第59話 静かなる観測者と神の気まぐれな天啓
世界は、熱病の後の、悪夢のような倦怠期に沈んでいた。
ほんの数ヶ月前、邪神が気まぐれに与えた『黄金の一ヶ月』。全世界の言語が統一され、人類が初めて真の意味で魂のレベルで手を取り合った、あのあまりにも甘美で、あまりにも短すぎた奇跡の時代。その記憶は、もはや祝福ではなく、決して癒えることのない幻肢痛のように、人類の集合的無意識を苛み続けていた。
楽園は奪われた。後に残されたのは、以前よりも遥かに深く、そして救いのない断絶と孤独感だった。言葉が通じないという当たり前の現実が、一度完璧な相互理解を知ってしまった魂には、耐え難い拷問となっていた。
その巨大な喪失感は、やがて世界中で燻っていた対立の火種に、最悪の燃料を投下した。『人類憲章』を掲げ、人間の理性を信奉する西側諸国中心の「秩序派」。そして、『カオスこそ神の御心』と嘯き、強大なアルターの力を背景に旧来の世界秩序の転覆を狙う独裁国家群「混沌派」。両陣営の対立は、失われた楽園への渇望と、その喪失の原因を互いになすりつけ合う醜い責任転嫁によって、以前とは比べ物にならないほど陰湿で、根深いものへと変質していた。
希望は、どこにも見当たらなかった。
だが、そんな完全な絶望の中にも、ほんの僅かな、しかし確かな変化の兆しは生まれていた。
邪神が、次なる悪戯として世界にばら撒いた『転生林檎(緑)』。
それは、一口かじれば自らに欠けている性質や欲しい能力を持つ「別の人生」を体験し、その経験を自らの糧とすることができるという、究極の自己改革ツール。当初、IARO(国際アルター対策機構)をはじめとする秩序派は、これを新たな混乱の種として最大級の警戒をもってその流通を監視していた。
しかし、蓋を開けてみれば、その影響は驚くほど穏やかなものだった。人生でたった一度きりという絶妙な制約と、100分の1という希望を抱ける確率。
それは、巨大な絶望の底に差し込んだ、あまりにも弱々しい、しかし確かな一条の光だった。
そんな、奇妙な均衡と停滞の中で、月島栞は生きていた。
東京郊外、私鉄沿線のどこにでもあるような、古びた木造アパートの二階の一室。それが、彼女の世界の全てだった。
彼女は、この狂ってしまった世界が少しだけ苦手だった。
テレビをつければ、今日も世界のどこかで起きている代理戦争のニュースが、まるで他人事のように流れている。SNSを開けば、「#転生林檎チャレンジ」といったハッシュタグで、見ず知らずの他人が体験した華々しいもう一つの人生の自慢話が、洪水のようにタイムラインを埋め尽くしていた。
誰もが、今ここにはない「別の何か」を求め、叫んでいる。そのあまりにも大きな声が、栞には時々、耐え難いほどのノイズに感じられた。
彼女は、本が好きだった。
インクの匂い、指先でページをめくる感触、そして何よりも、紙の上に静かに横たわる文字たちが紡ぎ出す、整然とした物語。そこには、現実の世界にはない、静かで、完結した秩序があった。
六畳一間の彼女の部屋は、そのほとんどが古びた本棚で埋め尽くされていた。床から天井まで、ぎっしりと詰め込まれた文庫本、ハードカバー、海外のペーパーバック。その背表紙の森に囲まれている時だけが、彼女が唯一心から安らげる時間だった。
その日も、彼女は出窓に設えた小さな読書スペースで、一冊の古いSF小説を読んでいた。窓の外では、夏の終わりの気怠い午後の光が、アスファルトの上で陽炎のように揺らめいている。遠くで聞こえる電車の通過する音、子供たちの笑い声、風鈴の涼やかな音色。
退屈で、平凡で、しかし、かけがえのない日常。
彼女が、物語のクライマックスに差し掛かり、その世界に深く没入していた、まさにその瞬間だった。
ふと、空気が変わった。
風鈴の音が、止んだ。電車の音も、子供たちの声も、まるで分厚いガラスの向こう側にあるかのように、遠くなった。部屋を満たしていた午後の光が、琥珀色のような、どこか懐かしくも神々しい色合いへと、その質を変えていく。窓の外で揺らめいていた陽炎が、ぴたりと動きを止めた。
