第58話 三流のハッピーエンド
世界は、静かな絶望の中にいた。
『黄金の一ヶ月』がもたらした、あの完璧な相互理解の記憶。それはもはや祝福ではなく、決して癒えることのない幻肢痛のように、人類の集合的無意識を苛み続けていた。
IAROの黒田たちは、来るべき「カオス同盟」との全面戦争に備え、疲弊しきった世界の秩序をかろうじて維持している。人々は、失われた楽園の幻影に焦がれながら、ただ色褪せた日常を繰り返すだけ。
希望は、どこにもなかった。
そのあまりにも重く、澱んだ空気の中で。
世界中の全てのスクリーンが、何の前触れもなく、再びあの道化師のアバターにジャックされた。
『――いえーい! 邪神君の放送、開始だよー!』
そのあまりにも軽薄で、あまりにも場違いな明るい声が、沈黙していた世界に響き渡る。
SNSのコメント欄が、憎悪と諦観と、そしてほんの少しの期待が入り混じった、複雑な感情の洪水で埋め尽くされた。
『いやー、君たちは驚くほど愚かだねえ!』
邪神は開口一番、全世界の人間をそう罵った。
『いや、こっちの話だけど。まあ、僕がちょっとやりすぎちゃったのが悪いから、あんまり文句は言えないんだけどさあ。でも、それにしてもだよ! 君等、欲望の制御が出来なすぎ! ちょっと素晴らしい体験をさせてあげただけで、すぐに腑抜けみたいになっちゃうんだから! まるで知性のないサルじゃないか!』
その、あまりにも率直な罵倒。
人々は、怒りを通り越して、もはや呆然とその言葉を聞いているだけだった。
『えー、まあ愚痴はこれくらいにして。……うん、まあごめんね? 僕のせいで、君たちが今こんな無気力で死んだ魚みたいな目をしていることは、ちゃんと理解してる。だから今日は、そのお詫びと新しいゲームのお知らせにやってきました!』
お詫び。
その言葉に、世界が僅かにざわめいた。
この悪魔が、まさか。
『テンション低いなあ! だから! 今日は、転生林檎をみんなに紹介したいと思います!』
『えー、転生林檎(緑)です!』
画面に、CGで作られた美しい緑色の林檎が映し出される。
だが、邪神の次の言葉は、彼らの予測を裏切るものだった。
『なんとこの新しい転生林檎(緑)! 一口かじれば、その人物に欠けてるか、欲しい性質の人生を体験出来るという、凄い林檎でーす!』
欠けている性質。欲しい能力。
その言葉に、人々はごくりと喉を鳴らした。
『例えば! 英語が苦手な君が食べれば、アメリカのエリートビジネスマンとしての人生を体験して、ビジネス英会話をマスターできる!』
『絵の才能がない君が食べれば、ルネサンス期の天才画家としての人生を体験して、その技術と感性を身につけることができる!』
『そう! これはもはや麻薬じゃない! 究極の自己改革ツールなのさ! どうだい? 素晴らしいだろ?』
自己改革。
そのあまりにも前向きで、建設的な響き。
人々は、まだ信じられずにいた。
『ただし!』
邪神は、楽しそうに指を一本立てた。
『そんな便利なツール、何回も使えたらゲームがつまらなくなるだろ? だから効果は、一人一回まで! 人生でたった一度きりの奇跡だ。そこがポイントね』
『そして入手方法だけど、林檎収穫の時、100分の1の確率でこの転生林檎(緑)に変換されるように、世界の理を書き換えておいた!』
100分の1。
それは、絶望的ではない。誰もが、もしかしたらという希望を抱ける、絶妙な確率だった。
『だから、喧嘩しないようにね? マジでさあ! 血で血を洗うような醜い争いは、僕ももう見たくないんだから! リンゴ農家の皆さんも、暴利を得ようとしないで、ちゃんと市場に流通させて、みんなでハッピーになろうよ! ね!』
その、あまりにも性善説に基づいた無責任な呼びかけ。
それは、あまりにも白々しかった。
『じゃあ、今回の放送はこれくらいで! みんな仲良く、自分磨き頑張ってねー! バイバイ!』
放送は、終わった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして全世界の人々の心に再び灯された、一つの小さな、しかし極めて危険な「希望」の炎だけだった。
青森県、弘前市。
木村健一は、その邪神の放送を自宅の古いテレビで見ていた。
彼の心は、晴れなかった。
最愛の妻、ドイツ人のクラウディアとの関係は、冷え切っていた。
『黄金の一ヶ月』。
