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第68話 長き布石

 西暦20XX年、夏。

 日本の夏は、その暴力的なまでの湿気と暑さで、アスファルトの上の陽炎のように、人々の理性を揺らがせる。だが、富士山麓の地下300メートルに広がるIARO(国際アルター対策機構)本部の空気は、真夏とはおよそ無縁の、摂氏22度、湿度50%に完璧に管理された、無機質な静寂に支配されていた。

 事務総長執務室。その広大な空間は、主である黒田の精神をそのまま映し出したかのように、整然として、冷徹で、そしてどこか底知れない疲労の色を滲ませていた。壁一面を埋め尽くす巨大なモニターには、世界のリアルタイムの情報が絶え間なく流れ続けている。『人類憲章』を掲げる秩序派と、『カオス同盟』を標榜する混沌派。両陣営の間の見えない戦争は、この5年間、世界の辺境で血を流し続け、今や泥沼の膠着状態に陥っていた。

 黒田は、そのモニターに映る無数の光点――一つ一つの光が、一つの紛争、一つのテロ、一つの小さな希望、あるいは絶望を示している――から目を離すと、手元のカップに注がれた深緑色の液体に視線を落とした。静岡産の、最高級の玉露。その馥郁たる香りが、フィルターを通した無味無臭の空気に、ほんの僅かな人間性の彩りを添えていた。


「……失礼します」


 静かなノックの後、重厚な防音扉が滑るように開いた。入ってきたのは、黒い流線型のIAROの制服に身を包んだ一人の青年。5年前、まだあどけなさの残る高校生だった面影は、今や厳しい戦いの日々によって削ぎ落とされ、精悍な青年のそれへと変わっていた。だが、その静かな瞳の奥に宿る、どこか達観したような、あるいは全てを諦観したかのような虚無の色だけは、あの日から少しも変わっていなかった。

 神崎勇気。

 日本の、いや、秩序派が擁する人類最強の切り札。『ジャベリン』のコードネームを持つ、SS級アルター。


「……勇気君か。時間通りだな。まあ、座りたまえ」

 黒田は、椅子を勧めた。彼の声には、上官としての厳しさではなく、長年の戦友に向けるような、僅かな安らぎが混じっていた。

 勇気は、無言で頷くと、黒田の対面に置かれたソファに深く腰を下ろした。黒田が、彼の前にも同じ玉露の入ったカップを静かに置く。湯呑から立ち上る、青々しい湯気。その向こう側で、世界の終わりを告げるかもしれない無数の情報が、サイレント映画のように流れ続けている。そのあまりにもシュールな光景が、彼らの「日常」だった。


「……最近、調子はどうだ。君の『影』の運用も、安定してきたと聞いているが」

 黒田が、口火を切った。

「ええ、まあ。おかげさまで」

 勇気は、曖昧に答えた。彼の言う『影』とは、【影分身の創造】によって生み出される、彼自身の戦闘用アバターのことだ。5年前の横浜での一件以来、彼の本体オリジナルが公の場に出ることはなくなり、全ての戦闘、全ての英雄的パフォーマンスは、この精巧な影によって行われるようになっていた。本体である彼は、この地下深くの要塞から一歩も出ることなく、ただ世界の平和を守り続けている。それは、あまりにも孤独で、あまりにも英雄らしからぬ、英雄の姿だった。


 しばらくの間、二人はただ黙って茶をすすった。モニターが明滅する音だけが、部屋の静寂を支配する。その沈黙を破ったのは、勇気の方だった。彼は、どこか遠い目をして、ぽつりと呟いた。

「……鏡ミライさんの配信、見ましたよ。昨日の」

「ほう。君も見るのかね、ああいうものを」

「ええ、まあ。勉強のために、というか……」

 勇気は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。

「彼女、すごいですよね。俺たちが、何ヶ月もかけて解決の糸口すら掴めなかった紛争を、たった一時間の配信で、その根本にある歴史的な因果を読み解いて、解決の道筋を示してしまう。……まるで、魔法みたいだ」

