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第67話 神々の茶会と、人間の選択

 夜。その言葉が本来持つはずの静寂や安らぎといった概念は、月島栞の六畳一間のアパートには存在しなかった。壁一面を埋め尽くす本棚の森は、彼女だけの聖域。だが、その静かな聖域は今、世界の喧騒を映し出すモニターの青白い光に、絶え間なく照らされている。

 彼女は、配信を終えたばかりだった。

 今日のテーマは、『ルネサンス』。絶望的なペストの蔓延と、百年戦争という長い夜が明けた後、いかにして人間が再び文化と芸術の光を取り戻したか。彼女は、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった天才たちの物語を語りながら、その根底にあった名もなき無数の市民たちの、未来への渇望と生命力の再生を、優しく、そして力強く説いた。

 コメント欄は、温かい希望の言葉で溢れていた。人々は、鏡ミライが語る過去の物語の中に、自分たちが今生きるこの困難な時代を乗り越えるための、確かな道標を見出していた。

 だが、配信を終え、一人になった月島栞の心は、晴れなかった。

 モニターの片隅には、別のウィンドウが開かれている。そこには、ミンダナオ島から発信された、陽南カグヤの最新の演説の映像が、音声なしで再生されていた。燃えるような赤いドレスをまとった太陽の巫女。彼女は、瓦礫の山の上に立ち、その金色の瞳で、集まった何万人という熱狂的な信者たちを見据えている。彼女が指をさせば、人々は泣き、地にひれ伏し、そして自らの内に眠っていた可能性に覚醒し、歓喜の咆哮を上げる。

 その光景は、あまりにも魅力的で、あまりにも暴力的で、そしてあまりにも、正しかった。

 栞は、ため息をついた。

 私が語るのは、数百年かけて花開く、遠い未来の希望。

 彼女が与えるのは、今、この瞬間に人生が変わる、劇的な奇跡。

 どちらが、より多くの絶望した魂を救えるのか。

 答えは、火を見るよりも明らかだった。

 私の物語は、彼女の奇跡に勝てるのだろうか。

 その、日に日に重くなる問いが、鉛のように彼女の心にのしかかっていた。


 彼女が、冷めきった紅茶を一口飲んだ、まさにその瞬間だった。

 部屋の空気が、ふっと密度を変えた。

 モニターの光が、虹色のノイズを走らせて歪む。窓の外で鳴いていた虫の声が、逆再生の不協和音のように聞こえる。時間の感覚が、まるで熱いアスファルトの上で揺らめく陽炎のように、ぐにゃりと捻じ曲げられていく。

 栞は、椅子から跳ね上がった。

 この、あまりにも不快で、あまりにも悪趣味な気配。

 彼女の視線の先、本棚と壁の間の、何もないはずの空間。

 そこに、音もなく、気配もなく、ピエロのような、しかしその瞳の奥に底なしの虚無を湛えた、あの超越的な存在が立っていた。


「――やあ」


 その、あまりにも軽い挨拶。

 栞は、全身の神経を逆立てながら、しかし決してその視線を逸らさなかった。

「……来ましたね、邪神!」

 その、精一杯の虚勢。

 それを聞いた邪神は、心底楽しそうに、その描かれた笑顔を歪ませた。


「うん、来ちゃった」

 彼は、まるで近所のコンビニにでも行くかのような気軽さで、部屋の中を見回した。

「へえ。ここが、あの鏡ミライちゃんの仕事場か。意外と、質素なんだねえ。もっとこう、祭壇とか水晶玉とか、そういうのがゴテゴテ置いてあるのかと思ってたよ」

 その、あまりにも人間的な、そして人を食ったような物言い。栞は、言葉に詰まった。

 邪神は、彼女の困惑など意にも介さず、モニターに映る陽南カグヤの映像を指さした。


「どう? 僕の巫女。なかなかの逸材だと思うでしょ?」

 彼は、まるで自慢のコレクションを披露するかのように、実に満足げに言った。

「いやー、見つけるの大変だったんだぜ? 彼女みたいな子。君ほどではないけど、未来視、過去視、そして並行世界視まで出来る子なんて、そうそういないからね。その魂の奥底に、世界そのものを焼き尽くすほどの、純粋な善意と憎悪を溜め込んでる、最高の器だ」


 その言葉に、栞は唇を噛み締めた。

 やはり、カグヤは彼に利用されているだけなのだ。


「……彼女の、その純粋な想いを、あなたの退屈しのぎの道具にするのは、やめてください」

「おっと、人聞きが悪いなあ」

 邪神は、大げさに肩をすくめてみせた。

「僕は、彼女の願いを叶えてあげているだけだよ。彼女は、この腐った世界を一度更地にして、全ての人間をその運命から解放したいと願った。僕は、そのための力を、ほんの少しだけ貸してあげている。……実に、美しい共犯関係じゃないか」

