で、終わりの見えないイデオロギーの代理戦争を続けていた。
それは、神々の壮大なチェスゲーム。だが、その盤面はあまりにも美しく膠着し、もはや新たな一手が生み出されることはないかのように見えた。
誰もが、この永遠に続くかのような黄昏の時代に慣れ始めていた。
だが、彼らは忘れていた。
この世界の本当の神は、秩序も混沌も、そして均衡すらも心の底から「退屈」だと断じる、ただ一人のろくでもない観測者であることを。
その日、世界中の全てのスクリーンが、何の前触れもなく虹色のノイズと共にジャックされた。
IAROの厳重なセキュリティも、カオス同盟の闇のネットワークも、全てが等しく無力化される。これまで幾度となく繰り返されてきた、あの悪魔の放送の始まり。だが、今回はその気配がどこか違っていた。これまでの邪神の降臨がもたらした、魂を凍てつかせるような悪意のプレッシャーがない。代わりにそこにあるのは、どこまでも軽く、どこまでも無責任で、そして底抜けに明るい、場違いなまでの祝祭の予感だった。
ノイズが収束し、そこに映し出されたのは、見慣れた道化師のアバターではなかった。
アッシュグレイの修道服のようにも、パンクファッションのようにも見える、アシンメトリーなデザインのローブ。その顔は分厚い目隠しで覆われ、性別も年齢も分からない。だが、その目隠しの下の口元だけが、常に微かな、しかし全てを見透かすかのようなアルカイックな笑みを浮かべていた。
そして、その右手には奇妙な天秤が一つ。
そのあまりにも謎めいた存在が、まるでアイドルのデビューコンサートの第一声のように、弾けるような声で全世界に語りかけた。
「やっほー! 聞こえるー? 地球っていうサーバーで合ってるかな? あっ、繋がった繋がった! テステス、マイクテース!……OK!」
「えー、突然お邪魔しちゃってごめんなさい! 皆さん、はじめまして! ……かな? もしかしたら、別の時間軸でお会いしたこともあるかもしれないけど、まあ、こまけぇこたぁいいよね!」
その、あまりにも軽薄なテンション。
世界は困惑した。IAROの中央司令室では黒田が眉間に深い皺を寄せ、カオス同盟の聖域ソラリスでは、ケイン・コールドウェルがその鉄仮面のような表情の下で、僅かに警戒の色を強めていた。
「わたくし、『天秤の女神』って呼ばれてまーす! よろしくね! 見ての通り、秩序とか混沌とか、善とか悪とか、そーいう面倒くさいのには、これっぽっちも興味がありません!」
彼女は指で、小さな、本当に小さな隙間を作って見せた。
「だってさあ、どっちも退屈じゃない? 秩序秩序って、ルールばっかりで肩凝っちゃうし。かといって、混沌混沌ってただ壊すだけじゃん? すーぐ飽きる。はっきり言って、どっちも物語のセンスがなーい!」
「わたくしが好きなのは、ただ一つ! 『面白いこと』! それだけ! 心が躍るような、予測不能な最高のエンターテインメント! そのためなら何でもしちゃう! そう! わたくしとは、そういう自分の快楽と好奇心を何よりも優先する、ちょっぴり(・・・)身勝手な**『駄女神』**でーす! いえーい、拍手ー!」
画面の中で、彼女は一人でパチパチと拍手する。SEで、わざとらしい歓声と指笛が鳴り響いた。
その、あまりにも自己中心的な宣言。
だが、その言葉には不思議な説得力があった。人々は、心のどこかで気づいていたからだ。秩序も混沌も、どちらも行き着く先は退屈な停滞でしかないということを。
「でだ。君たちの世界、観測させてもらったけどさあ……。うーん、マンネリ化がひどい!」
「月の巫女ちゃんと太陽の巫女ちゃんが、なんかもう壮大なスケールでレスバしてるのは分かった。それはそれで、まあ面白い。面白いけど、ちょっと真面目すぎ! もっとこう、パーっと派手にバカなことやろうよ!」
「というわけで! わたくし天秤の女神は、本日をもって、この退屈な世界にちょっかいを出していくことを、ここに高らかに宣言しまーす!」
「具体的に何をするかは、まだ決めてませーん! その日の気分次第! 明日いきなり全世界の海をプリンに変えちゃうかもしれないし、空に浮かぶ月をミラーボールにしちゃうかもしれない! それは、わたくしの天秤が『面白い』と判断した方へと、気まぐれに傾くだけ!」
「だから、秩序派の真面目な皆さんも、混沌派のイケイケな皆さんも、これからは頭の片隅に、このわたくしという『予測不能なバグ』の存在を、よーく覚えておくように!」
