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番外編 神の悪戯と、残された記憶の欠片

 いえーい! みんな、見てるー!

 聞こえる? 聞こえてるよね? もちろん、聞こえてるはずだ。だって、僕がそう設定したんだから! いやー、前回はちょっとシリアスな雰囲気で終わらせちゃったけど、気にしないで! あれはあれ、これはこれ! 人生、楽しまなくっちゃ損損!


 さてと。君たちの退屈を何よりも憎み、最高のエンターテインメントを愛する隣人、邪神君だよ!

 いやはや、それにしても『転生林檎』シリーズ、僕の想像以上に面白い化学反応を見せてくれて、正直、大満足だったんだ。緑の林檎で現実逃避する金色の奴隷たち! 青い林檎で過去の栄光に浸る、滑稽な王様ごっこの市民たち! その果てに訪れる、緩やかで美しい人類の滅亡! うん、我ながら完璧な脚本だったと自負しているよ。


 だから、あの世界線は僕の中で、もう「完結済み」の傑作として永久保存版のフォルダにぶち込んでおいたんだ。めでたし、めでたしっと。


 だけどね。どんな傑作映画にも、編集でカットされた未公開シーンってのがあるだろ? 本編のテンポを考えると入れられなかったけど、これはこれでまあまあ味があるよね、みたいなさ。

 今回語るのは、まさにそんなお話。

 あの美しく狂った『転生林檎』の世界線の中で、無数に生まれた悲劇と喜劇の、そのほんの片隅で起きていた、一つの小さな、小さなラブストーリー。

 あまりにも地味で、あまりにも個人的で、あまりにも世界に何の影響も与えなかったから、僕の最終編集版ではバッサリとカットさせてもらった、いわば「つまらない失敗作」さ。


 でもまあ、せっかくだからね。この放送を律儀に見てくれている熱心な観客である君たちだけに、こっそり見せてあげよう。

 これは、世界にとっては呪いでしかなかったあの青い林檎が、たった二人にとっては祝福であったという、あまりにも三流で、陳腐で、そしてほんの少しだけ、まあ、ほんのちょっぴりだけ、綺麗だったかもしれない、そんなお話。

 じゃあ、始めようか。

 これは、「なかったこと」になった、ささやかなこぼれ話さ。



 佐伯健人さえき けんとの人生は、灰色だった。

 それは、彼が特別不幸だったからではない。むしろ、彼はこの上なく平凡で、平均的で、だからこそ救いようのない灰色の日々を生きていた。都内の三流大学を可もなく不可もなく卒業し、中小の食品メーカーの営業部に就職して三年目。満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、減っていく預金残高と増えていく腹回りの脂肪に、毎晩安物の発泡酒を飲みながらため息をつく。そんな、ありふれた日本の若者の一人だった。


 彼の心を蝕んでいたのは、具体的な不満ではなかった。それは、もっと漠然とした、しかし魂の芯まで凍らせるような巨大な「喪失感」だった。

『黄金の一ヶ月』。

 数年前、世界が経験したあの奇跡の記憶。言語の壁が消え、世界中の人々の魂が剥き出しで繋がり合った、あのあまりにも甘美な祝祭。健人もまた、あの祝祭の熱狂の中にいた。オンラインゲームで知り合った世界中の仲間たちと、まるで長年の親友のように笑い合い、語り合った。あの時、確かに彼の灰色だった世界は、極彩色の光に満ちていたのだ。

 だが、楽園は奪われた。

 後に残されたのは、完璧な相互理解の記憶という、あまりにも残酷な亡霊。その亡霊が、今のこの言葉の通じない、もどかしい現実をより一層色褪せたものにしていた。


 そして世界は、新たな狂気に包まれた。『転生林檎』。

 健人の会社の同僚たちも、その熱狂の虜だった。昼休みになれば、「俺の前世は古代ローマの剣闘士だった」「私の前世は平安時代の女流歌人よ」などと、目を輝かせながら語り合っている。彼らは皆、灰色の現在から逃げるように、金色の過去の記憶にその身を浸していた。

