第61話 電子の巫女と、三つのささやかな神託
月島栞は、パソコンの前に座っていた。今夜もまた、配信の日だ。
モニターの片隅に開かれたメールボックスには、世界中から届いた、何万通という魂の叫びが、未読の数字となって重くのしかかっている。邪神の気まぐれな置き土産、『転生林檎(緑)』。それは世界から暴力的な混沌を奪い去ったが、代わりに静かで、しかし根深い「才能のインフレ」と「自己改革への強迫観念」という新しい病をもたらしていた。
窓の外から聞こえてくる声。「うちの息子が林檎を食べて、いきなりバイリンガルになったのよ」「隣の奥さん、画家の人生を体験したらしくて、個展を開くんですって」。誰もが、今ここにはない「別の自分」になるための奇跡を求め、焦っている。その喧騒が、栞には時々、耐え難いほどのノイズに感じられた。
彼女は、その無数の声の中から、今夜語るべき三つの物語を、慎重に選び出した。一つの後悔。一つの絶望。そして、一つの孤独。
栞は、深く、深く息を吸い込んだ。そして、マイクのスイッチを入れる。
モニターの中の、銀色の髪を揺らした完璧な美少女「鏡ミライ」が、滑らかに動き出す。
ここからは、電子の巫女の時間。
「――こんミラー! 皆さん、こんばんは。未来の欠片を映し出す不思議な鏡からやってきた、見習い時間観測員の、鏡ミライです。今宵も、皆様の魂が紡ぐ物語を、わたくしと一緒に観測していきましょうね」
ミライの、鈴を転がすような声が響き渡る。同時接続者数のカウンターが、猛烈な勢いで跳ね上がっていく。コメント欄は、彼女の帰還を歓迎する、色とりどりの言葉で埋め尽くされた。
「さて。それでは、今宵最初の神託に移りましょう。本日、わたくしの鏡に映し出された最初の魂は……ハンドルネーム、『夕焼けのキャッチボール』さん。大学生の方からですわね」
ミライは、画面に一通のメールを映し出した。それは、拙いながらも、切実な痛みが滲み出ている文章だった。
『ミライ様、はじめまして。僕には、どうしても会って謝りたい人がいます。高校時代、たった一人の親友でした。ですが、些細なことから大喧喧して以来、もう3年間、音信不通です。SNSはブロックされ、電話番号も変わっていました。彼が今、どこで何をしているのか、元気でいるのかだけでも知りたい。このままでは前に進めません。どうか、助けてください』
ミライは、静かに目を閉じた。
「……夕焼けのキャッチボールさん。あなたの、その深い後悔の念、確かに観測いたしました。……それでは、少しだけ、あなたの過去の因果を、遡らせていただきますね」
栞の意識が、深く沈んでいく。【因果律の天球儀】が、ゆっくりと回転を始める。
彼女の脳裏に、鮮明な光景が映し出された。
夏の日の、放課後。夕焼けに染まるグラウンド。二人の制服姿の少年が、笑いながらキャッチボールをしている。一人は、相談者の「彼」。もう一人は、日に焼けた快活な笑顔が眩しい、親友の「彼」。
『おい、もっとちゃんと投げろよ!』
『うるせえな! お前こそ、ちゃんと捕れよ!』
他愛のない、罵り合い。だが、その言葉の全てが、ダイヤモンドのように輝いている。かけがえのない、青春の一ページ。
だが、その輝かしい記憶は、一つの些細なボタンの掛け違いによって、音を立てて崩れ去る。
受験。進路。そして、同じ女の子を好きになってしまった、という、あまりにもありふれた悲劇。
第三者が、悪意なく伝えた言葉のすれ違い。「あいつ、お前のこと、本当はライバル視してるらしいぜ」。若さゆえの、脆いプライド。そして、互いに本心を言えないまま、ぶつけ合ってしまった、取り返しのつかない言葉のナイフ。
『お前なんか、もう友達じゃない!』
栞には、見えた。親友の、その怒りに満ちた表情の裏側で、泣いていた魂の姿が。彼もまた、ずっと、ずっと後悔していたのだ。だが、謝るきっかけを失ってしまっただけなのだと。
「……観測、完了しました」
ミライは、ゆっくりと目を開いた。
「夕焼けのキャッチボールさん。あなたの親友も、あなたと同じくらい、あの日のことを後悔していますわ。彼は、今もあなたとの思い出を、大切に胸にしまっています」
その言葉に、コメント欄が安堵のため息で満たされる。
ミライは、続けた。その声は、どこまでも優しかった。
「わたくしに、彼の今の居場所を直接お伝えすることはできません。それは、彼の因果に過剰に介入することになってしまいますから。……ですが、一つだけ、未来の欠片をお見せしましょう」
