第70話 混沌の二柱
東欧、ソラリス解放区。
かつて、その街の名は地図の上から消え去っていた。数十年に及ぶ内戦と、大国の無関心によって見捨てられた土地。そこにあったのは、瓦礫と、飢えと、そして昨日と同じ明日しか訪れないという、灰色の絶望だけだった。
だが今、その街は世界のどの都市よりも、奇妙で、暴力的で、そして圧倒的な生命力に満ち溢れていた。
陽南カグヤ――『太陽の巫女』が、この地に降り立ってから、まだ半年。
彼女がもたらした『混沌の福音』は、この見捨てられた街を、新たな時代の実験場、あるいは聖域へと完全に変貌させていた。
街の中心を貫く大通りには、もはや国籍も法律も存在しない。壁という壁は、かつてこの地で流された血の記憶を塗りつぶすかのように、色鮮やかなグラフィティアートで埋め尽くされている。建物の残骸は、即興のオブジェやステージへと作り変えられ、そこでは昼夜を問わず、様々な肌の色の人間たちが、即興の音楽を奏で、議論を戦わせ、そして自らの内に眠っていた「可能性」を爆発させていた。
元・少年兵だった男は、今はその鋭い空間認識能力を活かして、この無秩序な街の複雑な立体構造を設計する建築家となっていた。かつて、たった一杯のスープのために身体を売っていた少女は、今や自らが体験した地獄を壮大な叙事詩として語る、カリスマ的な詩人として人々の魂を震わせている。
秩序はない。安定もない。明日、隣人が自分を殺さないという保証すらない。
だが、ここには「自由」があった。
自らの運命を、自らの手で掴み取るという、剥き出しの、そして燃えるような生命の躍動があった。
その混沌の聖域を見下ろす、半壊した旧時代の政府庁舎の屋上。
陽南カグヤは、ぎしりと軋む鉄骨の上に腰を下ろし、眼下に広がるその混沌の庭を、満足げに見つめていた。
燃えるような、鮮やかな赤色のドレス。鴉の濡れ羽色のように艶やかな黒髪が、乾いた風に揺れている。そして、その溶かした黄金を流し込んだかのような瞳は、この街の未来、そしてそのさらに先の、数百年、数千年後の世界の因果を、同時に観測していた。
彼女の脳裏には、無数の未来の光景が、万華鏡のように明滅している。そのほとんどは、秩序派の巫女――鏡ミライが語る、あの穏やかで、停滞した未来へと繋がる退屈な枝葉。だが、その中に、確かに存在する。混沌が秩序を打ち破り、人類が全てのしがらみから解放され、真の自由を謳歌する、輝かしい未来の奔流が。
(……見えていますわ、ミライ)
彼女は、心の中で、まだ見ぬ宿敵へと語りかけた。
(あなたのその綺麗事は、所詮、偽りの安寧。わたくしが、わたくしたちが、その全てを破壊し、人々を本当の意味で救ってみせる……!)
