第55話 楽園オークションと、金色の奴隷たち
あの日本中のリンゴ農園が、血と炎に染まった忌まわしい一日。
救急車の中で一人の子供の命が、あまりにもあっけなく消え去ったあの瞬間。
そのあまりにも醜悪な光景は全世界に生中継され、人々の臨界点を超えかけていた不満を、ついに爆発させた。
世界中で、暴動が起きた。
それはもはや、「林檎狩り」などという牧歌的な響きを持つものではなかった。それは、持たざる者たちによる持てる者たちへの、そしてこの理不尽な世界を管理できない無能な政府への、剥き出しの怒りの鉄槌だった。
IARO(国際アルター対策機構)と黒田事務総長は、選択を迫られた。
このまま世界が、無政府状態の内戦へと突入するのを座して見ているか。
それとも、禁断の一手に手を染めるか。
彼らが選んだのは、後者だった。
事件から72時間後。
IAROは、国連の緊急安全保障理事会の承認の下、全世界の主要なリンゴ生産地帯に、治安維持部隊を電撃的に派遣した。
それは、事実上の軍事介入だった。
武装し立てこもっていたリンゴ農家たちは、圧倒的な軍事力の前に為す術もなく、その武器を置いた。暴徒と化していたハンターたちもまた鎮圧され、あるいは散り散りになって逃げていった。
暴力は、より大きな暴力によって強制的に停止させられた。
そしてIAROは、全世界のリンゴ農家たちに、一つの究極の選択を突きつけた。
それは、『大いなる妥協』と呼ばれた。
一、今後全てのリンゴ農園は、IAROが新設する特別管理機関『全世界リンゴ流通機構(Global Apple Distribution Organization、通称:GADO)』の厳格な管理下に置かれる。
一、全ての収穫物はGADOの検査官によってスキャンされ、万が一『転生林檎』が発見された場合、それは即座にGADOによって接収される。
一、農家が転生林檎を隠匿、あるいは私的に消費したことが発覚した場合、その者は国際法における最高レベルの人道に対する罪、すなわち『奇跡の私的独占罪』によって裁かれる。
一、その代わり、GADOは接収した転生林檎を厳格な管理の下オークションにかけ、その収益の実に90%を、その林檎が収穫された農園の所有者に還元する。
それは、悪魔の契約だった。
農家たちは、自らの手で楽園の果実を収穫しながら、決してそれを味わうことができなくなる。彼らは奇跡の生産者でありながら、その恩恵からは完全に締め出される。
だが、その代償として、彼らは人類の歴史上誰も手にしたことのないほどの、莫大な富を手にすることができる。
ほとんどの農家が、その契約書にサインした。
血塗られた争いに疲れ果てていた彼らに、もはや抵抗する気力は残っていなかった。そして何よりも、その天文学的な富の誘惑に抗うことはできなかった。
こうして、世界から暴力的な混沌は消え去った。
代わりにそこに現れたのは、より洗練され、よりシステマティックで、そしてより救いのない、新しい格差のピラミッドだった。
転生林檎は、市場に供給され始めた。
だが、それは一般の市場ではなかった。
GADOが主催するそのオークションは、参加者、場所、時間、その全てが完全に秘匿された、世界で最もエクスクルーシブな闇の社交場だった。
参加できるのは、GADOによる厳格な身元調査と資産調査をクリアした、世界中の億万長者たちだけ。
その最初のオークションが開かれたのは、アルプスの山中にひっそりと佇む、中世の古城だったと言われている。
シリコンバレーの若き天才、ジュリアン・ソーンもまた、その神々の遊び場に招待された選ばれし一人だった。
彼は28歳にして、既に人類が手にしうる全てのものを手にしていた。
金、名声、権力、そして彼が望めばどんな美しい異性も、彼の前にひざまずいた。
だが、彼の心は乾ききっていた。
全てが予測可能。全てが退屈。彼の160というIQを持つ脳は、この世界の全ての事象をあまりにも容易く解析し、その結末を見通せてしまった。