時間が、引き伸ばされている。
栞は、本から顔を上げた。心臓が、警鐘のように激しく鳴っている。
これは、ただ事ではない。アルターの仕業か。あるいは。
彼女の視線の先、本棚と壁の間の、何もないはずの空間。
そこに、音もなく、気配もなく、一人の老人が立っていた。
質素な、しかしシミ一つない真っ白な和装。その顔には、深い、深い皺が、まるで悠久の時の流れそのものを刻み込んだかのように走っている。だが、その瞳だけが、まるで生まれたての星々を無数に湛えているかのように、どこまでも深く、そして若々しく輝いていた。
栞は、息を飲んだ。
恐怖はなかった。ただ、あまりにも超越的な存在を前にした時の、純粋な畏怖だけが、彼女の全身を支配していた。
老人は、その星々を湛えた瞳で、栞を静かに見つめていた。そして、まるで古くからの知り合いにでも会ったかのように、穏やかに微笑んだ。
彼の口は、動いていない。
だが、その声は、栞の脳内に直接、そしてあまりにも自然に響き渡った。
『――やあ。邪魔をして、すまぬのう』
その声は、声というよりも、意味そのものの奔流だった。温かく、優しく、そして、どこか楽しげな響きを持っていた。
「…………あなたは……?」
栞は、絞り出すように問いかけた。声が、震えている。
『うむ』
老人は、にこりと頷いた。
『お主たちが、スキル神とそう呼んでおるものじゃよ』
その、あまりにもあっさりとした肯定。
栞の、その本に満たされた静かな世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
彼女の脳裏に、数年前に高校の『アルター倫理学』の授業で、嫌というほど暗記させられた、あの歴史的な事件の数々が蘇る。
ニューヨークの奇跡。聖女ソーニャの悲劇。そして、その全ての物語の背後に存在するとされる、二柱の超越的な神。
秩序を司る、善の神。
「……スキル……神……?」
栞は、ほとんど声にならない声で呟いた。
「……教科書で習った……あの……?」
『いかにも』
スキル神と名乗った老人は、くつくつと喉の奥で笑った。
『教科書、か。ワシも、随分と偉くなったものじゃのう。まあ、あそこに書いてあることの半分は、あの黒田という男の都合の良い解釈じゃがな』
その、あまりにも人間的な、そして悪戯っぽい口調。
栞の緊張が、ほんの少しだけ、解けた。
「……なぜ……。なぜ、あなたが、私の部屋に……?」
『うむ。それこそが、本題じゃ』
スキル神の瞳が、ふっと真剣な光を宿した。彼は、栞の、その魂の奥の奥まで見透かすかのように、静かに言った。
『今日はお主に、スキルを授けようと思って、来たのじゃ』
「……スキルを……私に……?」
栞は、混乱した。
なぜ、自分なのだ。自分は、アルターではない。特別な才能も、強い意志も持っていない。ただ、本が好きで、人混みが苦手な、ごく普通の、どこにでもいる人間だ。
その栞の心の声が、聞こえているかのように。
スキル神は、穏やかに続けた。
『お主には、素質がある』
「……素質……?」
『そうじゃ。お主の魂は、まるで静かな湖面のようじゃ。外界の喧騒に惑わされることなく、ただ静かに、天に浮かぶ星々を、ありのままに映し出す。……その、観測者としての、純粋な魂。それこそが、ワシがこれからお主に与える、あまりにも強大で、あまりにも厄介な力を持つための、唯一の器となりうるのじゃ』
スキル神は、そっとその皺だらけの、しかし温かい手を、栞の額へと伸ばした。
栞は、身動き一つできなかった。
指先が、額に触れる。
その瞬間。
光。
栞の意識は、純白の、そして無限の情報量を内包した光の奔流に、完全に飲み込まれた。
宇宙の始まりのビッグバン。生命の誕生の瞬間の歓喜。文明の勃興と、その崩壊の悲劇。名もなき人々の、ささやかな喜びと、静かな悲しみ。その、ありとあらゆる時間と空間の記憶が、一つの巨大な奔流となって、彼女の魂へと流れ込んでくる。
