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第71話 星々の揺りかごと二人の巫女

 そこは、場所ではなかった。

 時間という概念すら、その本来の意味を失う空間。物理法則がまだ生まれる前の宇宙の胎内のような、絶対的な静寂と無限の可能性だけで満たされた場所。

 陽南カグヤは、その中心にただ一人佇んでいた。

 彼女の足元には、川が流れていた。だが、それは水ではなかった。それは光の奔流。過去、現在、未来、そしてあり得たかもしれない無数の並行世界。その全ての瞬間が一つ一つの光の粒子となり、一つの巨大な因果律の濁流となって、始まりもなく終わりもなく、ただ流れ続けていた。

 一つ一つの光の粒を覗き込めば、そこには一つの人生が、一つの物語が、一つの文明の興亡が凝縮されて映し出されている。恐竜が闊歩する太古の大陸も、ナポレオンが戴冠する瞬間の熱狂も、まだ生まれぬ誰かのささやかな初恋のときめきも、全てが等価の「情報」としてこの川の中を流れていた。

【因果律の天球儀】を持つ鏡ミライ――月島栞が、その力の代償として精神をすり減らしながら、かろうじてその一端を「観測」するこの奔流。

 だが、カグヤは違った。

 彼女は観測者ではない。彼女は、この川の流れと共に在る者。彼女の魂そのものが、この混沌とした時間の奔流の一部であるかのように、彼女はこの場所にあまりにも自然に、そして当然のように存在していた。

 燃えるような赤色のドレスは、星々の光を吸い込んで鈍く輝き、鴉の濡れ羽色の長い黒髪は、因果の風に静かに揺れている。彼女の溶かした黄金を流し込んだかのような瞳は、川の流れの一点、遥か未来を示す方向をただじっと見つめていた。その表情は、普段の彼女が纏う革命家としての激しい情熱や、巫女としての絶対的な自信とは少し違う。それは、ただ純粋に美しい物語を鑑賞する観客の、穏やかで、そしてどこか楽しげな表情だった。


 その彼女だけの聖域に、異質な気配が混じったのは唐突なことだった。

 カグヤがいる光の川が流れる岸辺から少し離れた何もない虚空。そこに、まるで水面に一滴のインクが落ちたかのように、小さな黒い点が生まれた。その点は瞬く間に周囲の光を歪ませながら広がり、やがて空間そのものに亀裂を入れる。

 カグヤは、ゆっくりとそちらに視線を向けた。その金色の瞳に、驚きの色はない。むしろ、「ようやく来たか」とでも言うような、静かな納得の色が浮かんでいた。

 空間の亀裂から、一人の少女がまるで生まれ落ちるかのようにその姿を現した。

 銀色の長い髪、星々を映したかのような深い紫色の瞳。時を刻む歯車と星座の模様が刺繍された、神秘的なデザインのドレス。

 月島栞。Vチューバー「鏡ミライ」としての、アストラル体の姿だった。

 彼女は、自らがどこにいるのか理解できず、ただ呆然とそのあまりにも壮大な光景を見回していた。彼女のSSS級スキルが、彼女の魂をその力の根源であるこの場所へと、無意識のうちに引き寄せたのだ。


「……ここは……?」


 栞の、か細い声が思考の波となって空間に響く。

 その声に、カグヤは初めてその唇の端に穏やかな笑みを浮かべた。


「ようやく来ましたのね、月の巫女」

「……あなたは……陽南カグヤ……!」


 栞の全身に、緊張が走る。目の前にいるのは、自らの思想と真っ向から対立し、世界を二つに引き裂いている混沌の預言者。宿敵。

 だが、カグヤの纏う雰囲気は、栞がモニター越しに見ていたあの扇動的な革命家のそれとは全く違っていた。そこにあったのは、ただ同じ場所にたどり着いた同業者を迎えるかのような、静かな親愛の情だった。


「そう警戒なさらないで。ここでは、わたくしたちのスキルは意味を成しませんわ。わたくしたちのそのあまりにも強大すぎる力も、この大いなる流れの前では、ほんの小さな波紋の一つに過ぎませんから」