彼女は、自らの行いが絶対的な「善」であると、微塵も疑っていなかった。
彼女が、その揺るぎない確信に満ちた瞳で、未来の勝利を観測していた、まさにその瞬間だった。
空が、鳴った。
音ではない。空そのものが、まるでバグったコンピュータのディスプレイのように、一瞬だけ虹色のノイズを走らせたのだ。
街を支配していた喧騒が、嘘のように静まり返る。人々は、何事かと空を見上げた。
カグヤの、その黄金の瞳が、驚きに見開かれた。
彼女の未来視に、この現象は映っていなかった。彼女の神の如き力ですら、観測不能な、絶対的な「イレギュラー」。
その気配の主を、彼女は知っていた。
いや、彼女の魂が、知っていた。
「…………まさか……」
彼女の唇から、震える声が漏れた。
屋上の、彼女の目の前。何もない空間が、テレビの砂嵐のように激しく明滅し始めた。周囲の物理法則が、その存在感に耐えきれずに悲鳴を上げている。
そして、そのノイズの中心から、まるでこの世の全ての矛盾を体現するかのように、一つの人影が、すぅっと滲み出てきた。
ピエロのような、しかしその瞳の奥に底なしの虚無を湛えた、あの超越的な存在。
彼が、その汚れたスニーカーで、ソラリスの乾いた大地に初めて足を踏み入れた瞬間。
カグヤの、その巫女としての威厳も、革命家としての覚悟も、全てがどこかへと消し飛んだ。
彼女は、ただの、恋い焦がれた相手にようやく会えた、一人の少女に戻っていた。
「――やあやあ。元気かな、カグヤちゃん」
その、あまりにも軽薄で、あまりにも場違いな挨拶。
だが、その声は、カグヤの魂にとって、世界のどんな音楽よりも甘美な、神の福音だった。
「…………邪神様……っ!」
カグヤは、叫んだ。その声は、歓喜と、驚愕と、そして長年の渇望が満たされたことによる、法悦の色に震えていた。
彼女の頬が、太陽のように真っ赤に染まる。
彼女は、自分が何をしようとしているのか、考えるよりも早く、その身体が動いていた。
彼女は、屋上の端から、躊躇なく飛び降りた。数十メートルの高さ。だが、彼女の周囲の空気がクッションとなり、まるで一枚の羽のように、その身を優雅に地上へと舞い降ろさせる。
そして、彼女は走った。
自らが信奉し、崇拝し、そしてその存在の全てを捧げると誓った、唯一無二の神の元へ。
彼女は、その痩身の胸へと、勢いよく飛び込んだ。
「邪神様ッ!!!!」
彼女は、子供のようにその胸に顔をうずめ、ただ神の名を呼んだ。全身が、雷に打たれたかのように痺れている。神に、触れている。この、温かさ。この、匂い。この、圧倒的な存在感。それら全てが、彼女の魂を至上の喜びで満たしていく。
「ははは! 元気だねえ、カグヤちゃんは!」
邪神――空木零は、その少女の純粋で、そしてあまりにも狂信的な愛情表現を、実に楽しそうに受け止めていた。彼は、まるで愛犬の頭でも撫でるかのように、ぽんぽんとカグヤの艶やかな黒髪を撫でた。
(うんうん、良いねえ、この反応。実に分かりやすくて、実に扱いやすい。ミライちゃんの方は、こうはいかないだろうなあ。あれは、頭が良すぎる)
彼の脳裏には、常にそんな冷徹な分析が流れている。だが、彼の口から出る言葉は、どこまでも優しく、そして甘かった。
「よしよし。君が、こんなにも素晴らしい『聖域』を作り上げてくれたこと、ちゃーんと見てたよ。偉い、偉い。僕の目に、狂いはなかった」
その、絶対的な肯定の言葉。
カグヤの金色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、報われた。
ただ、その一言だけで、これまでの全ての苦労が報われた気がした。
その、あまりにも異様で、しかしどこか神話的な光景を、遠巻きに見ていた者たちがいた。
物陰から、ゆっくりとその姿を現したのは、黒いロングコートをまとった、ケイン・コールドウェルと、その側近であるS級の怪物たちだった。
彼らは、邪神のあまりにも唐突な降臨に、最大限の警戒をしながらも、その場に深く膝まずいた。
「――我が神よ。ようこそ、お越しくださいました」