 健人は、その光景を冷めた目で見ていた。馬鹿馬鹿しいと、彼は思った。過去がどうであれ、今を生きるしかないじゃないか。

 そう、頭では分かっていた。だが、彼の魂のどこかが、その禁断の果実を求め始めていることにも、彼は気づいていた。

 この、どうしようもない喪失感を埋めてくれる何かがあるのなら。


 その日、彼は会社の帰り道、半ば自暴自棄な気持ちで駅前の小さな果物屋に立ち寄った。邪神が告げた「赤い林檎を食べた時にランダムで効果が出る」という言葉。馬鹿げている。宝くじよりも低い確率の、神の悪趣味なギャンブル。だが、もう何かにすがるしか、彼には残されていなかった。


「……すみません。この林檎、ここにあるだけ全部ください」


 彼の鬼気迫る様子に、店の主人は訝しげな顔をした。

「……にいちゃん、そんなに買い込んでどうするんだい? 家族でも多いのかい?」

 健人は答えず、有り金のほとんどを叩いて、ずしりと重い林檎の袋を抱えて店を出た。


 その夜、健人は自室の安アパートで、一人その大量の赤い林檎の山と向き合っていた。

 本当に、こんなもので何かが変わるのか?

 彼は自嘲気味に笑った。だが、もう引き返せなかった。

 彼は意を決すると、その中の一つを手に取り、がぶりと歯を立てた。

 シャリ、という小気味良い音。甘酸っぱい、ありふれた林檎の味。

 何も起きない。

 彼は機械のように、二つ、三つと食べ続けた。胃が膨れ、顎が疲れてくる。虚しさと自己嫌悪が心を支配し始めた。

(……やっぱり、馬鹿げている)

 彼が諦めかけ、最後の一つだと手に取った、十個目の林檎。

 いつものように、それに歯を立てた、その瞬間。


 シャリ、という音までは同じだった。

 だが、口の中に広がったのは、これまで味わったことのない、脳が痺れるような芳醇な果汁だった。赤い林檎の味が、口の中で未知の青い果実の味へと「変換」されたのだ。

「――これか!」

 彼の意識は、現実から解き放たれた。


 熱。

 血の匂い。

 火薬の煙。

 そして、すぐ側で響き渡る、男たちの絶叫。

 彼が次に目を開けた時、そこに日本の安アパートの天井はなかった。

 空は、鉛色だった。湿った土と腐敗した草いきれの匂いが、鼻をついた。彼の身体は、灰色の、擦り切れた軍服に包まれていた。手には、ずしりと重いマスケット銃が握られている。


