第64話 人間の物語と、神の肯定
深夜。その言葉が本来持つはずの静寂や安らぎといった概念は、この場所には存在しない。
IARO(国際アルター対策機構)本部、地下300メートル。事務総長執務室の空気は、フィルターを通しているはずなのに、まるで世界中の疲労とストレスを凝縮して固めたかのように、重く、淀んでいた。
室長の黒田は、身じろぎもせず、巨大な戦略モニターに映し出された一つの光景を、ただ静かに見つめていた。
それは、戦争の記録でもなければ、テロの発生を告げるアラートでもない。
画面の中心で、銀色の髪を揺らし、星々を宿した瞳で穏やかに微笑んでいるのは、一人のバーチャルな少女。現代の預言者、電子の巫女、『鏡ミライ』だった。
今夜の彼女の配信は、いつもとは少し趣が違っていた。ゲーム実況でも、お悩み相談でもない。ただ、静かに歴史を語るだけの、いわゆる『教養』番組。だが、その語り口は、どんな歴史学者のそれよりも深く、そして人々の魂を揺さぶる力を持っていた。
今宵のテーマは、『名もなき者たちが築いた奇跡』。
『――皆様、フランスのシャルトルに、壮麗な大聖堂があるのはご存知ですわよね?』
ミライの、鈴を転がすような、しかしどこか荘厳な響きを持つ声が、執務室のスピーカーから静かに流れる。
『あの巨大なゴシック建築。完成までに、何百年という歳月がかかりました。そこには、王や貴族の名前はほとんど残っていません。あのステンドグラスの青――シャルトル・ブルーと呼ばれるあの奇跡のような色を生み出したガラス職人の名前も、あの天を突く尖塔を設計した建築家の名前も、歴史の闇の中に消えてしまいました。分かっているのはただ、何世代にもわたって、名もなき無数の石工たちが、ガラス職人たちが、彫刻家たちが、ただひたすらに、自らの信仰と、未来の世代への祈りを込めて、石を積み上げ、ガラスを磨き続けた。……ただ、その事実だけですわ』
コメント欄が、穏やかな、しかし確かな感動に満ちた言葉で埋め尽くされていく。
『名前も残らないのに、か……』
『すごいな……。俺なら、絶対に無理だ』
『未来への、祈り……』
『ええ。そして、その祈りは、届いたのです』
ミライは、優しく微笑んだ。
『800年後の今、我々がその大聖堂を見上げて、そのあまりの美しさに魂を震わせる。その感動こそが、彼らの祈りに対する、神様からの、そして我々未来からの、最高のお返事なのですわ。……物語とは、そうやって紡がれていくものなのですよ』
黒田は、その光景を、複雑な思いで見つめていた。
安堵と、そして、深い無力感。
鏡ミライ――月島栞の存在は、間違いなく今のこの疲弊しきった世界にとって、唯一の希望の光だった。彼女が語る、あの500年先の未来という壮大な物語。それは、人々の心から絶望を洗い流し、日々の生活に意味と目的を与えてくれていた。彼女のおかげで、カオス教団の扇動も、以前のような爆発的な広がりを見せることはなくなっていた。
世界は、彼女一人によって、かろうじてその精神の均衡を保っている。
だが、その事実こそが、黒田の心を苛んでいた。
一人の、まだ20代にも満たない少女の、そのあまりにも強大で、あまりにも孤独な力に、この国は、いや世界は、完全に依存してしまっている。
我々、秩序を守るべき者たちは、一体何をしているのだ。
法を整備し、組織を動かし、国際社会と連携する。我々が、この5年間、血反吐を吐きながら積み上げてきた全てのものが、彼女のたった一時間の配信がもたらす希望の光に、遠く及ばない。
それは、指導者として、そして一人の人間としての、根源的な敗北感だった。
自分が、あまりにも無力で、ちっぽけな存在に思える。
この戦いは、本当に我々人間の手で勝利することができるのだろうか。それとも、我々はただ、神々の気まぐれなチェス盤の上で、より強力な駒の登場を待つだけの、無価値な歩兵に過ぎないのだろうか。
