第66話 混沌の聖域と、二人の使徒
世界は、二人の巫女を巡って、静かに、しかし確実に引き裂かれ始めていた。
一人は、月の巫女。鏡ミライ。彼女は、500年先という遠大な未来の希望を語り、人々に秩序と忍耐の尊さを説いた。彼女の光は、静かで、理知的で、そしてどこまでも穏やかだった。疲弊しきった世界の秩序派(人類憲章連合)にとって、彼女はまさしく精神的な支柱、最後の聖女であった。
そして、もう一人。太陽の巫女、陽南カグヤ。彼女は、「今、この瞬間」の解放を語り、人々を縛るあらゆる常識と運命からの脱却を煽動した。彼女の光は、激しく、情的で、そしてあまりにも魅力的だった。虐げられ、忘れ去られた者たちにとって、彼女は革命の炎そのものであり、混沌の福音をもたらす救世主だった。
二つの物語、二つの希望。
世界は、どちらの光を選ぶべきか、その答えを見つけられないまま、巨大なイデオロギーの内戦へと、その歩みを進めていた。
その混沌の中心地。
東欧の、地図の上では国として存在しているが、事実上、数十年に及ぶ内戦と腐敗によって無政府状態と化していた紛争地帯。その一角に、奇妙な「聖域」が生まれていた。
かつてはソラリスと呼ばれたその街は、今や世界中のどの都市とも違う、異様な熱気と生命力に満ち溢れていた。壁という壁は、色鮮やかなグラフィティアートで埋め尽くされ、瓦礫だらけだったはずの広場では、昼夜を問わず即興の音楽とダンスの饗宴が繰り広げられている。人々は、肌の色も、生まれた場所も、かつての身分も関係なく、ただ自らの「解放された可能性」を謳歌していた。
元兵士だった男は、今は彫刻家として、戦車の残骸を叩いて巨大なオブジェを創り出している。かつて日々の糧を盗むことしか能がなかった少年は、今や驚異的な記憶力と計算能力に目覚め、この無法地帯の複雑な物資の流通を、たった一人で采配していた。
ここは、陽南カグヤがその手で解放した、混沌の実験場。秩序も、法律も、固定化された道徳もない。あるのはただ、むき出しの才能と、欲望と、そして自由。
危険で、不安定で、しかし間違いなく「生きている」街。
カグヤは、その街を見下ろす、半壊した教会の鐘楼のてっぺんに座り、眼下に広がるその混沌の庭を、満足げに見つめていた。彼女がこの地に現れてから、まだ二週間。だが、彼女の蒔いた種は、彼女の想像以上に力強く、そして美しく芽吹いていた。
彼女は、自らの行いが「善」であると、微塵も疑っていなかった。
停滞は、死だ。安定は、魂の牢獄だ。人間とは、もっと自由で、もっと可能性に満ちているはずの存在。それを思い出させるためならば、既存の世界を一度完全に破壊することも、厭わない。それこそが、偉大なる解放者――彼女が信奉する「邪神」が望む、真の救済なのだと。
その、彼女だけの聖域に、異質な来訪者が訪れたのは、ある日の昼下がりのことだった。
街の上空に、漆黒の、一切のマーキングがないステルス仕様のVTOL輸送機が、音もなく姿を現した。街の住人たちが、何事かと空を見上げる。VTOLは、カグヤがいる教会の前の広場に、ゆっくりと着陸した。
ハッチが開き、中から現れたのは、一人の長身の男だった。
シンプルだが、仕立ての良い黒いロングコート。その顔には、長年の苦行僧のような厳格さと、全てを見透かすかのような鋭い知性の光が宿っている。
ケイン・コールドウェル。
『終末の使徒』を率い、今や『カオス同盟』全体の軍事を統括する、大元帥その人だった。
彼の背後から、さらに数名の異様な気配を纏った者たちが降りてくる。他人の姿を自在に奪う『ドッペルゲンガー』エヴァ。灼熱の炎を操る『サラマンダー』ソカ。彼らは、ケインが世界中から集めた、S級アルターの中でも特に危険視されている怪物たちだった。
広場を支配していた陽気な喧騒が、嘘のように静まり返る。人々は、ケインとその側近たちが放つ、あまりにも強大で、あまりにも冷たいプレッシャーに、ただ息を飲んでいた。
カグヤは、鐘楼からふわりと飛び降り、その一行の前に音もなく着地した。
「――ようこそ、大元帥。我が聖域へ」
