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第63話 預言者の凱旋

 その日、Vチューバー「鏡ミライ」の配信は、異様な熱気に包まれていた。

 一週間ぶりの配信。その告知がSNSで流れると、ファンたちは熱狂した。この一週間、彼女の身に何があったのか。なぜ沈黙していたのか。あらゆる憶測が飛び交い、その日の同時接続者数は、過去最高を記録していた。

 モニターの中のミライは、いつもと何も変わらない。銀色の髪、星々を映した瞳、神秘的な微笑み。

 だが、その内側にいる月島栞は、もはや以前の彼女ではなかった。


「――こんミラー! 皆さん、お待たせいたしました。見習い時間観測員の、鏡ミライです」


 その声は、いつも以上に穏やかで、しかしどこか、この世界の全てを知る者のような、絶対的な静けさと威厳を湛えていた。

 コメント欄が、爆発的な勢いで流れていく。

『ミライ様! おかえりなさい!』

『待ってた! ずっと待ってたぞ!』

『この一週間、寂しかった……』

『何かあったんですか? 心配してました!』


 ミライは、その温かいコメントの洪水に、優しく目を細めた。

「ご心配をおかけしたようで、申し訳ありません。わたくし、この一週間、少しだけ遠い未来へと、旅をしておりました。そして、見てきました。我々人類が紡ぐ、あまりにも長く、あまりにも気高い物語の、その結末を」


 結末。

 その一言に、コメント欄が、そして配信を見守っていた全世界が、息を飲んだ。

『結末!? どういうこと!?』

『まさか、世界の終わりを見てきたとか……?』

『やめてくれ! これ以上、絶望的な話は聞きたくない!』

『でも……知りたい……!』


 ミライは、その喧騒を、静かな微笑みで制した。

「落ち着いてください、皆さん。わたくしが、そんな無粋なことをするとお思いですか?」

 彼女は、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。

「わたくしは、時間観測員。物語の結末を、その途中で語ってしまうなんて、最大のルール違反ですわ。それは、あまりにも大きな……」


「――ネタバレですわ」


 その、いつもの決め台詞。

 だが、今日のその言葉には、これまでとは全く質の違う、絶対的な重みと、そしてどこか楽しげな響きがあった。

 コメント欄に、安堵と笑いが広がる。

『wwwwwwwwww』

『いつものミライ様だ!』

『心臓に悪いわ!』


「ですが」と、ミライは続けた。その瞳は、再び真剣な光を宿していた。

「一つだけ、皆様にお伝えできることがあります。それは、この世界線が、この私たちが今生きているこの物語が、確かに、あの輝かしい未来へと繋がっている、ということです」

「ですから、皆さん。希望を持ちなさい」

「絶望しないでください。私たちが今経験しているこの悲しみも、苦しみも、その全てが、あの美しい未来へと繋がる、一つの伏線に過ぎないのですから。……私たちは、もっと大きな物語の、確かに登場人物の一人なのです」


 その、絶対的な肯定の言葉。

 それは、失われた楽園の記憶に苛まれ、緩やかな衰退の時代を生きていた人々の心に、温かい、しかし確かな光を灯した。

『うおおおおおおおお!』

『信じる! ミライ様の言うことなら、信じるぞ!』

『涙が……。なんか、分からんけど、涙が止まらない……』

『俺たちの、このクソみたいな人生も、無駄じゃなかったってことか……』


 その、あまりにも人間的な魂の叫び。

 ミライは、その一つ一つを、慈愛に満ちた瞳で見つめていた。そして、彼女は、この世界の全ての人々の心に、一つの問いを投げかけるように、静かに語り始めた。


「わたくしは、この一週間の旅で、人類の物語の、その始まりのページも、見てまいりました」

「皆さんは、考えたことがありますか? 我々人類が、なぜ、今こうして、言葉を交わし、愛を語り、そして500年先の未来を憂うほどの、知性を持つに至ったのか。その、最初の、最初のきっかけを」


 彼女のその問いに、コメント欄は静まり返った。

 ミライは、まるで遥か遠い過去の風景を、その瞳に映しているかのように、目を細めた。


「それは、今から数百万年前。まだ、我々の祖先が、アフリカのサバンナで、ただ生きるためだけに怯えていた時代のお話ですわ」

「彼らは、弱かった。鋭い牙も、硬い甲羅も、速く走る足も持っていなかった。ただ、群れ、身を寄せ合い、そして常に何かに怯えながら生きていた。彼らの世界は、恐怖と、飢えと、そして本能だけでできていました」

