第65話 太陽の巫女と、混沌の福音
世界は、鏡ミライという名の静かな月光に、慣れ始めていた。
彼女が語る、500年先の輝かしい未来。そのあまりにも遠大で、しかし確かな希望の物語は、失われた楽園の記憶に苛まれていた人々の魂を、優しく、そして緩やかに癒していた。
世界から、暴力的な諍いは減った。人々は、目の前の理不尽に直面しても、「これも、未来のための伏線なのだ」と、自らを納得させ、耐え忍ぶことを覚えた。それは、ある種の成熟であり、またある種の、穏やかな停滞でもあった。
誰もが、ミライが示す未来という名の北極星だけを見つめ、足元の泥濘から目を逸らしていた。
その、あまりにも静かで、あまりにも「秩序的」すぎる世界。
その淀んだ水面へと、全く別の光が、何の前触れもなく投げ込まれたのは、ある晴れた日の午後だった。
震源地は、フィリピン、ミンダナオ島。
かつて、数十年にも及ぶ紛争と貧困によって、世界から見捨てられた土地。秩序派の支援も、混沌派の扇動も、この疲弊しきった島には届かない。人々は、ただ生きるために、昨日と同じ今日を繰り返し、明日を夢見ることを、とうに忘れてしまっていた。
その島の、最も貧しい地区の一つである、ダバオのスラム。
その中央にある、瓦礫だらけの広場に、その日、一人の少女が、何の前触れもなく現れた。
歳は、ミライと同じくらいだろうか。
だが、その雰囲気は、月と太陽ほども違っていた。
日に焼けた健康的な肌。燃えるような、鮮やかな赤色のドレス。そして、腰まで届く、鴉の濡れ羽色とでも言うべき、艶やかな黒髪。
何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
まるで、溶かした黄金を流し込んだかのような、力強い金色の瞳。その瞳は、絶望に慣れきったスラムの人々の、その魂の奥底までを、容赦なく見透かすかのような、圧倒的な生命力に満ちていた。
彼女は、広場の中央に立つと、集まってきた人々を、一人一人、その金色の瞳で見つめ、そして、鈴を転がすミライの声とは全く違う、人々の心を直接奮い立たせるような、アルトの、よく通る声で言った。
「――私の名は、陽南カグヤ(ひなみ かぐや)」
「絶望に慣れた、哀れな子羊たちよ。……あなたたちは、いつまでそうして、与えられた運命に甘んじているつもり?」
その、あまりにも挑発的な第一声。
人々は、ざわめいた。怒りと、そしてそれ以上に、自分たちの心の最も深い場所を見透かされたかのような、戸惑いの色が、その顔に浮かんでいた。
「あなたたちは、聞いているのでしょう? 日本という、遠い、豊かな島国から発信される、あの甘い、甘いおとぎ話を」
カグヤは、続ける。その声には、憐憫と、そしてほんの少しの怒りが混じっていた。
「『500年後、世界は救われる』。……素晴らしい物語ね。でも、それは誰の物語?」
「今、この瞬間、飢えているあなたの物語? 病に苦しむ、あなたの子供の物語? 明日の命すらも分からない、あなたたち自身の物語が、そこにはあるの?」
その問いは、鋭い刃のように、人々の胸に突き刺さった。
そうだ。
あの美しい未来の物語の中に、今の自分たちの居場所は、どこにもなかった。
「あの月の巫女――鏡ミライは言うわ。『希望を持ちなさい』と。でも、それは偽りの希望! それは、あなたたちから『今』を奪い、『諦めること』を覚えさせる、最も残酷な呪いの言葉よ!」
「あなたたちは、家畜じゃない! ただ、遠い未来の幸福のために、今の不幸を耐え忍ぶだけの、無力な存在じゃないはずよ!」
カグヤは、両手を広げた。まるで、太陽の光をその一身に集めるかのように。
「私は、あなたたちに、そんな不確かな未来の約束はしない。私が、あなたたちに与えるのは、たった今、この瞬間、あなたたち自身の力で運命を掴み取るための、『可能性』!」