「ジョナサン! 伏せろ!」


 誰かが、彼の名前を叫んだ。ジョナサン。そうだ、それが俺の名前だ。

 次の瞬間、彼のすぐ側をミニエー弾が甲高い風切り音を立てて通り過ぎ、背後の樫の木にめり込んだ。

 ここは、戦場だ。

 1863年、アメリカ合衆国、ペンシルベニア州、ゲティスバーグ。

 俺は、アラバマから来た南軍の、まだ19歳の伍長、ジョナサン・リー・カーター。


 記憶の洪水が、彼を襲った。

 故郷の綿花畑の匂い。愛する家族の笑顔。この戦争がすぐに終わると信じて、仲間たちと意気揚々とバージニアの野を駆け巡った、あの遠い日々。

 だが、現実は地獄だった。

 北軍の圧倒的な物量の前に、仲間たちは次々と斃れていった。昨日まで共に歌っていた親友のビリーが、腹に砲弾の破片を受けて、内臓をぶちまけながら死んでいった。

 恐怖。絶望。そして、故郷への狂おしいほどの望郷の念。

 その全てが、佐伯健人という平凡な日本の青年の魂に、現実の体験として刻み込まれていく。


 その時だった。

「――突撃ィィィィィ!」

 上官の、ヒステリックな絶叫が響き渡った。

 無謀な突撃。それは、自殺行為だった。

 だが、ジョナサンは走った。仲間たちと共に、雄叫びを上げながら、北軍の陣地へと向かって。

 そして。

 腹部に、焼けるような衝撃。

 彼は、自分が撃たれたことに、すぐには気づかなかった。ただ、足から力が抜け、湿った地面に崩れ落ちた。

 空が、ゆっくりと回転している。

 仲間たちの声が、遠のいていく。

 ああ、俺はここで死ぬのか。

 母さんの、アップルパイが、もう一度食べたかったな。

 彼の意識は、急速に闇へと沈んでいった。


 次に彼が意識を取り戻した時、彼は血と汚物にまみれた、野戦病院の粗末なテントの中にいた。

 腹の傷は、絶えず鈍い痛みを放っている。もう、助からないだろう。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 ただ、静かな諦観が彼を包んでいた。

 その時、誰かが彼の額に冷たい布を置いてくれた。

 彼は、ゆっくりと瞼を開いた。

 そこにいたのは、敵であるはずの、北軍の青い軍服を着た、一人の若い看護師だった。

 年の頃は、彼と同じくらいだろうか。栗色の髪を無造作にまとめ、その顔は硝煙と疲労で汚れていた。だが、その青い瞳だけが、まるで澄み切った湖のように、静かに、そして深く、彼の魂を覗き込んでいる。

 その瞳には、敵意も、侮蔑もなかった。

 そこにあったのは、ただ、目の前で消えゆく一つの命に対する、純粋な慈愛と、そして深い悲しみの色だけだった。

「……水……」

 ジョナサンは、最後の力を振り絞って呟いた。

 看護師は、静かに頷くと、水筒を彼の唇にそっと近づけてくれた。

 乾ききった喉を、命の水が潤していく。

 ありがとう。

 彼はそう言いたかったが、もう声は出なかった。

 ただ、彼はその青い瞳を、見つめ続けた。

 この地獄のような戦場で、最後にこんなにも美しいものを見ることができた。

 それだけで、もう十分だった。

 彼は、ゆっくりと目を閉じた。

 その、慈愛に満ちた青い瞳の記憶だけを、胸に抱いて。



 エミリー・ジェンキンスは、孤独だった。

 アメリカ、オハイオ州の小さな田舎町で生まれ育った彼女にとって、東京という街は、あまりにも巨大で、あまりにも刺激的で、そしてあまりにも孤独な迷宮だった。

 早稲田大学に交換留学生としてやってきて、半年。彼女は、この国の美しい文化を愛していた。古都の静謐な寺院も、若者たちの奇抜なファッションも、繊細で奥深い和食の味も、全てが彼女の知的好奇心をくすぐった。

 だが、彼女とこの国との間には、常に分厚く、そして透明な壁が存在していた。

 言葉の壁。

『黄金の一ヶ月』の記憶が、その壁をより一層高く感じさせていた。あの時、彼女は近所の商店街のおじいちゃんやおばあちゃんたちと、まるで孫娘のように笑い合えた。だが今は、ただぎこちない笑顔で会釈を交わすだけ。

 そんな孤独を埋めるように、彼女は最近、日本で流行しているという『転生林檎』に手を出してしまった。


 彼女が体験した過去生は、一つではなかった。古代ギリシャの女哲学者だったこともあれば、中世フランスの農民だったこともあった。そのどれもが刺激的だったが、彼女の魂に深く刻み込まれたのは、たった一つの、あまりにも悲しい記憶だった。

 彼女は、北軍の看護師、エリザベス・ホワイトだった。

 マサチューセッツの敬虔な家庭に生まれ、この国を一つに保つという崇高な理想を胸に、志願して戦場の病院へと赴いた。

 だが、そこで彼女が見たのは、理想とは程遠い、ただの地獄だった。

 毎日、何十人という若い兵士たちが、手足を失い、腹を裂かれ、そして彼女の腕の中で息絶えていく。敵も味方もなかった。ただ、母の名を呼びながら死んでいく、哀れな少年たちがいるだけだった。