「ですが、その中に、一匹だけ、少しだけ変わった猿人がいたのです。他の仲間たちが、ただ目の前の木の実を食べ、安全な洞窟で眠ることだけを考えていた時、彼だけは、いつも空を見上げていた。月はなぜ形を変えるのか。星はなぜ瞬くのか。あの燃えるような夕焼けの向こうには、何があるのか。彼の頭の中は、答えの出ない『なぜ』で、満ち溢れていました」


 ミライは、そこで一度言葉を切った。そして、まるで見てきたかのように、その光景を克明に描写し始めた。


「ある日、彼らの群れは、深刻な飢饉に見舞われました。食べられる木の実も、狩れる小さな獣も、全てがいなくなってしまった。仲間たちは、次々と力尽き、倒れていく。恐怖と絶望が、群れを支配していました」

「そんな中、あの好奇心旺盛な猿人は、一人、誰も足を踏み入れたことのない、薄暗い森の奥へと入っていきました。仲間たちは、彼を『狂った』と罵りました。森には、恐ろしい肉食獣がいる。毒を持つ植物が生えている。それは、彼らの世界の『常識』でした」

「そして、彼は森の奥で、それを見つけました。洞窟の湿った岩肌に、まるで夜空の星々のように、青白く、妖しく光る、奇妙なきのこを」

「彼は、本能で理解しました。これは、危険なものだと。仲間たちの誰もが、決して口にしないものだと。ですが、彼の魂の奥底で、あの『なぜ』という声が、叫んでいたのです。『これを食べたら、どうなるのだろうか』と」


「彼は、震える手で、そのきのこを一つ摘み取りました。そして、意を決して、その一口を、口に入れたのです」


 ミライの語りは、もはやただのVチューバーのものではなかった。それは、人類の最も古い記憶を呼び覚ます、シャーマンの詠唱のようだった。


「その瞬間。彼の、その小さな脳髄の中で、宇宙が爆発しました。これまで、ただ白と黒と、恐怖の色でしか見えていなかった世界が、極彩色の光の洪水となって、彼の意識を飲み込んだのです。彼は、見ました。原子の結合を、DNAの螺旋を、そして銀河の回転を。彼は、聞きました。風の歌を、石の沈黙を、そして自らの心臓の鼓動が、この宇宙のリズムと完璧に同期している、その荘厳なシンフォニーを」

「恐怖が、消えました。代わりに、彼の魂を満たしたのは、圧倒的なまでの万物との一体感と、そして、底なしの『好奇心』でした。彼は、その瞬間、ただの動物であることをやめ、最初の『人間』になったのです」

「彼は、森を駆け下りました。そして、仲間たちの前で、一つの奇跡を起こして見せた。彼は、ただの石ころを二つ拾い上げ、それを打ち付け、火花を散らせたのです。そして、乾いた枯葉に、その火花を移した。きのこによって活性化した彼の脳は、摩擦と熱と発火という、この世界の因果律を、完全に理解していたのです」

「仲間たちは、その初めて見る『火』という奇跡に、ただひれ伏しました。そして、彼を新たなリーダーとして崇めた。……それこそが、我々人類の、知性の黎明。全ての物語の、始まりの一ページだったのです」


 ミライは、そこで一度、息を吸い込んだ。そして、モニターの向こうの何百万人という人々に向かって、優しく、しかし力強く語りかけた。


「皆様。我々人類の本質とは、一体何なのでしょうか。それは、底なしの好奇心です。『なぜ』と問う心です。未知なるものを恐れず、時に常軌を逸した行動に出てでも、その答えを知ろうとする、その飽くなき探求心こそが、我々をただの動物から『人間』へと引き上げた、唯一のエンジンなのです。ですから、何事も、興味を持つ事ですわ。この世界の、ありとあらゆることに。それが、我々が我々であり続けるための、たった一つの方法なのですから」


 コメント欄は、静まり返っていた。誰もが、そのあまりにも壮大で、あまりにも根源的な物語に、ただ圧倒されていた。


 ミライの配信は、まだ終わらない。

 彼女は、まるで時間旅行をするかのように、その語りの舞台を、一気に中世のフランスへと移した。


「好奇心は、時に、一人の少女に、世界の全てを識る力を与えることもありますわ」

「皆様ご存知の、ジャンヌ・ダルク。彼女は、ただの敬虔な農夫の娘でした。ですが、彼女の好奇心は、常に天へと向けられていました。神とは、何か。正義とは、何か。この戦乱の世を救う道は、どこにあるのか」

「そして、ある日、彼女に天啓が下ります。人々はそれを『神の声』と呼びますが、わたくしの観測によれば、それは少し違います。彼女は、そのあまりにも純粋な問いによって、この世界の因果律そのものにアクセスしてしまったのです。彼女は、全知を与えられた。ただの少女でありながら、この世界の過去、現在、そして未来の全ての結末を、識ってしまったのです」

