第6話 官邸の決断
永田町に、夜の帳が下りていた。
国会議事堂が荘厳にライトアップされ、その威容を闇の中に誇示している。だが、そのすぐ隣に位置する総理大臣官邸の空気は、祝祭的な光とは無縁の、張り詰めた緊張に支配されていた。
警察庁のキャリア官僚、黒田は、官邸の西階段を一段一段、重い足取りで上っていた。彼の背筋は、長年の癖で真っ直ぐに伸びている。だが、その手にした分厚い報告書の重み以上に、得体の知れない重圧が、彼の両肩にのしかかっていた。
これから、彼は内閣総理大臣に直接、この国の、いや、世界の「終わり」の始まりを報告しなければならない。
報告書の内容は、荒唐無稽の一言に尽きる。
広告をクリックすれば、超能力が手に入る。
念じれば、どんな鍵も開く。
そんな、三流のSF小説のような事象が、現実の脅威として、今、この日本社会を静かに、しかし確実に蝕んでいる。
これを、一国の宰相に、どう説明すればいいのか。
狂人扱いされ、キャリアを絶たれるだけならまだいい。だが、この報告が握り潰され、対策が遅れれば、取り返しのつかない事態になる。その焦燥感が、黒田の冷静な思考を焼き切ろうとしていた。
案内されたのは、官邸四階の執務室だった。
日本の政治の中枢。部屋には、重厚なマホガニーの執務机、深緑色の絨毯、そして壁際には金色の刺繍が施された国旗と内閣総理大臣旗が厳かに掲げられている。伝統と権威の象徴であるその空間が、彼がこれから語るであろう非現実的な物語との、あまりに大きなギャップを生み出していた。
部屋には、既に数名の先客がいた。
内閣官房長官、外務大臣、そして数名の事務方トップである外交官たち。彼らは、黒田の姿を認めると、値踏みするような、あるいは訝しむような、複雑な視線を向けた。警察庁の、それも新設されたばかりの準備室の室長ごときが、なぜこの場にいるのか。その疑問が、部屋の空気に満ちていた。
やがて、執務室の奥のドアが開き、内閣総理大臣、高坂が姿を現した。年齢は六十代半ば。テレビで見るよりも小柄だが、その全身から放たれる圧力は、さすがに一国のリーダーたるものだった。
だが、黒田は、その顔に浮かぶ、深い疲労の色を見逃さなかった。どこか硬い、と評するべきか。尋常ではない事態に直面している人間の、張り詰めた表情だった。
「……待たせたな。早速、始めてくれ」
高坂総理は、席に着くなり、単刀直入にそう言った。
黒田は、一礼すると、淀みない口調で、しかし内心の動揺を押し殺しながら、報告を始めた。
「――ですから、総理。現在、我々が直面しておりますのは、従来の犯罪とは全く質の異なる、新たな脅威であります」
黒田は、この一週間で起きた不可解な事件の数々を、淡々と、しかし力を込めて説明していく。原因不明の現金過不足、あり得ない状況下での窃盗事件、そして、昨日逮捕した特殊技能保持者、星野の存在。
「……被疑者、星野は、自らの能力を『錠前開錠』と呼称。その力は、インターネット上の奇妙な広告をクリックすることで、授けられたと供述しております」
黒田がそこまで述べた時、外務大臣が、鼻で笑うように口を挟んだ。
「黒田君。君が優秀な官僚であることは認めるが、少し疲れすぎているのではないかね? 広告をクリックしたら超能力者になった? まるで子供の漫画だ。そんな与太話を、総理の御前でするとは……」
「与太話では、断じてありません」
黒田は、その言葉を、強い意志で遮った。
「星野の供述によれば、広告には『軽度の透明化』や『紙幣複写』といった、他の選択肢も存在した、と。そして、時を同じくして、全国の金融機関、小売店から、原因不明の現金過不足が報告され始めている。これは偶然でしょうか? 我々は、既に未知の能力者によって、我が国の通貨信認、ひいては経済システムそのものへの攻撃が開始されていると判断せざるを得ません」
黒田の鬼気迫る報告に、部屋の空気が再び凍り付く。
外務大臣も、ぐっと言葉に詰まった。
全ての視線が、沈黙を守る高坂総理へと集まる。彼は、組んだ両手の指先で、じっと自分の唇を押さえ、目を閉じていた。まるで、黒田の報告内容を、一つ一つ吟味するかのように。
長い、針の筵のような沈黙。
やがて、総理は、ゆっくりと目を開き、重々しく口を開いた。
「…………うむ」
その一言は、肯定か、否定か。誰もが固唾を飲んで、次の言葉を待った。
「……実は、その件。米国から、既に話が上がってきていた」
その言葉は、爆弾だった。
黒田は、我が耳を疑った。米国? いつ?
