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第73話 神の工房と天秤の揺らぎ

 深夜。その言葉が本来持つはずの静寂や安らぎといった概念は、空木零の六畳一間のアパートには存在しない。代わりにそこにあるのは、文明の澱が凝固したかのような、濃密な停滞の匂いだった。

 食べ終えられてから何日経ったかも分からないカップ焼きそばの容器が、まるで地層のように積み重なり、小さな褐色の山脈を形成している。その麓には、ポテトチップスの空き袋やエナジードリンクの缶が、銀色の湖のように広がっていた。部屋の唯一の光源は、壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群が放つ、青白い不健康な光だけ。その光が、床に散らばる漫画雑誌や埃をかぶったまま放置されているゲーム機のコントローラーを、まるで深海の生物のようにぼんやりと照らし出していた。

 この、あまりにも俗っぽく、あまりにも救いのない空間。

 ここが、今やこの世界の、いや、無数の並行世界の運命すらも左右する、神の玉座であり、神の工房だった。


「……うーん……」


 その玉座――背もたれのクッションが完全に死んだ安物のオフィスチェアの上で、空木零は呻いた。その声には、神としての威厳など微塵もなかった。ただ、最高のエンターテインテインメントを全て見終えてしまった後の、底なしの倦怠感だけが滲んでいた。

 彼は、右手の指先を軽く振るった。

 すると、彼の目の前のメインモニターの映像が、目まぐるしく切り替わっていく。

 秩序派と混沌派がアフリカの辺境で繰り広げている、血生臭いがもはや様式美にすらなっている代理戦争のライブ映像。

 鏡ミライがその美しいアバターで、希望という名の甘い毒を今日も飽きずに世界へと垂れ流している配信の録画。

 陽南カグヤがどこかの紛争地帯で、新たな信者たちの魂を「解放」し、熱狂の渦を生み出しているプロパガンダ映像。

 どれも面白い。

 面白いが、それはもう「知っている面白さ」だった。

 全ての登場人物は、彼が設定し、あるいは彼が見抜いた通りの役割ロールを、完璧に演じ続けている。黒田は苦悩し、勇気は葛藤し、巫女たちは自らの正義を叫ぶ。そのあまりにも美しい調和、その完璧なまでの物語の定石。それこそが、空木零にとっては何よりも耐え難い「退屈」の同義語だった。


「……飽きたなあ……」


 彼は、独りごちた。

 まるで、シーズン15まで続いた人気ドラマの次の展開が、完全に読めてしまった視聴者のように。

 彼は、モニターを全て消した。部屋が、一瞬だけ本来の暗闇を取り戻す。その静寂の中で、彼は天井のシミをぼんやりと見つめながら、思考の海へと深く、深く沈んでいった。

 次のおもちゃ。

 次のゲーム。

 次の最高のエンターテインメント。

 何が必要だ?

 この膠着しきった盤面を、根底からひっくり返すような新しい駒。新しいルール。

 ヒーローはもういる。魔王もいる。二人の巫女という、最高のヒロインも配置した。

 これ以上、何を足せばいい?


「……ああ、そっか」


 しばらくの沈黙の後。

 彼の口から、まるで天啓でも得たかのような、間の抜けた声が漏れた。

「……そもそも、二つに分かれてるのがつまらないんだ」

 そうだ。

 秩序と混沌。善と悪。ミライとカグヤ。

 あまりにも分かりやすすぎる。あまりにも、安定しすぎている。

 物語が最も面白くなるのは、A対Bの戦いに、全く予測不能な第三の勢力Cが現れた時ではないか。

 そのCが、AにもBにも与せず、ただ自らの美学と気まぐれだけで行動し、盤面をぐちゃぐちゃにかき混ぜ始めた時、物語は神の領域へと突入するのだ。


「……うん。それだ」


 空木零の、その虚無を湛えていた瞳に、数ヶ月ぶりに純粋な創造の光が灯った。

 彼はオフィスチェアをくるりと回転させ、再びモニターへと向き合った。

 そして、その指先で虚空にコマンドを打ち込み始めた。いや、物理的なキーボードなど必要ない。彼の思考そのものが、この世界のソースコードを直接書き換える、神のプログラム言語だった。


【CREATE_NEW_AVATAR: CONCEPT_CODE = “THE_THIRD_PARTY”】


 彼の脳内に、新たな神の設計図が猛烈な勢いで展開されていく。

「新しい神は……そうだな。混沌でも秩序でもない。そのどちらにも肩入れしない。ただ、面白いことを最優先する、気まぐれな女神様にしよう」

 彼は、実に楽しそうにその新しいキャラクターの設定を練り始めた。

「うん。わりと俺の本質に近いよね、この設定。僕自身、別に混沌の世界が見たいわけでも、秩序の世界が見たいわけでもないしね。ただ、面白いものが見たいだけ。うん、これで行こう」


