第62話 時間という名の川と、五百年の夜明け
Vチューバー「鏡ミライ」――月島栞は、時代の寵児となっていた。
SSS級スキル【因果律の天球儀】。その規格外の力を、彼女は「未来の欠片を観測する」という自らのキャラクター設定として完璧に昇華させ、人々の心を導く電子の巫女として、絶対的な支持を集めていた。
彼女の配信は、もはや単なるエンターテインメントではなかった。それは、社会現象であり、一種の信仰ですらあった。
彼女がゲーム実況で神プレイを披露すれば、そのゲームは記録的なセールスを叩き出す。彼女が雑談配信で「次にこういう物語が求められる気がします」と呟けば、世界中のクリエイターがその言葉を天啓として新たな作品を生み出す。
そして何よりも、彼女の「相談コーナー」は、この疲弊しきった世界にとって唯一の希望の光となっていた。
ある日は、経営難に苦しむ小さな町工場の社長からの相談。彼女は、その工場の過去の歴史と、これから先の市場の可能性の奔流を「観測」し、誰も気づかなかったニッチな需要――古いアナログレコードプレーヤーの精密な部品製造という「運命の楔」を見つけ出し、倒産寸前だった工場を奇跡のV字回復へと導いた。
またある日は、国際問題にまで発展しかねない、二国間の漁業権を巡る小さな村同士の対立。彼女は、双方の村の数百年にわたる過去の因果を読み解き、かつて両方の村が共通の「海の神」を祀っていたという忘れ去られた伝承を掘り起こした。そして、「争うのではなく、共に古の祭りを復活させ、それを新たな観光資源として協力し合う未来」という、誰も思いつかなかった温かい解決策を提示し、一触即発だった対立を氷解させた。
彼女は、救世主だった。
人々は、彼女を崇め、愛し、そしてその一言一句に熱狂した。
だが、その輝かしい光の裏側で、月島栞という一人の少女の魂は、静かに、しかし確実にすり減っていた。
毎晩、彼女の元には、世界中から何百万という人々の悩み、苦しみ、そして絶望が、祈りのように殺到する。彼女の力は、その全ての声を聞き届けてしまう。そして、その声に応えようとすればするほど、彼女の精神は、ありとあらゆる人間の因果の奔流に飲み込まれ、摩耗していく。
配信が終わった後、モニターの中の完璧な笑顔を浮かべた「鏡ミライ」のアバターが消えた瞬間。月島栞は、いつも一人、六畳一間の自室で、そのあまりにも重い神の力の代償に、ただ静かに耐えていた。
彼女は、孤独だった。誰よりも多くの人々と繋がっていながら、その実、誰よりも深い孤独の中にいた。
この戦いに、終わりはあるのだろうか。
私がしていることは、本当に世界を良い方向に導いているのだろうか。
それとも、これもまた、神々の壮大な退屈しのぎの、ただの駒の一つに過ぎないのだろうか。
その答えの出ない問いが、鉛のように彼女の心に重くのしかかっていた。
その夜も、彼女は配信を終え、疲労困憊のまま、ベッドへと倒れ込んだ。意識が、深い、深い眠りの海の底へと沈んでいく。
次に彼女が目を開けた時。
そこは、見慣れたアパートの一室ではなかった。
彼女は、橋の上に立っていた。
それは、どんな物質でできているのか分からない、水晶か、あるいは星々の光そのものを編み上げて作られたかのような、壮麗な橋だった。
上を見上げても、太陽も月も星もない。代わりに、そこには紫と藍色が混じり合った、美しい星雲がどこまでも広がっていた。
下を見下ろせば、そこには川が流れていた。だが、それは水ではなかった。
それは、光の川。
無数の光の粒子が、時に激しく、時に穏やかに、過去から未来へと、あるいは未来から過去へと、一つの巨大な奔流となって流れていた。一つ一つの光の粒は、誰かの人生の一瞬。その光の川全体が、この世界の始まりから終わりまでの、全ての時間を内包しているのだと、栞は直感的に理解した。
「……ここは……?」
これは夢?