 その、あまりにも歪んだ論理。

 栞が、何かを言い返そうとした、その時だった。


 部屋の空気が、再び変わった。

 今度は、虹色の不快な光ではない。

 琥珀色の、温かく、そしてどこか懐かしい光が、部屋全体を優しく包み込んでいく。

 邪神が、心底うんざりしたような顔で、その光の発生源を睨みつけた。

「……うわ。来たよ、お目付け役が」

 光が収束し、そこには、あの白い和装をまとった穏やかな老人の姿が、音もなく現れていた。


「――スキル神様……!」

 栞は、思わずといった風に、その名を呼んだ。

 だが、次の瞬間、彼女の顔は、さらに深い混乱の色に染まった。

「す、スキル神様! 突然、邪神が……!」

 彼女は、まるで先生に言いつける子供のように、二人の神を交互に見つめた。

 だが、その栞の必死の訴えを、スキル神は、穏やかに、しかし有無を言わさぬ仕草で手で制した。


『――これこれ。あまり、困らせるのではない』


 スキル神は、栞ではなく、邪神に向かって、まるで悪戯をした孫をたしなめる祖父のような口調で言った。

『やつも、お主に直接、危害を加えに来たわけではあるまい』

「……え……?」

 栞は、呆然とした。

 危害を加えに、来たわけではない?

 では、一体何のために。


『ただ、遊びに来ただけじゃよ』

 スキル神は、こともなげに言った。

 邪神は、それに「その通り!」とでも言うかのように、楽しそうに指を鳴らした。

「そうそう! ちょっと、お話をしに来ただけだって! ね、じいさん!」

 じいさん。

 その、あまりにも不敬な呼び名に、栞は眩暈がしそうになった。

 スキル神は、その呼び名を気にするでもなく、ふう、と息を吐いた。


『まあ、お主も、あの娘に直接会うわけにもいかんからのう』

 彼は、カグヤが映るモニターを一瞥して言った。

『忙しいとは言うが、ワシらにとって、分身を作ることなど造作もない。ここにいるのは、話をするための、ただの端末じゃよ』

 そうそう、と邪神が相槌を打つ。

「お話するために来ただけだぜ? うちの巫女でも良いけど、彼女にはこれから、もっともっと神格化してもらわないといけないからね。威厳が大事なんだ。僕みたいなのが、あんまり気安く話しかけるのも、アレだしさ」

「それに比べて」と、彼は言った。その、道化師の仮面の下の瞳が、初めて真っ直ぐに、栞の魂を射抜いた。

「君は、面白い」


 栞は、息を飲んだ。


「実際、よくやってるんじゃないか、君?」

 邪神は、まるで演劇の評論家が舞台の感想を述べるかのように、淡々と語り始めた。

「地道に、秩序の物語を紡ぐ。過去の偉業を語り、未来の希望を説く。それは、なかなか出来ることじゃない。実に、手が込んでいる。実に、退屈だ」

「だが」と、彼は続けた。

「うちの巫女の話のほうが、刺激が強いからね」

 彼は、栞の部屋の本棚を、指でなぞるように示した。そこには、古今東西の、ありとあらゆる英雄譚や悲劇の物語が、ぎっしりと並んでいる。

「君が語る物語は、しょせん、本の中の物語だ。誰かが経験した、過去の物語。あるいは、誰も経験したことのない、未来の物語。それは、確かに美しい。だが、それは『他人事』だ」