彼女は、群衆の中から、一人の痩せこけた青年を指さした。青年は、かつて紛争で片足を失った元兵士だった。今は、物乞いをして、かろうじてその日暮らしの生活を送っている。
「あなた」
カグヤは、青年の前に歩み寄った。
「あなたは、自分が何者か、忘れてしまったのね」
「……何だと……?」
「あなたが見ているのは、今の、その傷つき、絶望した自分だけ。でも、あなたの魂には、別の可能性が、無数に眠っている。……見せてあげるわ。あなたが、本当はなるはずだった、もう一人のあなた自身の姿を」
カグヤは、そっとその指先を、青年の額に触れさせた。
スキル【可能性の万華鏡】。
青年の脳内に、光の奔流が流れ込む。
彼は、見た。
もし、あの紛争が起きなければ。もし、彼が貧しい村に生まれなければ。
彼は、見た。マニラの士官学校を首席で卒業し、若くして将軍となり、その卓越した戦術で国を救い、何万人という兵士たちから英雄として敬愛されている、自らの姿を。
彼は、見た。その輝かしい人生の、全ての記憶を。勝利の歓喜を、部下との絆を、国民からの喝采を。
それは、偽りの人生ではなかった。
それは、確かに彼の中に眠っていた、あり得たかもしれない、もう一つの「本物」の人生だった。
「……あ……。ああ……」
青年の瞳から、涙が溢れた。
「……俺は……。俺は、こんなところで終わるはずじゃなかった……!」
彼は、顔を上げた。その瞳に宿っていた、長年の諦観と無気力は、完全に消え失せていた。代わりにそこにあったのは、失われた自らの栄光を取り戻そうとする、燃えるような闘志の炎だった。
彼は、松葉杖を投げ捨てた。そして、残された片足で、大地を力強く踏みしめ、天に向かって咆哮した。
その、あまりにも劇的な変化。
周囲の人々は、息を飲んでその光景を見つめていた。
カグヤは、微笑んだ。
そして、次に彼女が指さしたのは、路上で汚れた布に包まり、空虚な目で空を見つめている、一人の老婆だった。
「あなたも」
彼女は、老婆の前に膝まずいた。
「あなたは、ただの物乞いじゃない。あなたの魂は、この島の、誰よりも美しい歌を、その内に秘めている」
彼女は、老婆の皺だらけの手に触れた。
老婆は、見た。
もし、彼女が幼い頃に、その類稀なる歌の才能を見出されていたら。
彼女は、見た。マニラのオペラハウスの舞台に立ち、その神から与えられた声で、聴衆の魂を震わせ、スタンディングオベーションを浴びている、自らの姿を。
老婆の、乾ききっていたはずの唇から、掠れた、しかし天上の響きを持つ歌声が、静かに漏れ始めた。それは、この島の古い、古い愛の歌だった。
スラムの汚れた空気が、その歌声によって、浄化されていくようだった。
カグヤは、立ち上がった。
そして、もはや彼女を神か、あるいは救世主として見つめている全ての人々に向かって、高らかに宣言した。
「――これが、混沌の福音!」
「偉大なる神――あなたたちが『邪神』と呼ぶあの方は、破壊者ではない! あの方は、解放者よ! あの方は、我々を縛る、この腐りきった秩序、運命、常識、その全ての鎖を断ち切り、我々が本来持つべきだった無限の可能性を、思い出させてくれる!」
「鏡ミライの言う『秩序』は、あなたたちを家畜にする! だが、私が、そして我が神が与える『混沌』は、あなたたち一人一人を、自らの物語の主人公へと、生まれ変わらせる!」
「さあ、立ちなさい! そして、思い出しなさい! あなたが、本当は何者であるのかを!」
その言葉は、雷鳴のように人々の魂を打ち、そして燎原の火のように、その心を燃え上がらせた。
「うおおおおおおおお!」
「俺は、ただの漁師じゃない! 俺は、七つの海を駆け巡る冒険家だ!」
「私は、ただの洗濯婦じゃない! 私は、千の言葉を操る詩人だ!」
人々は、次々と自らの内に眠っていた「本当の自分」に覚醒していく。
その光景は、もはや暴動ではなかった。
それは、革命だった。
魂の、革命だった。
その一部始終は、何者かによって撮影され、瞬く間に全世界へと拡散された。