あの奇跡の日々。二人は、生まれて初めて魂のレベルで互いを理解し合えた。愛し合えた。
だが、その楽園は奪われた。
後に残されたのは、失われた完璧なコミュニケーションの記憶。そのあまりにも美しい記憶が、今のこの言葉の通じない、もどかしい現実をより一層残酷なものにしていた。
二人の間には、もはや会話はなかった。ただ、互いを傷つけないための優しい沈黙が横たわっているだけ。
健一は、もう限界だった。
このリンゴ畑も、家も、全て売り払い、一人でどこか遠い場所へ行ってしまおうか。
そんな絶望的な考えが彼の頭をよぎった、まさにその時だった。
邪神の放送が、始まったのだ。
『――欠けている性質の人生を体験できる』
『――一人一回まで』
『――100分の1』
健一の心臓が、激しく高鳴った。
馬鹿な。
信じるものか。
あの悪魔の言葉を。
だが。
もし。
もし、本当なら。
自分に欠けているもの。
それは、ただ一つ。
クラウディアを、彼女の魂の言葉で理解するための、「言葉」と「心」。
彼は次の日、まるで何かに取り憑かれたかのように、一人で広大なリンゴ畑の収穫を始めた。
一つ一つ、丁寧に。祈るように。
そして収穫を始めてから三日目の朝。
彼は、ついに見つけてしまった。
朝露に濡れて、まるで夜明けの星のように輝く、一粒のみどりの果実を。
彼の手は、震えていた。
これを食べれば、あるいは。
だが、もしこれもまた神の罠だったら? 廃人になってしまったら?
恐怖と希望が、彼の心の中で激しくせめぎ合った。
彼はその林檎をポケットに隠し、一日中悩み続けた。
そしてその夜。
リビングで一人静かに窓の外を見つめているクラウディアの、そのあまりにも寂しげな後ろ姿を見た瞬間。
彼の迷いは、消えた。
彼は、覚悟を決めた。
彼は台所でそのみどりの林檎を取り出した。
そして一思いに、その果実に歯を立てた。
健一の意識は、光に包まれた。
そして彼が次に目を開けた時。
彼は、日本のリンゴ農家、木村健一ではなかった。
彼は、クラウス・シュナイダーだった。
ドイツ、ハイデルベルク大学で日本近代史を専攻する、貧しい、しかし情熱に満ちた大学院生だった。
彼の下宿は、屋根裏の小さな一室。窓からは、ネッカー川と美しい古城が見える。
彼の周囲には、常にドイツ語が飛び交っていた。
最初は戸惑った。だが不思議なことに、その言葉の意味が分かる。いや、分かるというレベルではない。その言葉が生まれてきた歴史的、文化的背景、その全てが、まるで最初から自分の知識であったかのように魂に刻み込まれていた。
彼は、図書館の膨大な蔵書に没頭した。カントを読み、ヘーゲルを読み、ゲーテの詩に涙した。
彼はゼミで、他の学生たちと夜を徹して議論を交わした。なぜ、ドイツは二度も世界大戦を引き起こしたのか。なぜ、日本はあれほどまでに急速な近代化を遂げることができたのか。
彼は、学んだ。
彼は、理解した。
言葉とは、ただの記号ではない。
それは、その国の人々が何百年、何千年という時間をかけて築き上げてきた、血と涙と、そして誇りの結晶なのだと。
彼は、ハイデルベルクの街を愛した。
彼は、ドイツという国を愛した。
そして彼は、恋に落ちた。
相手は、日本からの交換留学生。黒い髪が美しい、物静かな女性だった。
彼は彼女にドイツの文化を教え、そして彼女から日本の文化を学んだ。
彼は、知った。
日本人が決して口にはしない、「以心伝心」という文化の美しさと、そしてそのもどかしさを。
ドイツ人がいかに論理と理性を重んじ、そしてその鎧の下に、いかに繊細でロマンティックな魂を隠しているかを。
二人は、互いの違いを愛した。
そして、その違いを乗り越えるために、必死に言葉を紡いだ。
それは、『黄金の一ヶ月』のような、完璧な相互理解ではなかった。
それは、誤解とすれ違いの連続だった。
だが、その不完全さの中にこそ、本当の愛が宿ることを彼は知った。
それは、数年間にわたる濃密な人生だった。
それは、木村健一が最も欲していた、「他者を理解しようと努力する知性」と、「その努力を諦めない愛情」に満ちた人生だった。
「――あなた……? あなた、どうしたの……?」
健一は、はっと我に返った。
目の前には、心配そうな顔をした妻のクラウディアがいた。
彼は、台所の床に座り込んでいたらしい。手には、一口だけかじられたみどりの林檎が握られていた。