 彼女の心は、日に日に摩耗していった。

 そんなある日、彼女は一人の敵兵を看取った。

 アラバマ訛りの英語を話す、まだあどけなさの残る南軍の少年兵。

 彼は、何も言わなかった。ただ、死の間際、その澄み切った茶色の瞳で、じっと彼女を見つめていた。その瞳の奥には、恐怖も憎しみもなかった。ただ、深い感謝と、そして静かな諦観の色だけが宿っていた。

 彼の、そのあまりにも美しい最期の眼差し。

 それは、エリザベスの魂に、決して消えることのない烙印のように焼き付いた。

 戦争が終わった後も、彼女は生涯独身を貫いた。何度も求婚されたが、彼女の心は、常にあの名も知らぬ敵兵の少年の元にあったからだ。

 その記憶を取り戻して以来、エミリーは、東京の雑踏の中に、時折あの少年兵の面影を探してしまうようになっていた。馬鹿げていると、分かっているのに。


 その日、彼女は渋谷のスクランブル交差点の真ん中で、立ち尽くしていた。

「王様ごっこ」に興じる、狂った若者たち。自らを「元・忍者」だと名乗る集団が、アクロバティックな動きで信号機の上を飛び交っている。自らを「元・花魁」だと信じる女性たちが、派手な着物で闊歩している。

 異国の狂気。

 そのカオスな光景に、彼女は眩暈を覚えていた。

 その時だった。

 雑踏の向こう側、巨大なビルのスクリーンを見上げている一人の青年と、目が合った。

 ごく普通の、どこにでもいるような日本の青年。

 だが、その瞳。

 その、どこか憂いを帯びた、静かな茶色の瞳。

 その瞳を見た瞬間、エミリーの心臓が、時を忘れたかのように、大きく、強く、打った。

(……まさか……)

 青年もまた、彼女の青い瞳を見て、はっとしたように動きを止めていた。

 周囲の狂騒が、嘘のように遠のいていく。

 時間と空間が歪み、世界にはただ二人だけしか存在しないかのような、奇妙な感覚。

 150年の時を超えて。

 二つの魂は、再び互いを見つけ出してしまったのだ。


 そこからの日々は、もどかしく、そして奇跡に満ちていた。

 健人は、勇気を振り絞って彼女に話しかけた。エミリーもまた、彼のその不器用なアプローチに応えた。

 言葉は、通じない。

 二人の間には、常にスマートフォンの、あの無機質で、どこか間抜けな翻訳アプリの合成音声が介在した。

『Hello. My name is Emily.』

「こんにちは。わたしのなまえは、えみりー、です」

『……俺は、佐伯健人です』

「かれは、さえきけんと、です」

 それは、あまりにもぎこちなく、あまりにも不完全なコミュニケーション。

 だが、彼らは諦めなかった。

 健人は、本屋で英語の初心者向けの会話帳を買い込んだ。エミリーは、大学の図書館で日本語の単語帳を借りてきた。

 二人は、公園のベンチで、カフェの片隅で、身振り手振りを交え、つたない互いの国の言葉を必死に紡いだ。

 その「もどかしさ」が、不思議と心地よかった。

『黄金の一ヶ月』の、あの完璧すぎる相互理解。それは、確かに素晴らしかった。だが、そこには「努力」がなかった。

 今、二人がしていることは、その対極だった。

 相手が何を言っているのか、何を考えているのか。その眉の動き、声のトーン、瞳の奥の僅かな色の変化。その全てに神経を集中させ、必死に相手を理解しようと努力する。

 その、あまりにも人間的な営みの中にこそ、本当の愛が育まれるのだと、二人は気づき始めていた。

 時折、ふとした瞬間に、前世の記憶がシンクロした。

 健人が、何気なく遠くを見つめる、その横顔。それは、故郷を想うジョナサンの、あの物悲しい表情と瓜二つだった。エミリーは、胸が締め付けられるのを感じた。

 エミリーが、困ったように微笑む、その表情。それは、血と死の匂いに満ちた野戦病院の中で、唯一の癒しだったエリザベスの、あの聖母のような微笑みそのものだった。健人は、泣き出しそうになるのを必死に堪えた。