カグヤの声は、穏やかだったが、その金色の瞳は、少しも臆することなく、真っ直ぐにケインを見据えていた。
ケインは、その少女の、そのあまりにも不遜で、しかし神々しいほどの自信に満ちた佇まいを見て、その薄い唇の端に、ほんの僅かな笑みを浮かべた。
「……素晴らしい街だ、巫女よ」
ケインの声は、静かだった。だが、その一言一句が、周囲の空気そのものを震わせるような、絶対的なカリスマを帯びていた。
「混沌とは、無秩序な破壊のことではない。それは、旧世界の偽りの秩序を破壊し、その瓦礫の中から、より強く、より純粋な生命が芽吹くための、創造の嵐そのものだ。……君は、それをこの地で、見事に体現してみせている」
「お褒めにいただき、光栄ですわ」
「だが」と、ケインは続けた。その瞳に、軍司令官としての冷徹な光が宿る。
「君のその行いは、あまりにも無防備すぎる」
「……と、申しますと?」
「君は、我々の運動の、精神的な象徴となりつつある。秩序派の連中が、君の存在をどれほど危険視しているか、分からぬ君ではあるまい。にも関わらず、君は護衛もつけず、単身でこのような場所にいる。……それは、あまりにも危険すぎる」
ケインは、カグヤに一歩近づいた。
「陽南カグヤ。君は、邪神様に愛された、我らが混沌の巫女だ。その身に、万が一のことがあってはならん。故に、今日ここに来たのは、君に我々の最高戦力を、護衛として付けるためだ」
彼は、自らの背後に控えるS級アルターたちを、手で示した。
「エヴァが、君の影武者となる。ソカが、君に近づく全ての敵を焼き払う。……これだけの守りがあれば、秩序派のどんな卑劣な暗殺者も、君の髪一本触れることはできん」
その、あまりにも破格の申し出。
カグヤの周囲にいた、彼女を慕うスラムの住人たちは、息を飲んだ。彼らの巫女が、今やこの世界で最も強大な軍事組織の、最重要庇護対象となったのだ。
だが、カグヤの反応は、彼らの、そしてケインの予測を、完全に裏切るものだった。
彼女は、その申し出を聞いて、くすりと、実に楽しそうに笑ったのだ。
「……大元帥。あなたの、そのお心遣いには、心から感謝いたしますわ」
彼女は、そう言うと、優雅に一礼してみせた。
「ですが、そのご心配は、無用です」
「……何?」
ケインの眉が、僅かにひそめられた。
カグヤは、その金色の瞳で、ケインの背後に立つS級の怪物たちを、一人一人、値踏みするように見つめた。そして、絶対的な自信と共に、言い放った。
「未来と過去、そしてありとあらゆる可能性の奔流をその手に掌握している、このわたくしを捕まえることのできる存在など、この世界のどこにもいませんわ」
その、あまりにも傲慢な、しかし一分の隙もない断言。
エヴァが、侮辱されたと感じたのか、その姿を瞬時にカグヤのそれへと変え、冷たい声で言った。
「……面白いことを言うのね、お嬢さん。私なら、あなたに成りすまして、あなたの信者たちを内側から支配することだってできるのよ?」
だが、カグヤは動じなかった。
「ええ、できるでしょうね。ですが、その時には、わたくしはあなたの過去を観測し、あなたが最も恐れる、あなたの母親の姿へと変身して、あなたの心を折るでしょう。……エヴァ・ブラウン。あなたは、母親の愛を知らずに育った。そうでしょう?」
「――っ!?」
エヴァの顔から、血の気が引いた。彼女の完璧な変身が、僅かに揺らぐ。誰も知らないはずの、自らの最も深いトラウマを、なぜこの少女が。
ソカが、その身から威嚇するように陽炎を立ち上らせた。
「……小娘が。その口、灰にしてやろうか」
「やめておきなさい、サラマンダー」
カグヤは、冷ややかに言った。
「あなたのその炎が、わたくしに届く0.1秒前に、わたくしはあなたの未来を観測し、あなたがその力を制御できなくなり、自らの炎で仲間もろとも焼き尽くすという、最悪の並行世界へと、あなたの因果を繋ぎ変える。……あなたに、その覚悟がおあり?」
「……な……」
ソカの顔が、恐怖に引きつった。
彼女が言っていることは、ハッタリではない。その金色の瞳は、確かに、自分たちの魂の最も深い場所を、完全に見通している。