「もし、あなたが本気で、その想いを伝えたいと願うのであれば。二人の思い出の場所へ、行ってみてはいかがでしょう? あなたが、彼と最後にキャッチボールをした、あの川辺の土手です」
「今週末の、夕暮れ時。……そう、ちょうど太陽が、あの頃と同じように、世界の全てを茜色に染め上げる、その時間に。……そこから、とても懐かしい未来の欠片が、見えますわ」
それは、予言ではなかった。
それは、二つのすれ違った魂を、再び引き合わせるための、ささやかな、しかし確信に満ちた招待状だった。
最初の神託がもたらした温かい感動の余韻が冷めやらぬ中、ミライは次の相談へと移った。
「続きましては……ハンドルネーム、『ラスト・ギグ』さん。インディーズバンドでボーカルをされている方からですわね」
メールの内容は、先ほどとは打って変わって、夢に破れた者の、乾いた絶望に満ちていた。
『ミライ様。僕たちのバンドは、次のライブで解散します。もう10年近く活動してきましたが、全く芽が出ませんでした。仲間たちとも話し合い、次のライブで観客が10人以下なら、もう綺麗さっぱり諦めようと決めました。分かっています、どうせ10人なんて来ません。僕たちの音楽に、価値なんてなかったんです。最後に、ミライ様にだけ聞いてほしかった。僕たちの、この10年間の物語に、何か一つでも意味はあったのでしょうか?』
コメント欄が、静まり返った。
それは、あまりにも多くの人間が、自らの人生と重ね合わせてしまう、普遍的な問いだった。
ミライは、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、そのメールに込められた、無念と、諦観と、それでもなお音楽を愛してやまない魂の、その複雑な響きを、静かに観測していた。
「……ラスト・ギグさん。あなたの、10年分の魂の叫び、しかと受け止めました」
彼女は、目を閉じた。
因果の奔流が、再び彼女の意識を飲み込んでいく。
彼女は、見た。彼らが初めて楽器を手にした、高校の文化祭の、あの瑞々しい情熱を。狭い練習スタジオで、汗だくになりながら、一つのフレーズを何度も何度も練習した、あの輝かしい日々を。
そして、彼女は見た。彼らがスランプに陥った、本当の原因を。
いつからか、彼らは音楽を「楽しむ」ことを忘れていた。売れるためにはどうすればいいか。観客にウケるためには、どんな曲を作ればいいか。成功という名の亡霊に取り憑かれ、彼らの音楽から、最も大切な魂の響きが失われてしまっていたのだ。
そして、ミライは未来を観測した。
彼らが、武道館やアリーナのステージに立つ、そんな華々しい未来は……どこを探しても、見つからなかった。
だが、彼女は、別の、たった一つの、しかしあまりにも尊い未来の欠片を、見つけ出した。
「……観測、完了しました」
ミライは、目を開けた。その瞳には、深い、深い慈愛の色が宿っていた。
「ラスト・ギグさん。……残念ながら、わたくしの鏡には、あなたがアリーナを満員にするような未来は、映りませんでした」
その、あまりにも残酷な、しかし誠実な宣告。
コメント欄に、悲痛な声が溢れる。
『そんな……』
『言ってやるなよ……』
『夢を、壊すのか……』
だが、ミライは静かに続けた。
「ですが。ですが、わたくしには、別の、たった一つの、しかし何よりも美しい未来の欠片が見えました」
「あなたの、最後のライブ。観客は、9人です。ですが、その客席の、一番後ろの隅の席で。たった一人だけ、あなたの最後の歌に、心を震わせて、声を殺して涙を流している、一人の高校生の少女の姿が、見えます」
「そして、その少女が、数年後。あなたの、あの日の音楽に魂を揺さぶられたことがきっかけで、素晴らしいミュージシャンになり、彼女の歌が、今度は何千、何万人という人々の心を救うことになる。……そんな、未来の物語の、『最初の一音』になるという、とても、とても尊い未来が、確かに見えました」
「ラスト・ギグさん。成功だけが、物語の価値ではありません。あなたの10年間の物語は、決して無意味ではなかった。それは、未来の、まだ見ぬ誰かの物語を始めるための、かけがえのない『種』だったのですわ」
配信は、静まり返っていた。
誰も、何も言えなかった。
ただ、画面の向こうで、無数の人々が、声を殺して泣いていた。
重苦しくも、温かい感動が冷めやらぬ中、ミライは最後の相談へと移った。
「……さて。今宵、最後の神託です。……ハンドルネーム、『土の翁』さん。地方で、伝統工芸の和紙職人をされている、80歳の方からですわね」