彼女は、自らのスキルを発動させようとした。【因果律の天球儀】ならば、この不可思議な光景の意味を解き明かせるかもしれない。
だが、スキルは発動しなかった。彼女の魂と深く結びついているはずの力が、この場所ではまるで他人のもののように、うんともすんとも言わない。
ここは、彼女の力が及ばない、さらに上位の次元。
栞は、愕然とした。
「でもなんだか変だな……。怖い、とか、そういう感じじゃない……。むしろ、懐かしい、みたいな……」
彼女が、一人、困惑の声を漏らした、その時だった。
橋の欄干に、一人の老人が立っていた。
白い和装をまとった、あの超越的な存在。彼は、背筋を伸ばし、その壮大な光の川を、まるで自分の庭を眺めるかのように、静かに見つめている。
栞は、思わず彼に話しかけていた。
「……スキル神……さん?」
老人は、ゆっくりと振り返った。その星々を湛えた瞳には、穏やかな、そしてどこか楽しげな光が宿っていた。
『うむ、栞よ。来たか』
その声は、夢の中だというのに、あまりにも鮮明に栞の脳内に響き渡った。
「ここは、何なんですか? 私、眠っていたはずじゃ……」
『うむ。お主は眠っておる。ここは、夢と現実の狭間。ワシがお主を、ここに招いたのじゃ』
スキル神は、再び光の川へと視線を戻した。
『ここは、時間の川じゃよ』
彼は、まるで子供に絵本を読み聞かせるかのように、優しく語り始めた。
『この世界の、始まりから終わりまでの、全ての物語が、この川の中を流れておる。喜びも、悲しみも、誕生も、死も、その全てが、この奔流の一滴に過ぎん』
栞は、息を飲んで、そのあまりにも壮大な光景を見つめた。
彼女の力が垣間見せる因果の糸。その、さらに根源にあるものが、これなのか。
『お主は、日々、この川の流れを良くしようと、懸命に小石を拾い、流れを整えてくれておる。その働き、見事なものじゃ。じゃがな、栞よ。お主は、あまりにも目の前の流れに集中するあまり、この川が、本当はどこへ向かって流れているのか、その全体像を見失いかけておるようじゃな』
スキル神の言葉は、栞の心の最も深い場所を、的確に射抜いていた。
『だから、見せてやろうと思っての』
彼は、悪戯っぽく笑った。
『この、あまりにも長くて退屈な物語の、最高のエンディングをな』
『見よ、この美しい未来を』
スキル神が、そう言って川面を指さした、瞬間。
栞の脳内に、再びあの神の力を授けられた時のような、凄まじい情報量の奔流が流れ込んできた。
だが、それは混沌ではなかった。
それは、一つの、あまりにも美しく、そしてあまりにも気高い、人類の物語だった。
――彼女は、見た。
これから始まる、長い、長い『大沈黙』の時代を。
人々が、失われた楽園の記憶に呪われ、言葉が通じないことを嘆き、互いを憎み合い、世界が緩やかに衰退していく、地獄のような500年間を。
――そして彼女は、見た。
その地獄のど真ん中で、たった一人、祝福という名の呪いを背負って生まれた少女、アオイ・ホシノの、あまりにも孤独で、あまりにも壮絶な生涯を。
――そして彼女は、見た。
その少女が遺した、たった一行の方程式という名の小さな灯火が、何世代にもわたって、無数の人々の手から手へと受け継がれ、やがて巨大な松明へと育っていく、その奇跡のリレーを。
――そして彼女は、見た。
500年後。人類が、ついに自らの手で神の奇跡を盗み出し、再び魂の言葉を取り戻した、その歓喜の瞬間を。
――そして彼女は、見た。
その先の未来。人々が、過去の過ちを乗り越え、真の多様性を祝福し、そしてついに太陽系という名の揺りかごを飛び立ち、星々の海へと新たな物語を紡ぎにいく、その希望に満ちた夜明けを。
その、あまりにも壮大で、あまりにも美しい500年間の物語。
それを、栞は、わずか数秒で、その魂の全てで体験した。
彼女の頬を、熱い涙が止めどなく伝っていた。
「……なんて……。なんて、美しい未来……」
彼女の声は、嗚咽に震えていた。
自分たちが、今経験しているこの苦しみも、悲しみも、その全てが、この輝かしい未来へと繋がる、一つの布石に過ぎなかった。
その事実が、彼女のすり減っていた魂を、温かい光で満たしていった。
『うむ』
スキル神は、満足げに頷いた。
『あやつが投げ入れた石が、この未来を生み出したのじゃ』