驚愕に目を見開く黒田に対し、総理は、僅かに自嘲的な笑みを浮かべて続けた。
「と言っても、昨日、私の執務室の机に、CIAからの緊急通信の要約が上がってきたばかりだからな。黒田君、君たちの動きとは、ほんの僅差だ。見事な危機察知能力だと言える」
総理の言葉に、黒田は安堵と、それ以上の衝撃で眩暈がしそうになった。
やはり、これは日本だけの問題ではなかったのだ。
高坂総理は、続けた。
「米国側は、これらの能力者を『出現者』と仮称しているらしい。シカゴで、銀行の金庫が、内側から溶断されるという事件が起きたそうだ。防犯カメラには、人影一つ映っていなかった、と。他にも、ロサンゼルスでは、物理的にあり得ない交通渋滞が頻発している。誰かが、信号を自在に操っている疑いがある、と。……彼らも、パニック寸前だよ」
世界の警察を自負する、アメリカ合衆国ですら、この事態に有効な手を打てていない。その事実が、この問題の根深さを、何よりも雄弁に物語っていた。
外務大臣の顔からは、完全に血の気が引いていた。
「……では、我々はどうすれば」
官房長官が、掠れた声で尋ねる。
高坂総理は、黒田に向き直った。その瞳には、もはや先ほどの疲労の色はなく、国家の命運を背負う指導者としての、鋼の意志が宿っていた。
「黒田君。君の危機感は、正しい。そして、君が考えていることは、我々も同じだ。既に、官僚内部で、水面下での動きは始めてある」
「!」
「君が立ち上げた、あの準備室。あれを、内閣官房直属の正式な組織へと格上げする。名称は、『内閣官房・超常事態対策室』。各省庁から、最高の人材を集め、あらゆる権限を集中させる。国家の総力を挙げて、この未曾有の危機に対応する」
それは、黒田が望んでいた、いや、望んでいた以上の回答だった。
「そして、黒田君」
総理は、真っ直ぐに黒田の目を見て言った。
「ぜひ、そこに、君たち警察も、中核として加わって欲しい」
それは、命令であり、期待であり、そして、共にこの国難に立ち向かう同志への、誘いの言葉だった。
込み上げてくる熱いものを、黒田は奥歯を噛みしめてこらえた。彼は、深く、深く、頭を下げた。
「……はっ。ぜひ、我々も、その任に就かせていただきます。この身、この知識、全てを捧げ、国家の安寧のために尽くす所存です」
その力強い返答に、高坂総理は、満足げに頷いた。
会議は、終わった。
官邸を後にする黒田の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど、軽かった。だが、その心は、むしろ、より一層の重みを増していた。
孤独な戦いでは、なくなった。だが、それは、この戦いが、彼の想像を遥かに超える、全世界を巻き込んだ、途方もない戦争であることを意味していた。
彼は、夜の東京の街並みを見下ろした。煌びやかなネオンの光。無数の人々が行き交う、平和な光景。
しかし、今の彼の目には、その光景が、まるで薄氷の上で繰り広げられる、最後の饗宴のように見えた。
あの雑踏の中に、既に、何人の「アルター」が紛れ込んでいるのだろう。
そして、彼らに力を与えた、正体不明の「何か」は、今、どこで、何を考えているのだろう。
秩序の時代は、終わった。
黒田は、冷たい夜風の中で、静かに、しかし固く、拳を握りしめた。
新しい、混沌の時代の幕が、今、確かに上がったのだ。