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第57話 神の誤算と、世界リセットボタン

 世界は、美しく狂っていた。

 空木零は、自室の壁一面を埋め尽くすモニターに映し出されたその完璧なまでの地獄絵図を、腹を抱えて眺めていた。

 もはや、笑いが止まらなかった。床を転げ回り、涙を流し、呼吸が苦しくなるほど、彼はただひたすらに笑い続けていた。


「はは……あっははははは! 素晴らしい! 最高だよ、君たち! 僕の想像を、遥かに超えてきてくれたじゃないか!」


 彼のモニターには、彼が作り出した二種類の「林檎」によって、完全に崩壊した人類の末期の姿が映し出されていた。


 緑の林檎――『別の人生』を体験する、究極の麻薬。

 それを手に入れることのできた富裕層たちは、もはや現実にはいなかった。彼らは、豪華なペントハウスやシェルターの中で、ただ植物のように横たわっていた。その虚ろな瞳は天井を見つめているが、その魂は自らが望んだ完璧な夢の世界を、永遠に彷徨っている。彼らはもはや、食事も排泄も、生命維持装置に管理されるだけの生きた屍だった。


 青い林檎――『過去の転生』を体験する、禁断の果実。

 それを口にしてしまった大多数の人々は、狂っていた。

 ニューヨークのタイムズスクエア。そこでは、「我こそは転生したアーサー王なり!」と叫ぶ元・会計士の男が、ダンボールの鎧を身につけ、交通標識をエクスカリバーに見立てて振り回していた。そして、その彼の周りには、「我が王!」と叫びながらひれ伏す、何百人という「元・円卓の騎士」たちがいた。

 パリのルーブル美術館の前では、「我はレオナルド・ダ・ヴィンチの魂を継ぐ者」と、「我こそはミケランジェロの生まれ変わり」を自称する二つの芸術家集団が、互いの芸術性の優劣を巡って絵の具をぶつけ合い、殴り合いの大喧騒を繰り広げていた。

 世界は、巨大な精神病棟と化した。

 誰もが灰色の現実を呪い、金色の過去の記憶にその自我を乗っ取られていた。

 もはや、国家も、経済も、社会も機能していない。

 ただ、狂った王様たちが、自らの小さな王国で滑稽な戦争ごっこを繰り広げているだけ。

 それは、空木零がこれまで観測してきたどの地獄よりも独創的で、芸術的で、そして最高に面白い光景だった。


「ああ、面白い。面白すぎる。暴力も、支配も必要なかったんだ。ただ、甘美な幻想と輝かしい過去の記憶。その二つを与えてやるだけで、人間はここまで見事に自滅してくれるんだからなあ!」


 彼は、モニターに映る黒田の姿を大写しにした。

 IARO本部の地下深く。黒田は、もう何日も眠っていないその顔で、ただ呆然と崩壊していく世界のデータを眺めているだけだった。もはや彼には、打つ手など何一つ残されていない。彼は、ただの観測者。この壮大な茶番劇の結末を見届けるだけの、特等席の囚人だった。