「……邪神が……? あの、世界を混沌に陥れた……?」
『そうじゃ。あやつが、『言語統一』というあまりにも甘美な毒リンゴを投げ入れ、そして無慈悲に奪い去った。そのあまりにも巨大な絶望があったからこそ、人間という種は、初めて本気で『言葉』の、そして『魂』の価値と向き合うことができた。……皮肉なものじゃな』
スキル神は、少しだけ遠い目をした。
『じゃが、勘違いするでないぞ。これは、あやつのおかげではない。これは、人間という種の、底力なのじゃ。どんな絶望の淵に突き落とされても、何度でも這い上がり、より高く飛ぼうとする。その、あまりにも愚かで、あまりにも気高い魂の力。それこそが、この美しい物語を紡いだ、唯一の原動力じゃ』
彼は、栞の方を向き直った。その瞳には、深い愛情の色が宿っていた。
『ワシは、この物語がお気に入りでのう。……時々、こうしてここに来ては、一人で眺めておるのじゃ。じゃが、まあ、一人で見るのも、少しだけ寂しくてな』
彼は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
『誰かに、この感動を共有したかったのじゃよ。あやつを呼んで、一緒に眺めても良いんじゃが、あやつはすぐに「この展開は退屈だ」とか「もっと絶望が足りない」とか、うるさいことを言うでのう。……たまには、別の人間と、静かに見てみたいと、思ったのじゃよ』
その、あまりにも人間的な、神の独白。
栞は、涙で濡れた顔で、ふふっと笑みをこぼした。
そして、彼女の心の中から、ずっと彼女を苛んでいた重い靄が、すっと晴れていくのを感じた。
「……私たちが、今経験しているこの絶望が……。この、どうしようもない悲しみが……。全部、この美しい未来に繋がってるなんて……」
彼女は、光り輝く時間の川を見つめながら、深く、深く、噛みしめるように言った。
「……全ては、無駄じゃなくて。ちゃんと、未来に繋がってるんですね……」
『そうじゃ』
スキル神は、力強く頷いた。
『無駄なことなど、この川には一滴たりとも流れとらん。全ての悲しみは、未来の喜びのための伏線。全ての絶望は、未来の希望をより輝かせるための、闇。……そして、栞よ』
彼は、栞の瞳をまっすぐに見据えた。
『お主が、日々の活動で、人々の心を繋ぎ、良い結末へと導いている、その一つ一つのささやかな行い。それもまた、この壮大な川の流れを、ほんの少しだけ、しかし確実に、この美しい未来へと向かわせるための、意味あることなのじゃよ』
その、絶対的な肯定の言葉。
それは、栞の魂に、これまで感じたことのないほどの、温かい勇気と、そして静かな誇りを満たしてくれた。
私のやっていることは、無駄じゃない。
私は、この美しい物語の、確かに一員なのだ。
『さあ、夜明けじゃ』
スキル神が、そう言った。
見れば、星雲の空の向こう側から、柔らかな白い光が差し込み始めていた。
『お主も、そろそろお主の戦場へ、戻る時間じゃな』
栞の体が、ゆっくりと透き通り始めていた。
「……はい」
彼女は、力強く頷いた。
「……ありがとうございました。スキル神様」
彼女は、深く、深く一礼した。
スキル神は、それに満足げに頷き返すと、再び時間の川へと、その視線を戻した。
栞の意識は、温かい光に包まれ、再び深い、深い眠りの底へと、穏やかに沈んでいった。
翌朝。
月島栞は、自室のベッドの上で目を覚ました。
窓から差し込む、いつもと同じ朝日。
だが、その光は、昨日までとは比べ物にならないほど、輝かしく、そして希望に満ちて見えた。
彼女の頬には、乾いた涙の跡が残っていた。
夢では、なかった。
彼女は、ゆっくりと上半身を起こした。
そして、自らの配信部屋のモニターに映る、Vチューバー「鏡ミライ」の、美しいアバターを見つめた。
彼女の心から、迷いは完全に消え失せていた。
彼女は、もはや孤独な観測者ではない。
彼女は、この世界の、そして500年先の未来の、希望の物語を紡ぐ、誇り高き語り部なのだ。
彼女の口元に、穏やかな、しかし何よりも強い意志を宿した笑みが浮かんだ。
「……さてと」
「――今日も、始めますか」
彼女の、そして人類の、夜明けは、まだ遠い。
だが、その心には今、確かに、500年先の未来から届いた、温かい朝日の光が宿っていた。