「彼女は、見ました。自らが、フランスを勝利に導くこと。そして、その後に、異端者として捕えられ、火刑に処される、その凄惨な最期を。ですが、彼女はそれだけではなく、そのさらに先の未来も、見ていたのです」

「彼女のそのあまりにも理不尽な死が、人々の心に永遠に消えない殉教者という名の聖なる火を灯し、それがフランスという国を、一つの強固な国民国家としてまとめ上げるための、絶対に必要な『礎』となることを。そして、その礎の上に築かれた国が、100年後、500年後、1000年後の未来において、人権や自由といった、人類にとってかけがえのない価値観を生み出す、その中心地となることを」


「彼女は、全ての結末を知っていて、あの最後を選んだのです。全ては、未来の人類のため。彼女の死は、無駄死にではなかった。それは、1000年後の我々のための、あまりにも壮大で、あまりにも気高い布石でした。……全てが、繋がっているのですわ」


 その、あまりにも新しい、そしてあまりにも美しいジャンヌ・ダルクの物語。

 人々は、もはや彼女の言葉を、ただのVチューバーの戯言として聞くことはできなかった。

 それは、真実の響きを持っていた。


 そして、ミライは、最後の物語を語り始めた。

 舞台は、日本の戦国時代。


「未来を見通す力は、時に、一人の男を、孤独な魔王へと変えてしまいますわ」

「織田信長。彼は、天才でした。彼のその卓越した知性は、もはや人間の域を超えていました。彼は、複雑に絡み合った戦国の世の因果を、まるでチェスの盤面を読むかのように完璧に演算し、数十年先の未来の日本までを、正確に見通していました。天下布武。彼が目指していたのは、ただの武力による統一ではありません。貨幣を統一し、関所を撤廃し、身分に関係なく能力のある者を取り立てる。それは、この島国が、いずれ来るであろう西洋列強の脅威に対抗するための、唯一の道でした」

「ですが、彼は、あまりにも未来を見すぎてしまった。その結果、人の心を疎かにしてしまったのです。彼の合理性は、時にあまりにも冷酷で、あまりにも非情だった。仲間たちの、その些細な嫉妬や、恐怖や、プライドといった、非合理的な感情の変数を、彼は軽視してしまった。その結果が、本能寺での反逆でした」

「ですが」と、ミライは続けた。その瞳に、深い憐憫の色を浮かべて。

「それすらも、彼の予想通りだったのかもしれません。彼は、分かっていた。自らのその破壊的なカリスマは、古い時代を終わらせるためには必要だが、新しい平和な時代を築くには、あまりにも強すぎるのだと。彼が生き続けていれば、日本は恐怖による独裁国家となっていたでしょう。彼の死こそが、彼の後継者たちが、より穏やかな形で彼の理想を完成させるための、最後の布石だったのです。彼は、自らの死すらも、未来の日本のための駒として、その完璧な計算の中に組み込んでいた。……なんと、孤独な王様だったことでしょう」


 三つの、物語。

 好奇心に満ちた猿人。

 全知を与えられた聖女。

 未来を計算しすぎた魔王。

 その全てが、ミライの口を通して語られることで、一つの壮大な叙事詩として、人々の心の中で結びついていった。


「――皆様、お分かりいただけましたでしょうか」

 ミライは、最後に、全ての視聴者に語りかけた。

「我々人類の歴史とは、無数の魂が、時に過ちを犯し、時にすれ違いながらも、必死に次の世代へとバトンを繋いできた、奇跡のリレーなのです。そのリレーの、遥か果てに、あの輝かしい500年後の未来は、確かに存在します」

「ですから、どうか。自らの人生を、卑下しないでください。あなたのその、ささやかで、退屈で、時に苦しみに満ちた日常もまた、この壮大な物語の、かけがえのない一ページなのですから」


 配信は、終わった。

 だが、世界は、永遠に変わった。

 その日を境に、人々の心から、あの『黄金の一ヶ月』への病的なまでの渇望が、少しだけ和らいだ。

 失われた楽園を嘆く代わりに、人々は、自らが生きるこの不完全で泥臭い「物語」の尊さに、気づき始めたのだ。

 歴史書が、飛ぶように売れた。博物館や美術館に、人々が殺到した。誰もが、自らのルーツを知り、過去の魂と対話し、そして未来へと繋がる物語の、自らの役割を、探し始めた。

 世界は、ゆっくりと、しかし確かに、自らの足で再び歩みだそうとしていた。



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