そのメールは、短く、しかし何百年という歴史の重みが込められた、諦観の言葉で綴られていた。
『ミライ様。ワシの代で、この和紙を漉く技も終わりじゃ。今の若いモンは、こんな地味で儲からん仕事に見向きもせん。この何百年と続いてきた、雪解け水と、楮の魂だけで作り上げるこの技は、誰にも受け継がれず、ただ静かに消えていく運命なのかのう』
ミライは、目を閉じた。
彼女は、見た。冷たい清流に手を浸し、黙々と紙を漉き続ける、何代にもわたる職人たちの、無言の背中を。その技に込められた、自然への畏敬と、紙を使う人への、見返りを求めない祈りを。
そして、彼女は未来を観測した。
日本の、どこを探しても、その後継者の姿は、見えなかった。
だが。
彼女の意識は、地球の裏側へと飛んだ。
ブラジル、サンパウロ。世界最大のスラム街、その喧騒と色彩の洪水の中。
一人の、まだ10代のストリートチルドレンの少年がいた。彼は、ガラクタの中から拾い集めてきた部品で自作した、古びたスマートフォンで、必死に何かを検索していた。
彼の目に映っていたのは、日本の、とある伝統工芸を紹介する、外国語のサイト。
そして、一枚の写真。
それは、「土の翁」が漉いた、一枚の和紙だった。
その、柔らかな光を内包したかのような、雪のように白く、そしてどこまでも強靭な繊維の絡み合い。
少年は、その美しさに、魂を奪われていた。彼は、この混沌とした、暴力と貧困に満ちた世界にも、こんなにも静かで、完璧なものが存在するのだという事実に、ただ打ち震えていた。
そして、ミライには見えた。
その少年が、数年後、必死に働いて貯めたわずかな金で、片道の飛行機のチケットを握りしめ、日本の、あの雪深い山の麓にある、小さな工房の門を叩く、その未来の姿を。
「……観測、完了しました」
ミライは、目を開けた。
「土の翁さん。あなたの、その尊い技は、決して消えません」
「ですが、あなたの魂を受け継ぐ者は、この国にはいないようですわ」
老人の、僅かな落胆の気配を、栞は感じ取った。
だが、ミライは、温かい声で続けた。
「あなたの魂の響きは、海を越え、山を越え、地球の裏側で、今まさに芽吹こうとしている一人の若者の魂を、強く、強く揺さぶっています」
「今はまだ、泥にまみれたダイヤモンドの原石のような少年です。ですが、彼の瞳には、あなたの作品と同じ、一点の曇りもない純粋な光が宿っていますわ」
「……扉は、常に開けておいてください。予期せぬ場所から、風は吹いてくるものです。あなたの物語は、ここで終わりません。それは、あなたが想像もしなかった場所で、全く新しい言葉で、紡がれていくのですから」
配信を終えた栞は、ヘッドセットを外し、深く、深く息を吐き出した。全身が、鉛のように重い。三人の人間の、そのあまりにも濃密な人生の因果に触れ続けた彼女の精神は、限界まですり減っていた。
だが、彼女はモニターに映し出された無数の感謝のコメントの奔流を見つめていた。その一つ一つの言葉が、温かい光となって彼女の疲弊した魂に染み込んでいく。
彼女は、静かに目を閉じた。
そして【因果律の天球儀】の力を、ほんの少しだけ未来へと向けた。
彼女の脳裏に、三つのささやかな光景が浮かび上がる。
夕焼けの土手で、ぎこちなく、しかし確かに笑い合いながらキャッチボールを再開した、二人の青年の姿。
下北沢の小さなライブハウス。観客は、9人。だが、そのステージの上で、人生で最高の笑顔で、最後の歌を歌い上げるバンドマンたちの姿。そして、客席の隅で、一人の少女が、まるで世界の始まりの音を聞いたかのように、瞳を輝かせている。
雪深い山里の、小さな工房。その引き戸が、少しだけ開け放たれている。中では、一人の老人が、これまで以上に真剣な、そしてどこか楽しげな顔で、黙々と紙を漉き続けていた。彼は、まだ見ぬ異国の弟子を、待っているのだ。
栞は、彼らの物語が、再び、そして確かに動き出したことを、因果の川のかすかなきらめきとして感じ取った。
彼女の口元に、小さな、しかし確かな笑みが浮かんだ。
それは、月島栞としての、偽りのない、本当の笑顔だった。
彼女は、一杯の紅茶を淹れる。その温かい湯気を見つめながら、静かに決意する。
この世界は、混沌と悲しみに満ちているかもしれない。
だが、こんなにも美しい、名もなき物語が、無数に息づいている。
私は、語り部でいよう。
この不完全で、だからこそ愛おしい人間たちの物語の。
そう、心に誓いながら。