 カグヤは、再び時間の川へと視線を戻した。

「あなたも、見に来たのでしょう? このあまりにも長くて、退屈で、そしてどうしようもなく美しい、人類の物語を」

「……物語を……?」

「ええ」

 カグヤは頷いた。そして、栞を手招きした。

「ちょうど良いところですわ。わたくしが今一番気に入っている『名場面』が始まるところ。……あなたも、一緒にいかが?」


 その、あまりにも意外な誘い。

 栞は戸惑った。だが、彼女の魂の奥底で、抗いがたい好奇心が産声を上げていた。この太陽のような少女が見ているもの。それが一体何なのかを知りたい。

 彼女は、おずおずと、しかし確かな一歩を踏み出し、カグヤの隣へと歩み寄った。

 二人の巫女が、初めて肩を並べて同じ流れを見つめる。

 秩序と混沌。月と太陽。その二つの対極的な存在が、ただ静かに、同じ物語の観客となった瞬間だった。


「川を、見つめてるの?」

 栞が、静かに問いかけた。

「ええ」

 カグヤは、楽しそうに頷いた。

「501年後のプロキシマ・ケンタウリで、人類が初の異星人と遭遇する名場面を見ていたのよ」


 カグヤがそう言って川面を指さした瞬間。

 栞の脳内に、鮮明な光景が、まるで自分自身がその場にいるかのように流れ込んできた。


 ――西暦2526年、惑星ニューホープ。プロキシマ・ケンタウリ星系第4惑星。


 赤色矮星プロキシマの弱々しいが、しかしどこか温かい光が、大地を赤錆色に染めている。人類が太陽系を飛び出して初めて築いた、恒久的な植民地。その首都「アオイ・ステラ」の中央広場は、今、歴史的な瞬間に立ち会おうとする何万人という人々で埋め尽くされていた。

 広場の中央には、巨大な円形の宇宙船が音もなく静かに着陸している。その船体は金属ではなく、まるで水そのものを固めて作ったかのような透明で、常に内部の光が揺らめいている不思議な物質でできていた。

 群衆が固唾を飲んで見守る中、その船体の一部が、すぅっと水に溶けるように消え、入り口が開かれる。

 中から現れたのは、人間ではなかった。

 身長は3メートルほど。手足は細く長く、まるで柳の枝のよう。その全身は、半透明の青い液体のような皮膚で覆われており、その内側では無数の光の粒子が、まるで血液のようにゆっくりと循環しているのが見て取れる。顔には、目も鼻も口もない。ただ、その頭部全体が、感情の起伏に合わせて様々な色と光のパターンで穏やかに明滅していた。


「……彼らが、『アクアフィリアン』……」

 栞の思考が、思わず漏れる。

 群衆の最前列でこの歴史的瞬間を指揮しているのは、白髪混じりの厳格な、しかしその瞳の奥に深い知性を宿した女性だった。宇宙探査軍、エヴァ・ロストヴァ提督。彼女は、500年前に生きた伝説の少女、アオイ・ホシノの遠い遠い子孫。

 エヴァは、一歩前へと進み出た。そして、自らの額にそっと手を当てた。彼女の思考が、テレパシーとなってアクアフィリアンの代表者へと届けられる。それは、アオイ・ホシノが遺した「概念通信プロトコル」の最終到達形態だった。


『――ようこそ、隣人よ。我々は、この星系であなたたちより少しだけ先に文明を築いた、地球からの移民、人類です』


 アクアフィリアンの代表者の頭部が、穏やかなエメラルドグリーンに輝いた。その思考が、エヴァの、そして広場にいる全ての人々の脳内に直接響き渡る。それは声ではなかった。それは、音楽であり、色彩であり、そして純粋な感情の奔流だった。


 《――感謝します。星々の隣人よ。我々アクアフィリアンもまた、あなた方との邂逅を幾千のサイクルにわたって夢見ていました》


 その思考は、どこまでも穏やかで、知的で、そしてほんの少しだけ悲しみの色を帯びていた。

 エヴァは、その思考の奥にある僅かな陰りを読み取った。


『……何か、憂いを抱えているようですね。もし我々にできることがあるのなら、力になりたい』


 その、あまりにも真っ直ぐな申し出。

 アクアフィリアンの代表者の頭部が、一瞬、深い藍色に沈んだ。


 《……我々の母星は、滅びました。我々が生まれた星は、二連星の片割れ。その伴星が、数万サイクル前に超新星爆発を起こし、我々の星から全ての『水』を奪い去っていったのです》


 その思考と共に、栞の脳裏にも一つの鮮明なビジョンが映し出された。

 どこまでも続く、乾ききった砂の大地。ひび割れた川底。そして、その星に唯一残された貴重な水分である自らの体液を分け合い、かろうじて種を存続させてきたアクアフィリアンたちの、あまりにも壮絶な歴史。