 彼らは、まだ互いの前世について、何も語り合ってはいない。

 だが、魂は既に知っていた。

 自分たちは、150年前に出会い、そして死によって引き裂かれた、運命の二人なのだと。



 世界は、日に日に狂気を増していった。

「王様ごっこ」は、もはや「ごっこ」では済まなくなっていた。

「我こそは、チンギス・ハーンの再来なり!」と叫ぶ元・トラック運転手が、仲間を集めて武装し、地方の小さな町を占拠した。

「私は、クレオパトラ。この美貌こそが、世界を支配するに相応しい」と嘯く元・インフルエンサーが、信者たちから集めた金で私設軍隊を作り、夜の街の新たな女王として君臨し始めた。

 社会機能は、麻痺した。

 IAROも、黒田も、もはやその狂気の奔流を止める術を持たなかった。

 そんな崩壊していく世界の中で、健人とエミリーの関係だけが、唯一の正気であり、聖域だった。

 彼らは、互いの存在の中に、この狂った現実から逃れるための、小さな、しかし確かなシェルターを見出していた。


 そして、その日は来た。

 二人は、上野の国立博物館を訪れていた。特別展、『アメリカの歴史 — 自由と分断の軌跡』。

 その、南北戦争のコーナー。

 ガラスケースの中に、一枚の色褪せた写真が展示されていた。

 ゲティスバーグの戦いで、北軍が設営した野戦病院の、記録写真。

 その、無数の負傷兵と看護師たちが写っている写真の、そのほんの片隅。

 二人は、それを見てしまった。

 写真の隅に、担架で運ばれていく、一人の若い南軍兵士の、ぼやけた姿。

 そして、その彼の額に、そっと手を当てている、一人の若い看護師の、横顔。

 顔は、不鮮明だった。

 だが、二人の魂は、悲鳴を上げた。

 あれは、俺だ。

 あれは、私だ。

 記憶が、完全に繋がった。

 健人は、自分がジョナサンであり、目の前のこの美しい女性が、自分を看取ってくれたあの天使、エリザベスであることを、完全に確信した。

 エミリーは、自分がエリザベスであり、目の前のこの不器用で優しい青年が、あの日、腕の中で静かに息を引き取った、あの忘れえぬ少年兵、ジョナサンであることを、完全に確信した。

 二人は、どちらからともなく、互いの手を取り合った。

 言葉は、いらなかった。

 ただ、涙が溢れてきた。

 150年分の、会いたかったという想いが、涙となって流れ落ちていった。


 その夜、二人は東京タワーの展望台にいた。

 眼下には、狂った王様たちが支配する混沌の街が広がっている。あちこちで、小さな火の手が上がり、サイレンの音が微かに聞こえてくる。

 だが、二人の目に、その地獄絵図は映っていなかった。

 彼らは、ただ互いを見つめ合っていた。


「……世界は、狂ってしまった」


 健人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして、不完全な翻訳アプリに、ゆっくりと、しかしはっきりと日本語を打ち込んだ。

 その合成音声が、ぎこちない英語を再生する。

『The world has gone mad.』

 エミリーは、静かに頷いた。

 そして、彼女もまたスマートフォンに、英語を打ち込んだ。

『But, I am happy.』

「しかし、わたしは、しあわせ、です」


 健人は、続けた。


「この林檎のせいで、たくさんの人が不幸になった。僕も、ずっとこの林檎を呪っていた。……でも、今は違う」

『Because of this apple, many people became unhappy. I, too, had been cursing this apple. ...But, not anymore.』