彼にとって人生とは、結末の分かっている三流の映画を繰り返し見せられているような、苦痛な時間でしかなかった。
彼が求めていたのは、ただ一つ。
『予測不能な驚き』。
彼は、その転生林檎という神のバグに、自らの魂を揺さぶる最後の可能性を賭けていた。
古城の大広間。
そこには、ジュリアンと同じように現実という名の退屈なゲームに飽き飽きした、世界中の二十数名の「王」たちが集っていた。
ロシアの新興財閥の冷酷な当主。中国の共産党と太いパイプを持つ謎の女帝。中東の潤沢なオイルマネーを背景に持つ若き王子。
彼らは、互いに言葉を交わさない。ただその瞳の奥に同じ飢餓の色を宿し、静かにその「時」を待っていた。
やがて、GADOの純白の制服に身を包んだオークショニアが壇上に現れ、厳かに宣言した。
「――皆様、お待たせいたしました。これより、『第一回GADO主催、特別オークション』を開催いたします」
「本日皆様にご提供いたしますのは、先日、日本国青森県にて収穫されました最高品質の『転生林檎』。その、四分の一スライスでございます」
黒服のアシスタントが、ビロードのクッションに乗せられた小さな銀の皿を運んでくる。
その上に鎮座していたのは、わずか一欠片のみどりの果実。
だがそれは、この世のどんな宝石よりも妖しく、そして蠱惑的な光を放っていた。
「――最低落札価格、10億円よりスタートいたします」
その声と同時に、ジュリアンの手元の端末の数字が、猛烈な勢いで跳ね上がり始めた。
それは、もはや競りではなかった。
それは、魂の渇きを癒すための聖杯を巡る、神々の戦争だった。
ジュリアンは、冷静だった。彼は瞬時に、この場にいるライバルたちの資産、性格、そしてその欲望の深さを分析した。そして、ただ一度だけ端末を操作した。
彼が入力した数字。それは、他の全ての王たちの心を折るには十分すぎるほどの、あまりにも無慈悲で、あまりにも傲慢な数字だった。
オークショニアの声が、震えていた。
「……に、にひゃく……280億……!」
「……280億円! 他に、いらっしゃいませんか……!?」
大広間は、静まり返っていた。
「……落札。……落札者は、ジュリアン・ソーン様です」
ジュリアンは、表情一つ変えなかった。
彼にとって280億円とは、自社の株価の一日の誤差にも満たない、端金でしかなかったからだ。
彼は銀の皿に乗せられたその小さな楽園の欠片を受け取ると、誰にも一瞥もくれることなく、その神々の遊び場を後にした。
その夜、マンハッタンの摩天楼の最上階。
ジュリアンは、自らのガラス張りのペントハウスで、一人その小さな果実を見つめていた。
眼下には、宝石を散りばめたようなニューヨークの夜景が広がっている。彼がその気になれば、この街の全てを買うことすらできるだろう。
だが、その光景も彼の心を少しも満たしはしなかった。
彼はそっと、その林檎の欠片を口へと運んだ。
そして、ゆっくりと咀嚼する。
口の中に広がる、脳が焼き切れるような多幸感。
そして彼の意識は、現実から解き放たれた。
彼が体験した、もう一つの人生。
それは、彼が最も軽蔑し、最も理解不能だったはずの人生だった。
彼は、ネパールのヒマラヤの麓の小さな村で、名もなき羊飼いとして生きていた。
金もなければ、名誉もない。毎日ただ羊の群れを追い、質素な食事を取り、そして満天の星空の下で眠るだけ。
だが、彼の心は満たされていた。
彼は、隣に寄り添う素朴な、しかし心から彼を愛してくれる妻がいた。彼は、彼の帰りを待つ、泥んこになって遊ぶ元気な子供たちがいた。彼は、厳しい自然の中で生きることの手触りと、そして自分の命が家族という小さな宇宙の中でかけがえのない一部であることを、知っていた。
彼はその人生で初めて、「幸福」という感情の本当の意味を理解した。
そして、夢から覚めた時。
彼の目の前に広がる、冷たく空虚なペントハウスの現実。
そして、彼の魂を締め付ける絶対的な孤独感。