「それに比べて、カグヤが与えるのは、何だい? それは、その人間自身の物語だ。その人間が、本当はなるはずだった、最高の自分自身の物語。……現実が、一番なのさ」


「人間って生き物は、未来への物語で心惹かれる。だが、現実問題として、今この瞬間の飢えや、渇きや、絶望を癒してくれる、速効性のある奇跡に、結局はすがるものなのさ」


 その、あまりにも冷徹で、あまりにも的確な分析。

 それは、栞自身が、この数週間、心の奥底で感じていた不安、そのものだった。

 スキル神は、その二人の対話を、ただ黙って、静かに見守っている。


「君の物語は、人々に『忍耐』を強いる。だが、カグヤの物語は、人々に『解放』を与える」

「君の信者は、君を『先生』として崇める。だが、カグヤの信者は、カグヤを『自分自身』として崇める」

「……分かるかい? この、決定的な違いが。君がやっているのは、啓蒙だ。だが、彼女がやっているのは、革命なのさ」

 邪神は、心底楽しそうに言った。

「そして、歴史上、いつだって革命の炎のほうが、啓蒙の静かな光よりも、遥かに速く、そして広く燃え広がるものなんだよ」


 栞は、何も言い返せなかった。

 全て、その通りだったからだ。

 彼女は、唇を噛み締めた。悔しさで、視界が滲む。

 その、あまりにも脆く、そしてあまりにも人間的な少女の姿。

 それを見ていたスキル神が、初めて、ふわりと、その場に割り込んできた。


『――じゃがな』

 老人は、静かに言った。

『革命の炎は、確かに激しく燃え上がる。じゃが、それは自らを燃やし尽くし、後には灰しか残さん。……じゃが、啓蒙の光は、確かに弱々しい。じゃが、その光は、一度灯れば、人々の心の中で、決して消えることのない松明となる。……そして、その松明は、次の世代へ、また次の世代へと、受け継がれていくものじゃ』

 スキル神は、栞の肩に、そっとその実体のない手を置いた。温かい、何かが、彼女の魂に流れ込んでくる。

『お主がやっていることは、決して無駄ではない。お主が紡いでおるのは、500年先まで続く、物語の礎なのじゃからな』


 その、絶対的な肯定の言葉。

 栞の瞳に、再び強い光が宿った。


「ははは! 出たよ、出た! じいさんの、そのポエム!」

 邪神は、腹を抱えて笑った。

「500年後? 遠いねえ! 遠すぎるよ! その前に、ほとんどの人間は、目先の欲望に負けて、うちの巫女様の足元にひれ伏すことになるさ! それが、人間ってもんだろう?」


「……いいえ」

 栞は、顔を上げた。

 そして、初めて、自らの意志で、邪神のその虚無の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。

「……人間は、あなたが思うほど、愚かではありません」

「確かに、弱い生き物です。目先の欲望に、負けてしまうこともあるでしょう。ですが、人間には、物語を信じる力がある。遠い未来の、まだ見ぬ誰かのために、今を耐え、石を積み上げることを選べる、気高さがある」

「私は、それを信じます。……いいえ、わたくしは、それを『観測』したのですから」


 その、あまりにも静かで、しかし何よりも強固な、魂の宣言。

 それを聞いた邪神は、一瞬、その描かれた笑顔の奥で、ほんの僅かに、目を見開いたように見えた。

 そして、次の瞬間。

 彼は、これまでで最も楽しそうな、心からの喝采を送るかのような声で、笑った。


「――はは! あははははは! 素晴らしい! 実に、素晴らしいじゃないか、鏡ミライ! いや、月島栞君!」

「良いねえ! その目だよ、その目! それでこそ、僕の最高のエンターテインメントの、もう一人の主役だ!」


 彼は、満足げに頷くと、すっとその姿を掻き消した。

『――じゃあ、せいぜい頑張るんだね。君のその綺麗事が、僕の最高の現実リアルにどこまで通用するのか。特等席で、じっくりと見物させてもらうよ』

 その声だけを、部屋に残して。


 後に残されたのは、栞と、スキル神、ただ二人だった。

 スキル神は、満足げに頷いていた。

『……見事なものじゃったぞ、栞』

「……私は、ただ、思ったことを言っただけです」

『うむ。それこそが、力じゃ。……さあ、ワシも行くとするかのう。……あまり、長居をしすぎた』

 スキル神の体もまた、光の粒子へと還り始めていた。

「……あの」

 栞は、最後に一つだけ、ずっと気になっていたことを問いかけた。

「……あなたと、邪神は……。一体、何者なんですか……?」


 その、あまりにも根源的な問い。

 スキル神は、少しだけ困ったように笑うと、最後に、一つの謎かけのような言葉を残した。


『――ワシらは、ただのコインの裏表じゃよ』

『そして、そのコインを投げておるのは、いつだってお主たち、人間なのじゃ』


 その言葉を最後に、神の気配は完全に消え失せた。

 一人残された栞は、その言葉の意味を、しばらくの間、ただ静かに反芻していた。

 そして、彼女はふっと笑みをこぼした。

 もう、迷いはなかった。

 敵の正体も、その目的も、そして自らが紡ぐべき物語も、全てがクリアになった。

 彼女は、自らの配信部屋の椅子に、再び深く座り直した。

 そして、次回の配信のテーマを、考え始めた。

 それは、秩序と混沌、そのどちらでもない。

 ただ、人間という存在の、そのあまりにも愚かで、あまりにも美しい「選択」の物語。

 世界の夜明けは、まだ遠い。

 だが、彼女の心には今、確かに、自らの手でその物語を紡いでいくための、確かな羅針盤が宿っていた。



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