「この林檎のおかげで、僕は150年ぶりに、君にもう一度会えたんだから。……だから、感謝しているんだ」

『Because, thanks to this apple, I was able to meet you again after 150 years. ...So, I am grateful.』


 その、あまりにも不器用で、あまりにも真っ直ぐな言葉。

 エミリーの青い瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。

 彼女は、健人の手を強く、強く握りしめた。

 そして、彼女はアプリを使わなかった。

 彼女は、この数ヶ月、必死に覚えた、たどたどしい日本語で、一生懸命に想いを伝えた。


「……わたしも。……わたしも、です」

「この、くるったせかいで……あなたを、みつけられた」

「それだけで……わたしのじんせいは……もういちど、すくわれた」


 その、一言一言を、健人は噛みしめるように聞いた。

 もう、翻訳は必要なかった。

 彼の魂は、彼女の魂の言葉を、完璧に理解していた。


 二人は、崩壊していく世界の夜景を背に、静かに寄り添った。

 世界が、どうなろうとも、もう関係ない。

 自分たちは、この再会という、たった一つの奇跡を胸に抱いて、生きていく。

 それだけで、十分だった。

 それは、あまりにも個人的で、あまりにもささやかな、しかし何物にも代えがたい、完璧なハッピーエンドだった。



「――はい、カット、カットー!」


 というわけで、どうだったかな?

 なかなか、感動的なラブストーリーだっただろ?

 いやー、僕もね、観測してて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、目頭が熱くなっちゃったよ。嘘だけど。


 でもさあ。

 やっぱり、これ、つまらないんだよねえ。

 だってさあ、世界がこんなに面白おかしく崩壊していってるっていうのに、当の本人たちは「二人だけの世界が幸せなら、それでいいです」みたいなさ。物語としては、スケールが小さすぎるじゃないか。自己完結しちゃってる。

 もっとこう、世界を巻き込んで、壮大な悲劇の主人公になってくれないと、観てるこっちとしては、盛り上がらないわけよ。


 だから、この二人の物語は、僕の最終編集版では、やっぱりカット。

 この『転生林檎』の世界線そのものが、人類が緩やかに滅びるだけの、締まりのないバッドエンドになっちゃったしね。

 というわけで、この歴史は、やっぱり「失敗作」だ。


 リセットボタン、ポチっとな!


 悪いね、健人君、エミリー君。

 君たちの、その150年越しの恋物語も、今この瞬間、全て「なかったこと」になりましたー!

 おめでとう!


 ……と、まあ、ここで終わらせるのが、いつもの僕のやり方なんだけどさ。

 なんだろうねえ。

 あの二人の、あのあまりにも真っ直ぐな瞳。

 あれを思い出すと、なんだか、ほんの少しだけ、ほんのちょっぴりだけ、胸のあたりがチクっとするっていうかさ。


 ……まあ、気のせいか!


 でも、まあいいや。

 たまには、サービスしてあげようかな。

 今回のリセットは、特別仕様だ。


 僕は、彼らの魂の、その最も深い場所に、ほんの僅かな、しかし決して消えることのない「記憶の残り香」だけを、残しておくことにした。

 それは、具体的な記憶ではない。

 ただ、説明のつかない、懐かしい感覚。

 どこかで会ったことがあるような、既視感。

 相手の瞳の奥に、なぜか吸い込まれそうになる、魂の引力。

 そんな、詩的な、曖昧な、ささやかな呪いだけをね。


 もしかしたら。

 もしかしたら、次に僕が作り出す、全く新しい、まっさらな世界のどこかで。

 平凡な日本の青年と、アメリカから来た留学生が、また偶然、雑踏の中で出会うかもしれない。

 そして、理由も分からず、互いに強く惹かれ合うかもしれないね。

 まあ、その保証は、どこにもないけどさ!

 でも、もしそうなったら。

 その時は、今度こそ、もう少しだけマシな、三流じゃないハッピーエンドを、二人で掴み取ってくれたまえよ。


 じゃ、今回のお話は、これでおしまい!

 めでたし、めでたしっと!

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