「じゃ、そういうわけで! 取り急ぎご挨拶でした! これからよろしくね、人間ちゃんたち! あー、楽しみ!」
「――おつてんびーん!」
彼女は最後に、アイドルVチューバーのような完璧なウインクと決めポーズをすると、画面はぶつりと途切れ、元の放送へと戻った。後に残されたのは、絶対的な静寂と、全世界七十億の巨大な「?」だけだった。
世界は、新たな、そして最も予測不能な神の登場に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
【IARO本部:英雄たちの茶会】
富士山麓の地下深く、IARO事務総長執務室。
黒田は、モニターに映し出されていた天秤の女神のアバターが消えた後も、しばらくの間その場に固まっていた。彼の優秀すぎる頭脳が、今起きた事象の分析と、それがもたらすであろう未来への影響を、猛烈な勢いでシミュレーションしていた。だが、導き出される答えは常に同じだった。
『――予測不能』。
「……なんだ、今のは……」
彼は、呻くように言った。その声には、怒りでも恐怖でもなく、ただ純粋な、そして底なしの困惑の色だけが浮かんでいた。
彼の対面のソファに座っていた神崎勇気は、そんな上司の深刻な様子とは対照的に、どこか楽しげですらあった。彼は、黒田が淹れた最高級の玉露を一口すすると、実にのんびりとした口調で言った。
「いやー、なんか新しい神様、出てきましたねー」
その、あまりにも他人事な感想。黒田は、思わず勇気の顔を睨みつけた。
「勇気君、君はこれがどういうことか分かっているのか! 秩序でも混沌でもない、ただ面白いという基準だけで行動する超越者だぞ! これまでの我々の全ての戦略が、前提から覆されるかもしれんのだ!」
「まあ、そう言われましても……」
勇気は、困ったように頭を掻いた。
「俺たちにできることは、結局何が起きても対処するだけじゃないですか。それに、なんかあの女神様、邪神様ほど悪い感じはしなかったっていうか……。ただ、ひたすらにヤバい奴なんだろうなあっていうのは、分かりましたけど」
その、あまりにも直感的で、あまりにも的確な本質の見抜き方。黒田は、ぐっと言葉に詰まった。
その二人の間の、奇妙な静寂を破るように。
執務室の空気がふわりと密度を変え、温かい黄金色の光が二人を包み込んだ。
「お噂をすれば」
勇気が、楽しそうに言う。
光が収束し、そこにはいつものように、白い和装をまとった穏やかな老人が音もなく現れていた。
『――ふむ。随分と賑やかな挨拶じゃったのう』
スキル神は、まるで全てを見ていたかのように、こともなげに言った。
「スキル神様!」
勇気が、ぱっと顔を輝かせる。
「今の、見てました!? なんか変なのが出てきましたよ!」
『うむ。あれが、お主たちの言う『駄女神』というやつじゃろうな』
スキル神は空中にふわりと腰を下ろすと、まるで自分のものであるかのように、黒田の机の上の湯呑を一つ引き寄せた。
黒田は、この超越的な存在のマイペースさにはもう慣れていた。彼は気を取り直して、核心の問いを投げかけた。
「……何者なのですか、あれは。貴方の、あるいは邪神の新たな一手ですかな?」
その問いに、スキル神は茶を一口すすってから、やれやれといった風に首を振った。
『ワシにも、あやつにも関係ない。あれはまた、全く別の独立した存在じゃよ』
「……別の……?」
『そうじゃ。黒田よ。お主たちはどうにも、この宇宙の神というものがワシとあやつの二柱しかおらんと思っておるようじゃが、それは大きな間違いじゃぞ』
スキル神は、まるで宇宙の広大さを語る天文学者のように目を細めた。
『神様というのはな、お主たちが思うておるよりももっとたくさん、そこら中にゴロゴロしておるものなのじゃ。普段は、それぞれが管理しておる自分のお気に入りの宇宙に引きこもって、あまり他の世界に干渉しようとはせん、内気な者たちが多いからのう。じゃが、中には例外もおる』
スキル神は、心底うんざりしたような顔で遠い目をした。
『――例えば、そうじゃな。デスゲームが好きすぎるあまりに、自分が管理しておる銀河系そのものをまるごと一つの巨大なデスゲームの盤面にしてしもうてな。最後の一個の恒星系を巡って、何千億という文明をもう何万年も殺し合わせ続けておる、どうしようもない輩もいるぞい』