彼が、そんな自己嫌悪と虚無の海に沈みかけていた、まさにその瞬間だった。
執務室の空気が、ふっと密度を変えた。
無機質な蛍光灯の光が、夕焼けのような温かい黄金色へと変わっていく。
黒田は、ゆっくりと顔を上げた。
彼の目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった超越者の老人が、音もなく姿を現していた。
スキル神。
「……何の御用ですかな」
黒田の声は、何の感情も乗らない、乾いた音として響いた。
スキル神は、黒田には一瞥もくれず、ただモニターに映る鏡ミライの姿を、まるで愛しい孫娘の学芸会を眺めるかのように、満足げに、そして嬉しそうに見つめていた。
『――うむ。見事なものじゃ。あの子は、ワシの期待以上に、その役割を立派に果たしてくれておるわい』
その、あまりにも満足げな声が、黒田の心に巣食っていた劣等感の澱に、最後の追い打ちをかけた。
黒田は、立ち上がった。そして、自らの魂の奥底から絞り出すように、問いかけた。
「……彼女は。……鏡ミライは。……貴方が、そのスキルを授けた人物ですかな?」
その問いに、スキル神はゆっくりと黒田の方へと向き直った。その星々を湛えた瞳には、穏やかな光が宿っていた。
『そうじゃのう』
スキル神は、あっさりと頷いた。
『ワシにできることは、良き魂を持つ者に、良き力を授けることだけじゃ。世界が、あまりにも悲観と絶望に満ちておったからな。ほんの少しだけ、未来の景色を見せてやれる者が、必要だと思ったのじゃ』
『そして彼女には、未来視と過去視を授けた。因果の全てを読み解き、この世界の物語の本当の意味を識る力をな』
スキル神は、再びモニターの中のミライへと、その慈愛に満ちた視線を戻した。
『そして、彼女はその役割を果たそうと、今も懸命に頑張ってくれておる。そのあまりにも強大すぎる力の代償に、自らの魂をすり減らしながらもな』
その言葉は、黒田の心をさらに抉った。
そうだ。彼女は、戦っている。我々には見えない場所で、たった一人で、世界の全ての悲しみをその小さな肩に背負って。
それに比べて、自分は。
「……はい」
黒田は、唇を噛み締めた。
「彼女は、人類の希望として、立派に頑張ってくれています。……ですが、彼女のような、まだ若く、か弱い一人の存在に、これほどの重責を負わせなければならない。そんな状況を作り出してしまった、我々大人が、そしてこの私自身が……恥ずかしい」
「彼女のような存在に頼らざるを得ない、自分が、恥ずかしいですよ」
それは、黒田の偽らざる本心だった。
鉄の男と呼ばれた、この国の秩序の最後の番人の、あまりにも人間的な、魂の告白だった。
その、あまりにも脆く、そしてあまりにも誠実な言葉。
それを聞いたスキル神は、しかし、同情するでもなく、慰めるでもなく、ただ心底不思議そうな顔をした。
そして、次の瞬間。
その穏やかだったはずの表情が、初めて明確な「厳しさ」の色を帯びた。
『――何を、言うか。黒田よ』
その声は、もはや好々爺のものではなかった。それは、王が、その最も信頼する将軍の弱音を叱咤するような、威厳に満ちた響きを持っていた。
『お主がいなければ、今頃、この国の、いや世界の秩序など、とうの昔に崩壊していたぞい?』
スキル神は、空中に浮かんだまま、すっと黒田の目の前まで移動した。そして、その皺だらけの指で、黒田がこの数年間で作り上げてきた、この部屋そのものを指し示した。
『最初に、邪神が『神々の戯れ』で世界をくだらない奇跡の洪水に沈めた時、誰が『秩序の呪印』を世界中に配り、社会の崩壊を瀬戸際で食い止めた? お主じゃろうが』
『邪神が、ニューヨークの悲劇の後に、世界を狂信の渦に叩き込もうとした時、誰が『人類憲章』などという、常軌を逸した、しかし唯一の対抗策を打ち出し、世界の理性を一つにまとめた? それも、お主じゃろうが』