「……クラウディア……」
健一は、呟いた。
そして彼は、自らの口からこぼれ落ちた言葉に、自分自身が最も驚いていた。
それは彼が一度も口にすることができなかった、完璧な発音のドイツ語だった。
「――Es tut mir so leid, mein Schatz. Ich habe dich so lange allein gelassen.(本当にすまなかった、僕の宝物。君を、こんなにも長い間一人にさせてしまって)」
クラウディアの青い瞳が、信じられないというように大きく見開かれた。
「……健一……? あなた、今……。ドイツ語を……?」
「ああ」
健一は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、妻の両手を優しく握りしめた。
彼の脳内には今、二つの記憶が同居していた。日本のリンゴ農家としての記憶と、ドイツの貧しい学生としての記憶。
だが、それは混乱ではなかった。
それは、彼の世界を二倍に広げてくれる、素晴らしい贈り物だった。
彼は今、クラウディアのその驚きと困惑に満ちた瞳の奥にある本当の感情を、手に取るように理解することができた。
それは、孤独と悲しみ。そして、それでもなお夫を愛し続けてきた、その健気な魂の色だった。
「君がなぜ、いつも窓の外を見てため息をついていたのか。今なら、分かるよ。君は、故郷のハイデルベルクの森の匂いを、思い出していたんだね」
「……え……?」
「君が僕の作る味噌汁を飲む時に、いつも少しだけ悲しそうな顔をしていた理由も分かる。君のお母さんが作ってくれた、あのジャガイモのスープの味には敵わないからだ」
「……なんで……。なんで、あなたがそれを……」
クラウディアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
健一は、その涙を指で優しく拭った。
そして彼が夢の中で何度も練習した、最も優しい響きを持つドイツ語で言った。
「――Weil ich dich liebe. Und weil ich von heute an den Rest meines Lebens damit verbringen werde, dich wirklich zu verstehen.(なぜなら、君を愛しているからだ。そして今日から、僕の残りの人生の全てを、本当の意味で君を理解するために使いたいからだ)」
その、純粋な魂の言葉。
クラウディアは、健一の胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて泣いた。
健一は、その小さな体を強く、強く抱きしめた。
二人の間にあった氷の壁が、完全に溶けて消え去った瞬間だった。
それは、神が与えた完璧な奇跡ではなかった。
それは、一人の男が自らの意志で掴み取った、不完全で、しかし何よりも尊いハッピーエンドだった。
木村健一の身に起きた、そのささやかな奇跡。
そのニュースはIAROの厳格な情報統制を潜り抜け、口コミとSNSを通じて、瞬く間に全世界へと広がっていった。
『転生林檎は、本物だった』。
『それは、希望だった』。
人々は、リンゴを求め始めた。
一人、一回だけ。
人生でたった一度きりの、自己変革のチャンス。
人々は、その貴重な一回を何に使うべきか、真剣に悩み、そして考え始めた。
ある内気な青年は、林檎を食べて社交的な人気者の人生を体験し、翌日から積極的に人々と関われるようになった。
ある頑固な職人は、林檎を食べて柔軟な発想を持つ若き芸術家の人生を体験し、自らの伝統と革新を融合させた、新たな傑作を生み出した。
世界中で、小さな、しかし確かな前向きな変化の花が咲き始めた。
その全ての光景を。
東京の安アパートの一室で、空木零はモニター越しに眺めていた。
『――いやー、ハッピーエンドで良かった良かった』
その、あまりにも棒読みな祝福の言葉。
『やっぱり、バッドエンドより三流のハッピーエンドだよね!』
その一言は、世界中に放送された。
だが、そのあまりにも難解で、あまりにも悪意に満ちた皮肉の本当の意味を、理解できた者はまだ誰もいなかった。
人々はただ、神が自分たちの幸福を祝福してくれたのだと、信じて疑わなかった。
そして、その穏やかな誤解の中で、世界はしばしの平和な眠りについた。