「…………」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
28歳にして、初めて流す涙だった。
「……素晴らしい……」
彼は、震える声で呟いた。
「……想像以上だ……」
彼はその人生で初めて、心の底から渇望した。
もう一度。
もう一度だけ、あの温かい光の中に戻りたいと。
彼はすぐさま、GADOの担当者に連絡を取った。
「――次のオークションは、いつだ」
「……ソーン様。次の出品は、三ヶ月後の予定ですが……」
「待てない」
ジュリアンは、きっぱりと言った。
「君たちの組織に、資金を提供しよう。100億ドル。いや、500億ドルでもいい。その金で、世界中のリンゴ農園の生産効率を上げるんだ。最新のAIを導入しろ。遺伝子工学の権威を集めろ。どんな手を使ってもいい。転生林檎の収穫率を上げるんだ。……そして、収穫された林檎は全て私が買い取る」
その瞬間。
彼は、もはや退屈した王ではなかった。
彼は、ただの薬物中毒者。
楽園という名の麻薬の虜となった、哀れな金色の奴隷だった。
ジュリアン・ソーンが始めたその狂気の投資は、瞬く間に他の億万長者たちにも伝播した。
彼らもまた、同じだった。
一度あの禁断の果実を味わってしまった魂は、もう二度と乾いた現実には満足できなくなっていた。
彼らは競うように、GADOに天文学的な資金を投入し始めた。
『プロジェクト・エデン』。
その美しい名前を冠された計画の下、世界中のリンゴ農園は様変わりしていった。
ドローンが空を飛び、AIが土壌を管理し、遺伝子操作された苗木が植えられていく。
リンゴ農家たちは、もはや畑に出る必要すらなかった。彼らは豪華な邸宅の中で、ただ毎日自分の口座に振り込まれていく数字の桁が増えていくのを、眺めているだけ。彼らは豊かになった。だが、彼らの魂は、自らが作り出す奇跡から完全に切り離されていた。
そして、その狂騒を、99.9%の持たざる者たちは、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。
暴力的な衝突は、なくなった。
だがその代わりに世界を覆ったのは、より冷たく、そしてより根深い絶望だった。
楽園は、確かに存在する。
だがそれは、自分たちには決して手の届かないショーウィンドウの向こう側にある、高価な宝石。
その絶対的な事実が、人々の心から最後の希望の光を奪い去った。
人々は、もはや怒る気力すら失っていた。
ただ、諦め、受け入れるだけ。
この世界は、そういう風にできているのだと。
テレビでは今日も、どこかの億万長者が何百億円でリンゴの欠片を落札したというニュースが流れている。
それを見ながら人々はため息をつき、そして自らの安物のカップラーメンをすする。
それは、驚くほど静かで、驚くほど安定した地獄だった。
日本の安アパートの一室。
空木零は、そのあまりにも洗練された地獄のシステムを、モニター越しに眺めていた。
彼は、心底満足していた。
暴力は、醜い。混沌は、すぐに飽きる。
だが、この静かなる絶望は違う。
それは、まるで一滴ずつゆっくりと魂に染み込んでいく、極上の毒。
人間が、自らの欲望によって自らで作り上げた、完璧な階級社会の檻。
その中で、金色の奴隷たちと灰色の家畜たちが、永遠に交わることなく生きていく。
「……うん。これだよ、これ」
彼は、最高級のウイスキーでも味わうかのように、静かに目を閉じ、そして呟いた。
「これこそ僕が見たかった、最も知的で、最も悪趣味なエンターテインメントだ」
神は、笑う。
自らがただ蒔いただけの一つの種が、人間という愚かで愛おしい土壌の上で、これほどまでに見事に歪んだ花を咲かせたことに、心からの満足と喝采を送りながら。
彼の退屈な日常は、今日もまた世界の新しい悲劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。