 その声には、純粋な賞賛と、そしてほんの少しの、同業者としての嫉妬の色が混じっていた。


「……黒田さん。俺、思ったんですけど」

 勇気は、カップを置くと、その真っ直ぐな瞳で黒田を見つめた。

「鏡ミライさんのスキル、コピーしたいなあって。でも、無理ですよね。俺の【スキル感知】の能力で彼女の配信をスキャンしてみたんですけど、表示されたランク、SSSだったんですよ。規格外すぎて、ノイズしか拾えなかった。やっぱり、SSS級のスキルは、俺の【万能者の器】でもコピーは無理なのかなって。……どう思います、黒田さん?」


 その、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも規格外な問い。

 黒田は、ふっと息を吐いた。そして、まるで出来の悪い生徒に根気よく教える教師のような口調で、静かに答えた。

「……そうだな。私も、彼女の能力ランクについては、スキル神から直接聞いている。間違いなく、SSS級。君の言う通り、コピーは不可能だろうな」

 黒田は、湯呑を両手で包み込むように持った。その温かさが、彼の冷え切った思考に、僅かな人間味を取り戻させてくれるようだった。

「我々IAROも、設立当初から『未来視』というスキルの戦略的価値については、最重要項目として研究を続けてきた。世界中のあらゆる予知能力者をリストアップし、保護、あるいは監視下に置いてきた。だが、そのほとんどは、戦闘中にせいぜい3秒先の未来を『直感』する程度の、限定的なものばかりだった。それですら、A級に分類されるほどの希少性だ。……彼女のように、個人の、あるいは国家の、数十年、数百年単位の因果を読み解くなど、我々の理解を完全に超越している」


「うーん、やっぱりそうですよねえ……」

 勇気は、心底残念そうに、ソファの背もたれに深く体を預けた。

「未来予知、便利そうだから欲しいのになあ。あれがあれば、テロリストがどこに爆弾を仕掛けたかとか、人質がどこに隠されているかとか、一発で分かるじゃないですか。そしたら、俺も、俺の『影』も、もっと効率的に、もっとたくさんの人を救えるのに」

 彼のその言葉は、純粋な善意から発せられていた。だが、その裏側には、5年間、英雄という名の孤独な機械であり続けることを強いられてきた青年の、魂の疲弊が色濃く滲んでいた。

「レアなんですかね、未来視って。巷に全然いないんですよね。いても、戦闘中の3秒先の未来を見るとか、そういう限定的な能力の人が多いですし」


「うむ。未来視という分野自体が、極めて貴重なのだろうな」

 黒田は、頷いた。

「おそらくは、スキルを授かる側の『器』の問題なのだろう。あまりにも強大すぎる力は、それに耐えうるだけの強靭な魂を要求する。普通の人間が、神の視点などというものを持ってしまえば、そのあまりの情報の奔流に、魂そのものが焼き切れてしまうに違いない」

 黒田の脳裏に、数々の悲劇的な事例が蘇る。未来視の才能を僅かに開花させながらも、その力に耐えきれず精神を病んでしまった者たち。彼らは、常に世界のあらゆる悲劇の可能性を同時に見てしまうが故に、希望を失い、自ら命を絶っていった。

 未来を識るということは、呪いと同義なのかもしれない。


 黒田が、そんな思索の海に沈みかけていた、まさにその瞬間だった。

 執務室の空気が、ふわりと密度を変えた。

 蛍光灯の光が、夕焼けのような温かい黄金色へと変わっていく。

 黒田と勇気は、顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、ふっと息を吐いて、その気配の主へと視線を向けた。

 彼らの目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった穏やかな老人が、音もなく姿を現していた。

 その顔には、まるで孫たちの会話を盗み聞きしていたかのような、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


『――うむ。なかなか、良いところまで理解が進んでおるようじゃな、黒田よ』


 スキル神。

 そのあまりにも超越的な、しかしあまりにも自然な登場に、勇気はぱっとその顔を輝かせた。

「うわっ! スキル神様! どうも、こんにちは!」

 その、5年前と少しも変わらない、裏表のない純粋な反応。それが、この青年の本質だった。

 黒田は、軽く頭を下げた。

「……お久しぶりです。また、随分と唐突ですな」

『ワシは、常にここにおるよ。ただ、お主たちに見えるか見えんかの違いだけじゃ』

 スキル神は、空中にふわりと腰を下ろすと、まるで自分のものであるかのように、黒田の机の上に置かれていた湯呑を一つ、念動力で引き寄せた。そして、その中身を一口すする。