「良い顔をするじゃないか、黒田ちゃん。その全てを諦めきった絶望の顔! それが、見たかったんだよ!」


 空木零は、満足げに頷いた。

 彼の退屈は、完全に癒されていた。

 この美しい地獄が、永遠に続けばいい。

 彼は、心の底からそう願った。


 そして、いつものように軽い気持ちで、彼は自らの神の権能の一つ、『未来観測』を発動させた。

 この最高のエンターテイメントが、この先どのような、さらに面白い展開を見せてくれるのか。その「次回予告」を楽しむために。

 彼の脳内に、未来のあらゆる可能性が光の奔流となって流れ込んでくる。

 だが。

 その光の中に、彼が期待していた「続き」は、どこにも映っていなかった。

 そこに映し出されていたのは、ただ一つ。

 完全な、「無」だった。


 空木零の顔から、笑みが消えた。

 彼が手にしていたカップ焼きそばが、床に滑り落ちる。

「…………え?」

 彼の口から、素の声が漏れた。

「……え、おいおいおい……まじかよ……」


 彼の神の視界が捉えた未来。

 それは、今から約80年後。

 地球は、静かだった。あまりにも、静かすぎた。

 都市は機能を停止し、植物に覆われている。海は、どこまでも青く澄み渡っている。

 だが、そこに動くものの姿は一つもなかった。

 人類は、消えていた。

 誰一人、残らず。


「……なんで……? どうして……?」

 彼は、混乱した。

 彼の脳が、神の速さで因果律を逆算していく。

 そして、そのあまりにも単純で、あまりにも馬鹿馬鹿しい原因にたどり着いた。


 ――出生率。


 世界の出生率は、この数ヶ月で限りなくゼロに近づいていた。

 当たり前だった。

 緑の林檎に夢中な者たちは、もはや他者との物理的なコミュニケーションを必要としない。

 青い林檎に夢中な者たちは、もはや現世の人間を愛することができない。彼らの魂は、常に過去の栄光の中にいる。

 恋愛も、結婚も、子作りも、全ては色褪せた現実の些末事。

 誰も、未来を望まなかった。

 誰も、次の世代にこの狂った世界を引き継がせたいとは思わなかった。

 人類は、自らの意志で「繁殖」という最も根源的な生命活動を、放棄したのだ。


 そして、その緩やかな自殺の果てにあるのが、80年後の静かな滅亡。

 空木零は、戦慄した。

「……世界線がズレすぎて……。あの『アオイ・ホシノ』の未来に、繋がらなくなるじゃん……!」


 そうだ。

 彼には、お気に入りの「エンディング」があったはずだ。

 人類が、これから500年という長い長い暗黒期を経て、それでもなお自らの力で奇跡を取り戻すという、あの愚かで愛おしい物語。


「ていうか、人類破滅するじゃん! まずい、まずい、まずい! それは、まずい!」


 彼は、本気で狼狽していた。

 彼の最高のオモチャが。

 彼の唯一の退屈しのぎが。

 彼の許可なく、勝手に壊れてなくなってしまおうとしている。

 それだけは、許せない。それだけは、絶対にあってはならない。


「……リセットボタン、ポチするか……?」

 彼の脳裏に、最終手段がよぎる。

 だが次の瞬間、彼はその考えを打ち消した。

「……うーん……。林檎程度で人類が破滅かよ……。笑えないじゃん……」

 それは、神としての彼のプライドが許さなかった。

 あまりにも、あっけない。あまりにも、締まりのない結末。

 まるで自分が、ゲームバランスの調整に失敗した無能なゲームマスターだと認めるようなものではないか。


「ちょっと、ちょっと……えー……。転生林檎、俺の自信作だぜ……? そりゃないよ……」


 彼は、頭を抱えた。

 神が初めて、自らが作り出した混沌の後始末に、頭を悩ませた瞬間だった。


「……うーん、しょうがない……。転生林檎は、究極の『自己改革ツール』程度に効果を弱めて、配布し直すか……?」


 そうだ。

 この歴史は、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。

 これは、「失敗作」だ。

 こんなくだらないエンディングは、僕の美学に反する。

 彼は、ついに結論に達した。


「……まあ、しょうがないか」


 彼は、ふっと息を吐いた。

 そしてその顔には、いつもの悪戯っぽい、しかしどこか吹っ切れたような笑みが戻っていた。


「リセットボタン、ポチっと。……転生林檎騒動前まで、戻りましょうね!」


 彼は楽しそうに、歌うように言った。

 そして彼の目の前の空間に、一つの巨大な、真っ赤なボタンが出現した。

 そのボタンには、ただ一言。

『WORLD_RESET』と書かれていた。


 彼がそのボタンに指を触れさせた瞬間。

 世界から、音が消えた。

 そして、時間が逆流を始めた。


 東京のIARO本部。

 黒田は、モニターの前で頭を抱えていた。だが次の瞬間、彼の体の時間が巻き戻っていく。目の下の深い隈が薄れていき、白髪が黒々とその色を取り戻していく。彼の脳内の、この数ヶ月間の絶望の記憶が、猛烈な勢いで消去されていく。彼は、何が起きているのか理解できないまま、ただ意識が遠のいていった。

「……あれ……? 俺は、何を……?」

 彼の最後の思考は、それだった。


 世界中で、同じことが起きていた。

 木刀を振り回していた元・武士たちが、元の冴えないサラリーマンに戻っていく。

 狂ったように踊っていたカルトの信者たちが、元の平凡な主婦や学生に戻っていく。

 都市はその傷跡を修復し、崩壊した建物が元の姿へと再構成されていく。

 それは、ニューヨークの奇跡の比ではなかった。

 あの時は、「再生」だった。

 だが、これは「消去」だった。

 この数ヶ月間に起きた、全ての出来事。

 全ての喜び、全ての悲しみ、全ての狂気、全ての絶望。

 その全てが、まるで最初から「なかったこと」にされていく。

 それは、あまりにも静かで、あまりにも完璧な世界の死だった。


 空木零は、その全ての世界の記憶が、一つの光の奔流となって自らの魂へと吸収されていくのを感じていた。

 この壮大な茶番劇の記憶を持つ者は、もはやこの宇宙に彼一人だけ。


 そして、全ての世界の記憶を、完全に消去した。


 やがて、時間の逆流が止まる。

 世界は、静まり返っていた。

 空木零は、自室の窓の外を見た。

 そこには、何も変わらない退屈な日常の風景が広がっていた。

 時刻は、彼があの最悪の放送を始める、ほんの数分前。

 世界はまだ、「転生林檎」という言葉すら知らない。


「……ふう」


 空木零は、大きく伸びをした。

 まるで、少しだけ骨の折れる大掃除を終えたかのような、晴れやかな気分だった。


「いやー、危なかった、危なかった。僕の傑作シナリオが、台無しになるところだったよ」


 彼は、床に落ちていたカップ焼きそばを拾い上げ、ゴミ箱へと放り込んだ。

 そして、ポテチの封を開ける。


「さてと」


 彼は、楽しそうに鼻歌を歌い始めた。


「仕切り直しだ」


 神は、笑う。

 自らが犯した壮大な失敗すらも、次のエンターテインメントのためのただの布石に変えて。

 彼の退屈な日常は、今日もまた世界の無数の死と再生を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。

 世界は、リセットされた。

 だが、物語は決して終わらない。

 神が飽きる、その時まで。


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