その、あまりにも壮大で、あまりにもろくでもない神の逸話。
勇気は、思わずといった風に呟いた。
「うわー……。嫌すぎる神様ですね、それ」
「……それに比べれば……。先ほどの女神は、まだマシな方なのか……?」
黒田は、本気でそう思ってしまった。価値観が、麻痺してきている。
スキル神は、頷いた。
『まあ、そういうことじゃな。お主たちも、少しは神というものの多様性について学んだ方が良いやもしれんのう』
その、まるで教師のような言葉に、黒田はもはや何も言い返すことができなかった。
【カオス同盟:混沌の茶会】
東欧、ソラリス解放区。
陽南カグヤとケイン・コールドウェルもまた、半壊した政府庁舎の一室で、あの天秤の女神の放送をそれぞれのやり方で見つめていた。
カグヤは、その金色の瞳を爛々と輝かせ、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のように、興奮を隠しきれない様子だった。
「まあ! なんて面白い方なのでしょう!」
彼女の声は、弾んでいた。
「秩序も混沌も退屈ですって! 分かっていらっしゃる! この世界の、本質を!」
その隣でケインは、鉄仮面のような表情を崩さず、ただ静かに、その放送がもたらすであろう戦略的な影響を計算していた。
(……秩序でも混沌でもない、第三極。厄介な変数だ。だが、利用できなくもない。彼女の『面白い』という基準。それを、我々の側に引き込むことができれば……)
その二人の、対照的な反応。
その背後の空間が、ゆらりと虹色のノイズを走らせた。
「おっと、考え事かい? 二人とも」
その、あまりにも軽い声と共に、邪神――空木零が音もなく姿を現した。
「邪神様!」
カグヤが、ぱっとその顔を輝かせ駆け寄ろうとする。
「……お待ちしておりました、我が神よ」
ケインが、静かに膝まずく。
「いやいや、堅苦しいのは抜きにしてさ」
邪神は手をひらひらと振ると、カグヤの隣にどかりと腰を下ろした。
「見たかい? さっきの放送。面白いのが出てきただろ?」
「はい!」と、カグヤが興奮気味に答える。
「あの女神様、邪神様のお知り合いなのですか!?」
その、あまりにも純粋な問い。
邪神は、少しだけ考える素振りを見せた。
「うーん、そうだねえ……。知り合いの、知り合いぐらいの距離感かな?」
彼は、実に適当に答えた。
「まあ、時々あの『ろくでもない神様同盟』のチャットルームで見かける程度さ。あんまり他の神とつるむのが好きなタイプじゃないみたいだしね、彼女」
「ですが」と、邪神は続けた。その声には初めて、ほんの少しだけ本物の面倒くささが滲んでいた。
「彼女は、僕より気まぐれで、結構悪趣味だからなあ」
「僕みたいに、ちゃんと物語の起承転結を考えて伏線を張って、最高のエンディングを用意してあげるみたいなさ。そういうクリエイターとしての良心みたいなものが、彼女には一切ないんだよ」
「ただ、その場のノリで『あ、これ面白そう』って思ったら、ためらいなく世界の物理法則を書き換えちゃう。後先考えずにね。だから君たちも、あんまり彼女を刺激しない方がいいと思うよ。下手に面白がられちゃうと、何されるか僕にも予測できないからさ」
その、神による神への本気の忠告。
ケインは、その言葉の裏にある底知れない危険性を正確に読み取り、静かに頷いた。
だが、カグヤは違った。
彼女の金色の瞳は、もはや恐怖ではなく、純粋な好奇心と、そしてライバル心のようなものできらきらと輝いていた。
「まあ! なんて素敵な方なのでしょう!」
彼女は、うっとりとした表情で言った。
「わたくし、ぜひ一度お会いしてみたいですわ! きっと、わたくしたち、最高に『面白い』お友達になれるはずですもの!」
その、あまりにもポジティブで、あまりにも危険な発言。
邪神は、その様子を見て心底楽しそうに腹を抱えて笑い出した。
「ははは! だと思ったよ、君は! そう言うと思った!」
「うんうん、良いねえ、良いねえ! このどうしようもない混沌の鍋に、さらに予測不能な劇薬をぶち込んだら、一体どんな面白い化学反応が起きるのか! あー、楽しみで楽しみで仕方がないや!」
神は、笑う。
自らが仕掛けたゲーム盤が、自らの想像すら超えて、より面白く、よりカオスな方向へと転がり始めたことに、心からの満足と喝采を送りながら。
世界の本当の混沌は、まだ始まったばかりだった。