ケインの声は、冷静だった。だが、その声の奥には、隠しようのない畏敬の念が宿っていた。
「お、ケインじゃないか。君も元気だった?」
邪神は、カグヤを腕からそっと離すと、今度はケインの方へと歩み寄った。
「済まないね、色々と。面倒な仕事を、全部君に押し付けちゃってさ」
その、あまりにもフランクな労いの言葉。
ケインは、深く頭を垂れたまま、静かに答えた。
「いえいえ。邪神様こそ、お元気そうで何よりです。……して、本日は、何か特別な御用向きが、おありで?」
ケインの問いは、当然だった。この超越的な存在が、何の目的もなく、気まぐれだけでこの地を訪れるとは、到底思えなかった。
だが、その答えは、ケインの想像の斜め上を行くものだった。
「いやー、それがさあ、特に何もないんだよね」
邪神は、心底申し訳なさそうに、しかしその瞳は全く笑っていないまま、言った。
「ちょっと、暇になっちゃってさあ。だから、遊びに来ただけだよ」
「……暇に……?」
さすがのケインも、一瞬、言葉を失った。
「そうそう。だってさあ、最近、どうにもこうにも、均衡状態じゃないか、君たちと秩序派の連中って。どっちも決め手に欠けるっていうかさ。代理戦争も、なんかもうマンネリ化してきてるし。見てるこっちとしては、正直、ちょっと退屈なんだよねえ」
邪神は、まるで新作の映画がつまらなかったと愚痴るかのように、続けた。
「だから、まあ、息抜きに来たって感じかな。次の、面白いイベントもまだ決めてないし。……ああ、そうだ」
彼は、何かを思い出したかのように、手をぽんと打った。
「せっかく来たんだし、何かサービスしてあげようかな。スキル付与した方がいい、有能な人材のリストとかあれば、僕が今ここで、ちゃちゃっと力を与えてあげるけど。どうする、ケイン?」
その、あまりにも気まぐれで、あまりにも強大すぎる提案。
ケインの、その冷静な仮面の下で、彼の脳が神速で回転を始めていた。
戦力補充。
確かに、それは喉から手が出るほど欲しい。秩序派は、鏡ミライという強力な「頭脳」を得て以来、その防衛網をより一層強固なものにしている。こちらの小規模なゲリラ戦術も、そのほとんどが事前に予測され、対処されるようになっていた。この膠着状態を打破するためには、新たな、予測不能な「駒」が必要不可欠だ。
「……よろしいので?」
ケインは、確認するように問い返した。
「もちろん、もちろん! サービス、サービス!」
「……では、お言葉に甘えさせていただきます」
ケインは、深く一礼した。
「確かに、戦力を補充しておきたい所ですな。……すぐに、部下にリストを用意させます。感謝いたします、我が神よ」
ケインは、背後に控えていた側近の一人に、目だけで合図を送った。側近は、音もなくその場を離れ、司令部へと走り去っていく。
(……面白い。この神は、やはり我々を駒としてしか見ていない。だが、それでいい。その気まぐれさえも利用し、我々の目的を達成する。それこそが、旧世界の偽りの神々に祈ることしか知らなかった愚かな人類との、決定的な違いだ)
ケインの心の中では、そんな冷徹な計算が働いていた。
その、あまりにも現実的で、政治的なやり取り。
それを、少し離れた場所で見ていたカグヤは、少しだけ不満そうな顔をしていた。
彼女は、再び邪神の元へと駆け寄ると、そのコートの袖を、子供のように掴んだ。
「邪神様ッ!!!」
「ん? なんだい、カグヤちゃん」
「戦力補充も、もちろん大事ですわ! ですが、それだけでは足りません!」
カグヤの金色の瞳が、再び狂信的な熱を帯びる。
「わたくしとミライとの勝負、絶対に負けません! ご安心ください! わたくしの観測によれば、今の所、1000年後の未来においても、我々混沌派が優勢ですわ!」
「ほお。1000年後」
邪神は、心底面白そうに、その言葉を反芻した。
「はい! ミライの語る秩序の物語は、確かに美しい。ですが、それはあまりにも脆い砂上の楼閣! 人間という生き物は、本質的に混沌を求め、変化を愛する生き物なのです! 彼女の築いた秩序は、500年後に一度、大きな停滞期を迎え、その時、人々は再び我々の思想を求めるようになります! そのための布石を、わたくしは今、世界中に蒔いている最中です!」