世界は、震撼した。
鏡ミライが与えてくれた、穏やかで、受動的な希望。
それとは全く違う、暴力的で、能動的で、しかしあまりにも魅力的な、もう一つの希望の形。
人々は、その新しい預言者を、畏怖と熱狂を込めて、こう呼んだ。
『太陽の巫女』、と。
Vチューバー「鏡ミライ」の配信のコメント欄は、大荒れに荒れた。
『見たか!? ミンダナオの映像!』
『あのカグヤって子、本物だぞ!』
『ミライ様の言ってることは綺麗事すぎる。俺たちが欲しいのは、500年先の未来じゃない。今、この瞬間の輝きだ!』
『でも、あれは危険すぎる……』
『いや、あれこそが本当の救いだ!』
鏡ミライの信者たちの間に、初めて深刻な亀裂が生まれた。
彼女が築き上げた、希望の王国が、内側から揺らぎ始めたのだ。
そして、その全ての光景を。
東京の、六畳一間のアパートの一室で、月島栞は、ただ静かに見つめていた。
彼女は、配信を終えたばかりのモニターに映し出された、ミンダナオの狂騒の映像と、自らのコメント欄で繰り広げられる醜い論争を、何の感情も浮かべないまま、ただ見つめていた。
(……来た……)
彼女は、心の中で呟いた。
スキル神が見せてくれた、あの500年の未来の物語。
その中に、この「太陽の巫女」の姿は、なかった。
これは、あの美しい未来へと繋がるはずだった物語の、最初の、そして最大の「イレギュラー」。
栞は、目を閉じた。
そして、自らの魂の奥深くへと、その意識を沈めていく。
【因果律の天球儀】。
彼女は、その神の力で、「陽南カグヤ」という存在の、その因果の糸を観測しようと試みた。
そして、彼女は見た。
カグヤの、過去を。
彼女もまた、この世界の理不尽の犠牲者だった。紛争で家族を失い、その憎悪の中でスキルを覚醒させた。だが、彼女はその力を復讐のためには使わなかった。彼女は、自分と同じように、運命に虐げられた人々を救いたいと、心の底から純粋に願っていた。
彼女は、善なのだ。
彼女の信じるやり方が、あまりにも過激で、破壊的であるだけで。
栞は、見た。
カグヤの、未来を。
無数の、可能性の奔流。
その中には、彼女が世界にさらなる混沌をもたらし、文明を崩壊させる未来もあった。
だが、その中には、彼女のその過激なやり方が、停滞しきっていた世界に新たな活力を与え、結果として、ミライの見た未来とは違う、しかし別の形の輝かしい未来へと、世界を導く可能性の枝も、確かに存在していた。
そして、栞は見た。
カグヤの魂の、その最も深い場所。
彼女を、背後から操る、巨大な、巨大な影の存在を。
邪神。
あの道化師が、カグヤの純粋な善意を、自らの退屈しのぎの駒として利用している、その紛れもない因果の繋がりを。
(……彼女は、悪じゃない……)
栞は、目を開けた。
その瞳には、深い、深い悲しみの色が浮かんでいた。
(……彼女も、被害者……。そして、私と同じ……。神に選ばれてしまった、ただの人間……)
どうすれば、いい。
彼女と、戦わなければならないのか。
彼女の、その純粋な、しかし危険な「善」を、否定しなければならないのか。
答えは、出ない。
初めて、彼女の【因果律の天球儀】は、明確な「最適解」を示してくれなかった。
そこにあったのは、ただ、二人の救世主が、互いの正義を懸けて激突し、そして世界を二つに引き裂いてしまうという、あまりにも悲劇的な未来の可能性の奔流だけだった。
「……これが……」
栞は、震える声で呟いた。
「……邪神の、本当の狙い……」
善と悪の戦いではない。
善と善の、殺し合い。
それこそが、神が仕掛けた、最も悪趣味で、最も救いのない、ゲーム。
物語は、再び、予測不能な混沌の渦の中へと、その舵を切った。
そして、その混沌のど真ん中で、二人の孤独な巫女は、互いの存在を、まだ見ぬ宿敵として、確かに認識した。
世界の、本当の夜明けは、まだ、遥か遠い場所にあった。