 《……我々は水を求め、この星々の海を彷徨う永遠の巡礼者。ですが、このプロキシマの赤い太陽は、我々が生きるにはあまりにも弱々しく、この惑星の氷の下に眠る水は、我々の魂を潤すにはあまりにも冷たすぎるのです》


 その思考には、諦観と、そしてどうしようもない根源的な渇望が滲んでいた。

 彼らは、水を求めていた。

 生命の源であり、彼らの故郷そのものであった、温かい液体の水を。

 その、あまりにも切実な魂の叫び。

 それを聞いたエヴァ提督は、数秒間、目を閉じていた。

 そして、次に彼女が目を開けた時。その瞳には、深い深い慈愛の色が宿っていた。

 彼女は微笑んだ。そして、アクアフィリアンたちに一つの、あまりにも大胆で、あまりにも人間らしい提案をした。


『――ならば、我々の故郷へいらっしゃい』


 アクアフィリアンの頭部が、困惑を示す紫色に明滅する。


『我々の母星――地球は、あなたたちが探している星です。その表面の七割が、温かく、そして生命に満ちた液体の水――我々はそれを『海』と呼びます――で覆われた、奇跡の水の惑星です』

『プロキシマから地球までは、ワープゲートを使えばほんの数時間。……さあ、我々の船に乗りなさい。そして、見てください。あなたたちが幾千のサイクルにわたって夢見てきた、魂の原風景を』


 その、あまりにも気前が良く、そしてあまりにも温かい招待。

 アクアフィリアンたちの思考が、歓喜を示す虹色の光となって爆発した。


 ――数時間後。地球、太平洋上空。

 アクアフィリアンたちを乗せた人類の宇宙船が、大気圏を抜け、雲を割り、そして眼下に広がるどこまでもどこまでも青い、巨大な水の絨毯を彼らに見せつけた。

 アクアフィリアンたちは、言葉を失っていた。

 彼らの頭部は、ただ至上の幸福を示す純白の光で輝き続けていた。

 船は、ハワイ沖の穏やかな海域にゆっくりと着水した。

 ハッチが開かれ、タラップが下ろされる。

 アクアフィリアンの代表者が、おずおずとその細長い足で、初めて地球の温かい海水に触れた。

 その瞬間。

 彼の全身が、これまで誰も見たことのない、あまりにも眩い黄金色の光で爆発的に輝いた。

 それは、歓喜を通り越した法悦の光。

 故郷へと帰還した、魂そのものの輝きだった。

 彼は、何も言わなかった。ただ、その身を完全に海の中へと沈めていった。

 そして仲間たちもまた次々と船から降り、まるで母親の腕の中へと帰る赤子のように、その身を青い温かい抱擁の中へと委ねていった。

 彼らは泳いだ。潜った。そして、時には水面から高くジャンプし、その喜びを全身で表現した。

 その、あまりにも無邪気で、あまりにも幸福な光景。

 それを見守っていたエヴァ提督の頬を、一筋の温かい涙が伝った。

 人類は、初めて神に頼るのではなく、自らの手で別の知的生命体に「救済」を与えたのだ。


 ――その、あまりにも美しい未来のビジョン。

 それが終わった時、栞は自らの頬もまた涙で濡れていることに気づいた。


「……すごい……。なんて、美しい……」

「微笑ましいでしょう?」

 カグヤは、どこか誇らしげに言った。

「水の惑星というものが、彼らにとっては憧れなのよ。水なんて、地球だとどこにでもあるけどね」

 彼女は、そこでふっとその表情を曇らせた。

「……でも、紛争地帯では今も井戸へ数キロ歩いて水を補給する人々もいる。……そう考えると、今の地球も笑えないけどね?」


 その、あまりにも鋭い現実への皮肉。

 栞は、何も言い返せなかった。

「そうね」

 彼女は、静かに頷いた。

「じゃあ、次の名場面は?」


「そうね」

 カグヤは、再び川面へと視線を戻した。その瞳は、さらにさらに遠い未来を捉えている。

「やはり、人類がこの宇宙で一番大きい組織、銀河コミュニティに加入した時ね」


 彼女がそう言った瞬間、栞の脳内に再び未来のビジョンが流れ込んできた。


 ――西暦4026年、銀河中心首都星系『コア』。


 そこは、人間の想像を完全に超越した場所だった。

 数千、数万という全く異なる環境で生まれた星間文明の代表者たちが、一つの巨大な議場に集っている。

 ある者は、プラズマでできた常に形を変える不定形の生命体。ある者は、珪素で構成された昆虫のような多足歩行の集合知性体。ある者は、音波そのものが意識を持った不可視の概念的存在。