 彼の指先から光の粒子が生まれ、それがモニターの前でゆっくりと人の形を成していく。まるで、神が粘土をこねて最初の人間を創り出すかのように。

 まず、その姿。

 古典的なギリシャ神話の女神のような、威厳に満ちた姿も良い。だが、それでは面白くない。もっとこう、現代的で、捉えどころのないミステリアスな雰囲気が欲しい。

 そうだ、モチーフは「裁判官」と「芸術家」の融合。

 純白でも漆黒でもない、アッシュグレイの修道服のようにも、パンクファッションのようにも見える、アシンメトリーなデザインのローブ。

 その顔は、最も重要な要素だ。目は、固く分厚い目隠しで覆われている。彼女が、秩序も混沌も、そのどちらの色にも染まらない絶対的な中立であることを示すために。

 だが、その目隠しの下、口元だけが常に微かな、しかし全てを見透かすかのようなアルカイックな笑みを浮かべている。

 そして、その両手。

 右手には、古風な天秤。だが、その天秤が測るものは、善悪の重さではない。物語の「面白さ」の質量だ。

 左手には、何もない。彼女が、いつでもどちらの皿にも自らの気まぐれという名の分銅を乗せることができるように。


「……うん。良いじゃないか。良いデザインだ」

 空木零は、自らが創り出したその完璧なアバターの姿に、満足げに頷いた。

 次は、彼女に与える「力」。

 ただ強力なだけではダメだ。その力自体が、彼女のキャラクター性を体現していなければならない。


【CREATE_NEW_SKILL: NAME = “STORY_LIBRA”】


 スキル、【物語の天秤ストーリー・リブラ】。ランクは、もちろんEX。

 その効果は、極めてシンプルで、極めて凶悪。

 彼女が観測するあらゆる事象。その結末が分岐するあらゆる因果の交差点において、この天秤は自動的に作動する。そして、『より面白い物語へと繋がる可能性』と、『より退屈な物語へと繋がる可能性』を、その両皿に乗せて測るのだ。

 そして、常にほんの少しだけ。

 ほんの、ほんの僅かだけ、世界の確率を「より面白い方」へと傾ける。

 それは、誰にも気づかれない神のイカサマ。

 だが、その僅かな傾きが、塵のように積もり積もって、やがては世界の運命そのものを予測不能な混沌の渦へと叩き込む。


「完璧だ……」

 空木零は、恍惚とした表情で呟いた。

 我ながら、最高のキャラクターと最高のシステムを創り上げてしまった。


 さてと。

 彼は、一仕事終えた満足感と共に、椅子の背もたれに深く体を預けた。

 役者は、できた。

 だが、その役者をどんな舞台で、どんな脚本でデビューさせるか。

 それが問題だ。


「まあ良いや。成長物語を久しぶりに読みたい気分だし。なんか、面白く成長してくれそうな原石みたいな子に、この女神様のスキルをまるごとプレゼントしてみるっていうのはどうかな」

 彼の脳裏に、数人の候補者の顔が浮かんだ。

 IAROの片隅で、自らの無力さに絶望している若い分析官の少女。

 カオス同盟の中で、ケインの冷徹なやり方に疑問を抱き始めている、心優しき暗殺者の少年。

 彼らにこの力を与えれば、確かに面白い成長物語が見られるかもしれない。


「それか……。やっぱり、デスゲームでもしてみるか」

 彼の口元に、悪趣味な笑みが浮かんだ。

「秩序派と混沌派、それぞれの陣営から100人ずつ精鋭のアルターを選抜してさ。無人島かなんかに放り込んで、最後の一人になるまで殺し合わせる。『ゴッド・ロワイヤル』! うん、ベタだけど鉄板で面白いよな、絶対」


 彼は、悩んだ。

 神が、自らの退屈を癒すための最高の筋書きを、本気で悩んでいた。

「……まあいいか。焦ることはない」

 彼は、結論を先延ばしにすることにした。

「この新しい女神様、結構僕の本質に近いキャラクター設定だし。いっそ、僕自身がこの『天秤の女神』のアバターになって世界に降臨してみてから、その時の気分で決めるっていうのもアリだよな」

 そうだ。その方が、より気まぐれで、より予測不能で、より「面白い」じゃないか。

 彼の心は、その新しい遊び方に固まりつつあった。




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