ケインは、その光景を、静かに見つめていた。そして、ゆっくりと手を上げた。
「……そこまでだ、二人とも」
彼は、再びカグヤに向き直った。その瞳には、もはや侮りはなかった。代わりに、そこにあったのは、同格の、あるいはそれ以上の力を持つ者に対する、純粋な畏敬の念だった。
「……見事だ、巫女よ。君の力、確かに見せてもらった。……護衛の件は、撤回しよう」
そのケインの言葉。それは、カグヤの神性を、カオス同盟の全ての者たちの前で、公式に認めた瞬間だった。
広場にいた人々が、どよめいた。
そして、次の瞬間、彼らは、まるで神の降臨を目の当たりにしたかのように、一斉にその場にひれ伏した。
「カグヤ様……!」
「おお……我らが巫女よ……!」
人々は、カグヤの名を呼び、涙を流し、彼女を崇め始めた。
だが、カグヤは、その光景を見て、厳しい表情で彼らを一喝した。
「――やめなさい!」
その声に、人々はびくりと体を震わせる。
「顔を上げなさい。あなたたちが、ひれ伏すべき相手は、わたくしではない」
彼女は、天を指さした。
「わたくしは、ただの巫女。神の言葉を、あなたたちに伝えるための、ただの器に過ぎません。あなたたちが、本当に崇め、そして祈りを捧げるべきは、我々全てを偽りの秩序から解放し、真の可能性を与えてくださった、偉大なるあの方だけですわ」
「崇めるべきは、邪神様、ただお一人!」
その、あまりにも純粋で、あまりにも謙虚な、信仰の告白。
それを聞いたカオス同盟の兵士たち、そして広場にいた全ての人々の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。
なんと、気高い。なんと、無欲な。
彼女は、これほどの力を持っていながら、自らはただの器に過ぎないと言い切る。
その、どこまでも純粋な混沌への信仰心に、人々は心を打たれたのだ。
その、あまりにも劇的な光景。
ケインの隣に控えていた、カオス同盟のプロパガンダ担当の男が、その好機を見逃すはずがなかった。
彼は、隠し持っていた拡声機能付きのドローンカメラを起動させると、広場の上空へと飛ばした。そして、自らのアドレナリンが沸騰するのを感じながら、そのマイクに向かって絶叫した。
その声は、ドローンを通じて、そして全世界の闇の放送網を通じて、瞬く間に拡散されていった。
「――見よ! 聞け! 偽りの秩序にしがみつく、愚かなる者共よ!」
「これこそが、我らが混沌の巫女、陽南カグヤ様の、気高きお姿だ!」
「彼女は、これほどの御力を持ちながら、決して驕ることなく、ただひたすらに、偉大なる神への感謝と忠誠を捧げておられる!」
「それに比べて、貴様らの巫女はどうだ! 鏡ミライは、自らを救世主であるかのように語り、人々からの賞賛と崇拝を、その一身に集めているではないか!」
「どちらが、真の預言者であるか! もはや、火を見るよりも明らかであろう!」
「邪神様、万歳! カグヤ様、万歳! 我らが混沌、万歳!!」
その扇動的な演説に呼応し、広場は、割れんばかりの「バンザイ」のコールに包まれた。
ケインは、その光景を静かに見つめていた。そして、カグヤの隣に歩み寄ると、ただ一言、静かに告げた。
「……君の勝ちだ、巫女よ」
「君は、武力ではなく、その魂の気高さで、我々全てをひれ伏させた」
そして、彼は初めて、カグヤに向かって、深く、深く頭を下げた。
大元帥が、巫女に忠誠を誓った瞬間だった。
それは、カオス同盟という組織が、ケインの「武」と、カグヤの「徳」という、二つの巨大な柱によって支えられる、真の「神聖帝国」へと生まれ変わった瞬間でもあった。
その、あまりにも完璧で、あまりにも美しいプロパガンダ映像。
それは、秩序派の国々に、深刻な衝撃と、そしてこれまでとは質の違う、静かな恐怖を与えた。
鏡ミライを信奉していた人々の中に、僅かな、しかし確かな疑念の種が蒔かれた。
もしかしたら、本当に民を想っているのは、あの太陽の巫女の方なのではないか、と。
物語と物語の戦いは、新たな、そしてより複雑な局面へと、その姿を変えようとしていた。