 その、あまりにも多様で、あまりにも混沌とした議場。それが、この天の川銀河の数百万年にわたる歴史と叡智の結晶、『銀河コミュニティ』の本会議場だった。

 その日、その議場に、1500年ぶりに新たな加盟文明が紹介されようとしていた。

 議長である水晶のような体を持つ古代種族の代表者が、その厳かな思考を議場全体へと響かせる。


 《――これより、太陽系第三惑星、地球より到来した新たなる隣人、『人類』の銀河コミュニティへの加盟審議を始める》


 議場の一角が、スポットライトに照らされる。

 そこに立っていたのは、二つの全く異なる装束をまとった、同じ種族の集団だった。

 片方は、純白と銀を基調とした、どこまでも合理的で機能美に満ちた制服に身を包んでいた。彼らの表情は穏やかで、その立ち振る舞いは一切の無駄がない。彼らは自らを、『秩序連合フェデレーション・オブ・オーダー』と名乗った。

 もう片方は、赤と黒を基調とした、一人一人が全く異なる個性的で、どこか野性的な装束をまとっていた。彼らの表情は情熱的で、その立ち振る舞いは生命力そのものを爆発させているかのようだった。彼らは自らを、『混沌同盟アライアンス・オブ・カオス』と名乗った。


 議長が、困惑した思考を人類の代表者へと向けた。

 《……奇妙だ。我々の記録によれば、一つの種族が二つの対立した国家として同時に加盟を申請してきた例は、この百万サイクルの歴史の中で一度たりとも存在しない。……あなた方は、一体何者なのだ?》


 秩序連合の代表者が、一歩前へ進み出た。その声は、冷静で理知的だった。

「我々は、人類という種が持つ理性の側面です。我々は、対話と科学、そして相互理解に基づいた、安定した宇宙の調和を求めます」

 次に、混沌同盟の代表者が一歩前へ進み出た。その声は、情熱的で芸術的だった。

「我々は、人類という種が持つ情熱の側面です。我々は、変化と進化、そして個々の魂の無限の可能性の解放を求めます」


 その、あまりにも対照的で、あまりにも矛盾した自己紹介。

 議場は、ざわめいた。

 この新参の、若く、そして厄介な種族は一体何を考えているのか。


 《……あなた方は、互いに争っているのではないのか?》

 議長の問いに、二人の代表者は顔を見合わせた。そして、同時に不敵な笑みを浮かべた。

 秩序連合の代表者が、答えた。

「争いですか? いいえ。これは、競争です」

 混沌同盟の代表者が、続けた。

「どちらの生き方が、より面白い物語を紡げるのか。その、永遠に答えの出ない最高の競争です」


 その、あまりにも傲慢で、あまりにも人間的な答え。

 議場は、静まり返った。

 そして次の瞬間、議場全体から様々な種族の、様々な形の、しかし一つの共通した感情――「面白そうだ」という好奇心に満ちた歓迎の思念が、爆発した。

 人類は、その最も厄介な性質――その永遠に続く内なる矛盾――を最高の武器として、銀河の舞台へとその第一歩を記したのだ。


 ――その、輝かしい未来のビジョン。

 それが終わった時、栞はもはや涙を流してはいなかった。

 ただ、その魂の奥底から、燃えるような熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。


「その頃には、混沌と秩序で人類は文明を分けてる。けど、それでも同時加入したから、まだまだレースは始まったばかりね」

 カグヤは、どこか楽しげに言った。

「私たちは多分、この光景を実際に見ることはできないけれど。こんな未来が待ってると思うと、今を頑張ろうって気持ちになるわ」

「……そうね」

 栞は、力強く頷いた。

「……私も、同じ気持ちよ」


 二人の巫女は、顔を見合わせた。

 互いの瞳の中に、同じ色の光が宿っているのを、二人は確かに見ていた。

 それは、敵意ではなかった。それは、ライバルへの敬意だった。

 そして、共にこのあまりにも気高く、そしてあまりにも愚かな「人類」という種を、遥かなる未来へと導いていく運命共同体としての、静かな、しかし確かな覚悟の光だった。

 戦いは、まだ終わらない。

 だが、その戦いの先に、こんなにも輝かしい未来が待っているのなら。

 悪くない。

 悪くないじゃないか。

 二人の巫女は、どちらからともなく、ふっと柔らかく微笑んだ。

 時間の川は、その二人の小さな笑みを映し込みながら、ただ静かに、そして雄大に、星々の海へと流れ続けていた。

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