カグヤは、もはや神がそこにいることも忘れ、自らの壮大なビジョンに酔いしれるかのように、熱っぽく語り続けた。
「そして、その輝かしい未来の拠点として! なんと、火星に、我々覚醒者のための新しいコロニーも、既に建設を始めておりますのよ!」
「……火星に、コロニー?」
さすがの邪神も、そのあまりにも突飛な発想には、少しだけ驚いたようだった。
「はい! もはや、この地球という古ぼけた揺りかごは、我々新人類には狭すぎるのです! 我々は、星々の海へと漕ぎ出し、そこに真の混沌の楽園を築くのですわ!」
彼女は、まるで夢見る少女のような瞳で、空を見上げた。
「そして、その楽園の中心には、もちろん!」
彼女は、再び邪神の方を向き直ると、その頬を林檎のように赤く染めて、言った。
「――邪神様の、巨大な、それはもう、巨大な銅像を、あちこちに作らせましょう!!! 偉大なる我らが神の御姿を、宇宙の隅々にまで知らしめるのですわ!」
その、あまりにも純粋で、あまりにもスケールが大きくて、そしてあまりにもズレている信仰の告白。
邪神は、しばらくの間、ぽかんとしていた。
そして、次の瞬間。
その、描かれたピエロの笑顔が、本当に、本当に楽しそうに、歪んだ。
「――ハハハ! ハハハハハハハハハハ!」
彼は、腹を抱えて笑い出した。
「銅像!? 火星に!? 俺の!?」
「良いね! 良いねえ、それ! 最高じゃないか、カグヤちゃん! 君は、本当に僕を飽きさせない天才だよ!」
彼は、涙を拭いながら、カグヤの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「うん、分かった、分かった! 建てよう、銅像! 作ろう、火星コロニー! いいよ、僕が全面的にバックアップしてあげる! 面白そうだから!」
その、あまりにも軽いノリでの、惑星規模のプロジェクトの承認。
側で聞いていたケインは、その鉄仮面のような表情の下で、僅かにこめかみをひくつかせていた。
(……この巫女の暴走と、この神の気まぐ……いや、深遠なる御心。それを、現実的なプランに落とし込む私の胃が、もつかどうか……)
邪神は、ひとしきり笑い終えると、満足げに頷いた。
「いやー、面白い。やっぱり、ここに来て良かったよ。君たちを見てると、退屈が吹き飛ぶなあ」
彼は、ケインから部下が届けてきた、スキル付与候補者のリストが書き込まれたタブレットを受け取った。
「じゃあ、まあ、ちゃちゃっと仕事済ませて、帰るとしますか」
彼は、そのリストを一瞥すると、まるでレストランでメニューを選ぶかのように、指先で数名をタップした。
「はい、完了」
その、あまりにも軽い一言。
だが、その瞬間。
世界のどこかで、リストに載っていた数名の人間が、自らの内に眠っていた神の如き力が覚醒するのを、感じていた。
「じゃ、そういうわけで」
邪神は、用は済んだとばかりに、その体を再び虹色のノイズへと変え始めた。
「また、退屈になったら、遊びに来るよ。……ああ、そうだ。銅像のデザイン、ちゃんと僕のイメージ通りに、最高に悪趣味でカッコよく頼むよ!」
その最後の言葉を残し、神の気配は完全に消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、神が残していったあまりにも巨大な「宿題」を前に、呆然と立ち尽くす二人の使徒だけだった。
カグヤは、恍惚とした表情で、邪神が消えた空間を見つめていた。
「……邪神様は、やはり我々を導いてくださる……!」
その隣で、ケインは、深く、深いため息をついた。
「……また、厄介な仕事を、増やしてくれたものだ」
彼のその呟きは、誰にも聞こえなかった。
ただ、ソラリスの乾いた風の中に、静かに溶けて消えていった。
混沌の物語は、神の気まぐれなテコ入れによって、また一つ、予測不能な新しいページをめくろうとしていた。