『うむ。良い茶葉じゃ』


 その、あまりにもマイペースな振る舞いに、勇気は思わずといった風に尋ねた。

「えっ、スキル神様! 未来視って、そんなにヤバいスキルなんですか? 俺、黒田さんと、ちょうどその話をしてたんですよ」

 その問いに、スキル神は、湯呑を置き、そして初めて真剣な表情になった。


『うむ。そうじゃのう。……ヤバい、というお主たちの言葉が、最も的確かもしれんのう』

 彼は、静かに語り始めた。その声は、もはや好々爺のものではなかった。それは、宇宙の法則そのものを語る、神の響きを持っていた。

『未来視とは、お主たちが考えておるような、一本道の未来を『見る』能力ではない。それは、無数に分岐し、絡み合い、そして互いに影響を及ぼし合う、因果律の巨大な『川』そのものを、一度に俯瞰する能力じゃ』

 彼の言葉に呼応するように、執務室の空間が僅かに歪み、黒田と勇気の脳裏に、一つの鮮明なビジョンが映し出された。

 それは、無数の光の糸が複雑に絡み合い、一つの巨大なタペストリーを織りなしているかのような、荘厳な光景だった。

『一本の糸が、一人の人間の人生。その糸が他の糸と交わることで、新たな模様が生まれ、物語が紡がれる。未来視とは、このタペストリーの、まだ織られていない部分の模様を、『予測』するのではなく、『読み解く』ことなのじゃ』


『じゃが、問題は、その情報量じゃ。このタペストリーに織り込まれておる糸の数は、七十億ではない。過去、現在、未来、その全ての瞬間に存在する、ありとあらゆる可能性の奔流。その数は、文字通り無限じゃ。その無限の情報を、お主たちのような有限の魂の器で受け止めようとすれば、どうなるか』

 スキル神は、そこで一度言葉を切った。

『器が、壊れる。……そう、未来視の場合、その圧倒的な情報量で、人間の魂が持たんのじゃ』

『まあ、お主の【万能者の器】も、コピーするスキルのランクや複雑さによって、お主自身の魂の力量に左右されるタイプじゃが、未来視系は特にその傾向が強いのう。あれは、ただの技術スキルではない。世界の理そのものを覗き見る、禁断の鍵なのじゃからな』


「へー……。じゃあ、鏡ミライさんって、本当にすごいんですね」

 勇気は、心からの感嘆の声を漏らした。

『うむ。そして、あの太陽の巫女、陽南カグヤも、全く同じタイプの、極めて稀有な器の持ち主じゃ。同じ世代に、これほどの才能を持つ者が二人も現れるなど、ワシの観測史上でも、ほとんど例がない。まさしく、奇跡じゃな。……神話の時代でも、予言者や巫女というのは、いつだって貴重な存在じゃったじゃろう?』

「うーん、確かに、そうかもですね……」

 勇気は、納得したように頷いた。そして、彼はふと、最も気になっていた疑問を口にした。それは、彼だけでなく、今この世界に生きる全ての人間が、心のどこかで抱いている問いだった。

「そういえば、スキル神様。……カグヤとミライさん、どっちが勝つと思いますか?」


 その、あまりにも単刀直入な問い。

 黒田は、思わず勇気の顔を見た。なんと、不敬な質問を。

 だが、スキル神は、それを少しも不快に思うことなく、ただ面白そうに、その問いを吟味していた。

 黒田は、スキル神が答える前に、自らの見解を、指導者としての立場から述べた。

「……個人的には、鏡ミライ君に勝ってほしいと、願っている。彼女が示す、理性と対話、そして地道な努力の先にこそ、我々が目指すべき未来があると信じているからな。……だが、陽南カグヤの、その『今、この瞬間』を肯定し、人々の内に眠る可能性を解放するという思想も、絶望に喘ぐ民衆にとっては、あまりにも魅力的だろう。……難しい問題だよ、勇気君」

 黒田の言葉には、秩序の守護者としての、深い苦悩が滲んでいた。


『そうじゃのう。黒田の言う通り、難しいのう』

 スキル神が、それに同調するように言った。

 そして彼は、黒田と勇気の二人を、その星々を湛えた瞳で、まっすぐに見据えた。

『じゃが、お主たちは、根本的なところを見誤っておるぞい』

「……と、申しますと?」

『あの二人の勝負は、現代で決着がつくものじゃないじゃろう』


 その、あまりにもスケールの大きな一言。

 黒田と勇気は、息を飲んだ。


『考えてもみよ。二人とも、未来が見えるのじゃ。それも、数百年、数千年単位の、巨大な因果の流れがな。そんな二人が、目の前の小さな勝利のために、全力を出すと思うか?』