それは、拷問に近いほどの情報量。
だが、不思議と苦痛はなかった。彼女の魂が、まるで乾いたスポンジが水を吸い込むかのように、その全ての情報を、ただ静かに、ありのままに受け入れていたからだ。
『――SSS級スキル:【因果律の天球儀】。……お主に相応しい』
スキル神の声が、光の奔流の中心で響く。
『これは、簡単に言えば、過去視と未来視を可能とするスキルじゃ。じゃが、その本質は、もっと根源的なもの。因果の糸を読み解き、この世界の理そのものを「識る」力じゃ』
『じゃが、気をつけよ。常用すると、精神的にキツイぞ。お主は、知りたくもない真実を、見たくもない悲劇を、これから嫌というほど見ることになる。お主自身の魂の輪郭が、他者の膨大な記憶の奔流に溶かされてしまいそうになる時も、来るやもしれん。……じゃから、しばらくは、練習が必要じゃぞ』
光が、収束していく。
栞の意識が、ゆっくりと六畳一間のアパートの一室へと戻ってくる。
スキル神は、もう彼女の目の前にはいなかった。ただ、その温かい気配の残響だけが、部屋の空気に漂っていた。
『――では、授けたぞ。ワシは、去る』
声だけが、部屋に響く。
『質問があれば、「スキル神」と心の中で念じるがよい。まあ、ワシも他の宇宙の管理で忙しい時もあるからのう。その時は、返事ができんやもしれんがな。……ではな』
その、あまりにもマイペースな最後の言葉を残し、神の気配は完全に消え失せた。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、ただ一人、床にへたり込んでいる月島栞だけだった。
「…………」
彼女は、しばらくの間、身動き一つできなかった。
全身から、力が抜けている。頭が、割れるように痛い。
今の出来事は、夢だったのだろうか。
あまりにも疲弊していたせいで見た、壮大な幻覚だったのだろうか。
彼女は、ふらふらと立ち上がった。
そして、ふと、あることを思い出した。
一週間前、部屋の掃除をしていた時に、どこかに失くしてしまった、小さなイヤリング。それは、数年前に亡くなった祖母が、彼女に遺してくれた、たった一つの形見だった。
家中を、半狂乱になって探した。だが、どうしても見つからなかった。
もし。
もし、今の出来事が、本物だとしたら。
彼女は、目を閉じた。
そして、心の中で、強く、強く念じた。
(……あのイヤリングは、どこ……?)
その瞬間。
彼女の脳裏に、鮮明な「過去」が、まるで映画のように再生された。
それは、一週間前の、彼女自身の視点だった。
掃除機をかけながら、音楽を聴いていた自分。イヤホンのコードが、本棚の隅に引っかかる。その衝撃で、耳からイヤリングがぽろりと外れる。そして、小さな銀色の光が、放物線を描いて、誰も読まなくなった分厚い百科事典の、その隙間へと吸い込まれていく。
ああ、そうだ。
あんなところに。
栞は、目を開けた。
そして、まるで何かに導かれるかのように、本棚の一番下の段、その隅で埃をかぶっている古い百科事典のセットへと、手を伸ばした。
『世界大百科事典』の、『シ』と『ス』の間。
彼女は、その二冊の本を、ゆっくりと引き抜いた。
その、奥。
本棚の壁との、僅かな隙間。
そこに、小さな銀色の何かが、埃の中で微かな光を放っていた。
彼女は、震える指で、それをつまみ上げた。
間違いない。
祖母の、イヤリング。
彼女は、その小さな銀の輝きを、手のひらの上で、ただ呆然と見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
その声は、驚きと、喜びと、そしてこれから始まる自らの規格外の運命に対する、底知れない畏怖の色を、同時に含んでいた。
「――わーお。……本物だわ……」
それは、一人の内気な少女が、世界の全ての物語を「読む」力を手に入れた、あまりにも静かで、あまりにも個人的な、始まりの瞬間だった。
彼女の、そしてこの世界の、新たな物語の最初のページが、今、確かにめくられたのだ。