『そして今、この鏡ミライという希望の光が、その力を最大限に発揮できているのも、お主たちが築き上げたこのIAROという強固な『器』と、世界中を網羅する情報網という『舞台』があってこそ。……違うか?』
黒田は、何も言い返せなかった。
『鏡ミライは、光じゃ。じゃが、光だけでは、闇は照らせん。その光を掲げ、闇の中を歩み、道を切り拓く、屈強な兵士が必要なのじゃ。……それこそが、お主の役割ではないのか』
スキル神は、黒田のその疲れ切った瞳を、まっすぐに見据えた。
その瞳には、叱咤と、そして深い信頼の色が宿っていた。
『己の価値が分からぬ者に、民草の上に立つ将は務まらんぞ』
その、絶対的な肯定の言葉。
それは、どんな慰めの言葉よりも、黒田の乾ききった魂に深く、深く染み渡った。
そうだ。
自分は、無力ではなかった。
自分は、確かに戦ってきた。この、神々が作り出したあまりにも理不尽なゲーム盤の上で、ただの一人の人間として、人間のやり方で。
その誇りを、忘れてどうする。
黒田の、その固く強張っていた顔から、ふっと力が抜けた。
そして、彼の口元に、本当に、本当に久しぶりに、小さな、乾いた笑みが浮かんだ。
「……はは。……確かに、そうかも、しれませんな」
「私も、私なりに、頑張ってはいるのですが……。どうにも、思い通りにはいかないことばかりで」
その、あまりにも人間的な愚痴。
それを聞いたスキル神は、満足げに頷いた。そして、その表情は、再びいつもの穏やかな好々爺のそれに、戻っていた。
『うむ』
『じゃが、それこそが、人間の物語じゃよ』
スキル神は、そう言うと、再びモニターの中のミライへと視線を戻した。
ミライは、ちょうど配信の終わりを告げようとしていた。
『――それでは、皆さん。今日の観測は、ここまで。あなたの物語が、明日もまた、美しい一ページを紡ぎますように。……おつミラー』
その優しい声と共に、配信は終わった。
黒田もまた、その画面を、もはや劣等感ではなく、ただ純粋な、共に戦う仲間への敬意と信頼の念を持って、見つめていた。
『……さてと。ワシも、そろそろ行くかのう』
スキル神の体が、再び光の粒子へと還り始めていた。
「……感謝します」
黒田は、静かに頭を下げた。
『礼には及ばん。ワシは、ただワシの好む物語が、そう簡単には終わってほしくないだけじゃでのう』
スキル神は、悪戯っぽく笑った。
『……まあ、せいぜい、あやつの次の悪戯に備えておくことじゃな。……あやつが、このまま黙って見ておるとは、到底思えんからのう』
その、不吉な、しかし今の黒田にとっては心地よい激励とも取れる言葉を残し、神の気配は完全に消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、再び一人になった黒田だけだった。
彼は、執務室の机に置かれたまま、すっかり冷え切ってしまった緑茶を、一気に飲み干した。
苦い。
だが、その苦さが、今の彼には心地よかった。
彼は、椅子に深く腰掛けた。
そして、目の前の膨大な報告書の山を、一つ、手に取った。
その目には、もはや迷いも、自己嫌悪もなかった。
代わりに宿っていたのは、自らの役割を、自らの価値を再認識した、一人の指導者の、静かな、しかし何よりも強固な覚悟の光だった。
「……さてと」
彼は、呟いた。
その声は、ほんの数分前の自分とは、比べ物にならないほど、力強かった。
「――私も、私の仕事を始めるとするか」
人間の物語は、まだ終わらない。
神が、それを望む限り。
そして何よりも、それを紡ぐことを諦めない、愚かで気高い人間がいる限り。
夜明けは、まだ遠い。
だが、黒田の心には今、確かに、自らの手で道を切り拓いていくための、確かな羅針盤が宿っていた。