『彼女たちが今やっておるのは、戦いではない。……壮大な、チェスじゃよ』

『互いに、数千年先の未来を読み合い、その未来で自らの思想が勝利するために、今この現代という盤面に、一つ、また一つと、布石を打っておる最中なのじゃ』


『鏡ミライは、未来の理性の後継者が生まれやすいように、教育や文化という土壌に、静かに種を蒔いておる。陽南カグヤは、未来で人々がより自由に、より混沌とした可能性を選び取れるように、既存の権威や道徳という名の岩を、一つ一つ砕いて回っておる』


『彼女たちの本当の勝負は、我々ですら観測しきれん、遥か数千年後の未来で、ようやく決着がつく。……そう言っても、過言ではないのう。お互い、未来のために、今に伏線を、ただひたすらに入れ続けておる最中なのじゃよ』


 スキル神は、そう言うと、満足げに最後の一口の茶をすすった。

 後に残されたのは、絶対的な静寂。

 そして、そのあまりにも壮大で、あまりにも詩的な神の言葉に、完全に魂を打ち抜かれてしまった、二人の人間だけだった。

 数千年後の、未来。

 伏線。

 自分たちが、今、血を流し、苦悩しているこの瞬間も、その壮大なチェスゲームの、盤上のほんの一つの駒の動きに過ぎない。

 勇気は、しばらくの間、呆然としていた。

 そして、やがて、その口元に、ふっと乾いた笑みが浮かんだ。


「はー……。すごいスケールの問題ですね、それ」


 彼の声には、もはや嫉妬も、焦りもなかった。

 そこにあったのは、ただ、自らの理解を完全に超越した、巨大な物語の存在を前にした時の、純粋な畏怖と、そしてほんの少しの、少年のような好奇心だけだった。

 黒田もまた、同じだった。

 彼の肩から、ふっと力が抜けていくのを感じた。

 そうだ。

 自分は、あまりにも目の前のことに、囚われすぎていたのかもしれない。

 もっと、大きな視点で。もっと、長い時間軸で、この戦いを見つめなければならない。

 スキル神は、彼らに答えではなく、新たな「視点」を与えてくれたのだ。


『さてと。ワシも、そろそろ行くかのう』

 スキル神は、満足げに立ち上がった。

『まあ、せいぜい、あやつらの壮大なチェスゲームに、巻き込まれて滅ばんようにな。……お主たち自身の物語を、紡ぐことを忘れるでないぞ』

 その、いつもの謎めいた言葉を残し、神の気配は完全に消え失せた。


 後に残された、執務室の静寂。

 それは、先ほどまでの重苦しいそれとは、全く質の違う、どこか澄み切った、清々しい静寂だった。

 勇気は、ゆっくりと立ち上がった。

「黒田さん。ごちそうさまでした。……俺、もう行きます」

「ああ」

「なんだか、少しだけ、スッキリしました。俺が悩んでたこと、すごくちっぽけだったみたいです。……俺は、俺にできることをやるだけですね。未来のことは、未来の誰かが、きっと上手くやってくれるでしょうから」

 その、吹っ切れたような笑顔。

 黒田は、静かに頷いた。

「……ああ。その通りだ」

 勇気は、軽く一礼すると、執務室を後にした。

 一人残された黒田は、再び窓のモニターの世界地図を見つめた。

 それは、もはや絶望的な戦場ではなかった。

 それは、未来へと続く、壮大な物語が、今まさに紡がれようとしている、かけがえのない舞台に見えた。

 彼は、冷めきっていたはずの玉露を、もう一度、静かに口へと運んだ。

 その、深く、そして僅かに苦い味わいが、彼の魂に、確かな活力を与えてくれるようだった。

 戦いは、まだ終わらない。

 だが、それでいい。

 この、あまりにも人間的で、あまりにも気高い物語を、自分もまた、最後まで見届けてやろうではないか。

 黒田は、静かに、しかし力強く、そう心に誓った。




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