第54話 林檎を巡る、静かなる戦争
邪神のあの悪趣味な放送から一ヶ月、世界は熱病に浮かされていた。
その熱源はただ一つ。手のひらに収まるほどの小さな、しかし無限の可能性を秘めたみどりの果実――『転生林檎』。
青森の老人が初めてその奇跡を体験して以来、同様の報告は、世界中のあらゆるリンゴの産地からポツリ、ポツリと上がり始めていた。
ワシントン州の広大な農園で。フランス、ノルマンディー地方の古くからの果樹園で。中国、山東省の近代的なプランテーションで。
神が書き換えた世界の理は、寸分違わずその1000分の1という絶妙な確率で、人類の前に奇跡を顕現させていた。
そして、その奇跡の価値は、瞬く間に人間の理解と制御を完全に超越した。
最初に市場にその一欠片が姿を現したのは、東京の闇オークションサイトだった。
出品者は匿名。商品名は、『神の涙』。
添えられた一枚の写真には、一口だけかじられたみどりの林檎と、出品者がその林檎によって体験した「世界的なピアニストとして喝采を浴びる人生」の克明なレポートが添えられていた。
人々は最初、それを手の込んだ詐欺だろうと、半信半疑で眺めていた。
だが、入札が始まった瞬間、その疑念は熱狂へと変わった。
開始価格、100万円。
その数字は、わずか数分で1000万円を超え、一時間後には1億円を突破した。
最終的に、その林檎のわずか四分の一欠片を落札したのは、とある中東の石油王だった。
落札価格、38億円。
それはもはや、果物の価格ではなかった。それは、人生そのものの値段だった。
このニュースは、全世界を駆け巡った。そして、人々の脳髄に一つの単純で、しかし強力な方程式を焼き付けた。
『転生林檎 = 一攫千金』。
『転生林檎 = 究極の現実逃避』。
世界は、新たなゴールドラッシュの時代へと突入した。人々は、金の代わりに緑の果実を追い求め始めたのだ。
だがすぐに、人々は絶望的な現実に直面することになる。
転生林檎は、市場に出回らない。
全くと言っていいほど、出回らないのだ。
なぜなら。
その理由は、あまりにもシンプルで、あまりにも人間的だった。
――収穫者が、食べてしまうからだ。
青森県、弘前市。
木村健一は、父親があの最初の一口を食べて以来、変わり果ててしまったその姿を、ただ呆然と見つめていた。
父親は、もう働かなかった。
一日中縁側で虚空を見つめ、時折、恍惚とした笑みを浮かべ、そしてぽつりと呟くのだ。
「……ああ。……聴衆が、私を呼んでおる……」
彼は、もう現実にはいなかった。彼の魂は、永遠にカーネギーホールの喝采の中に囚われてしまっていた。
健一は誓った。自分は、決してあんな風にはならないと。
彼は父親の代わりに、一人で広大なリンゴ畑を管理した。ドイツ人の妻、クラウディアとの関係は相変わらずギクシャクしていた。言葉が通じない。心が通じない。そのもどかしさが、彼の肩に重くのしかかっていた。
その日の夕暮れ。
彼は、いつものように収穫作業を終えようとしていた。
そして、見つけてしまったのだ。
西日に照らされて、まるでエメラルドのように輝く一粒のみどりの果実を。
「……っ!」
健一の心臓が、激しく高鳴った。
唾を飲み込む。
脳裏に、あの38億円という数字が浮かぶ。
これを売れば。
これを売れば、もうこんな泥にまみれた生活とはおさらばできる。妻とも、世界中のどこへだって行ける。最高の通訳を雇い、最高の暮らしができる。
そうだ、売ろう。
彼はそう決意した。そして、その神の果実を慎重に枝からもぎ取った。
その瞬間。
彼の鼻腔を、あの抗いがたいほど甘美な香りがくすぐった。
(……一口だけなら……)
悪魔が、囁いた。
(……一口、味を確かめるだけだ。商品価値を知るためだ。そうだ、これは必要経費だ……)
彼は、その誘惑に勝てなかった。
彼は、林檎に歯を立てた。
そして彼の意識は、現実から解き放たれた。
彼が体験したのは、ピアニストでも英雄でもなかった。
それは、あまりにもありふれた、しかし彼にとっては何物にも代えがたい、もう一つの人生だった。
彼は、ドイツ、ベルリンの小さなアパートで目を覚ました。隣には、愛する妻クラウディアが幸せそうに寝息を立てている。
彼は、流暢なドイツ語で彼女に話しかける。
「Guten Morgen, mein Schatz.(おはよう、僕の宝物)」
彼女は、完璧な日本語で答える。
「おはよう、あなた。今日の朝ごはんは何にする?」
言葉の壁など、どこにもない。二人はただ笑い合い、キスをし、そして共に一日を始める。
それは、『黄金の一ヶ月』の続きだった。
彼が失ってしまった、あの完璧な楽園。
彼は、その夢の中で泣いた。幸福すぎて、泣いた。
そして、夢から覚めた時。
目の前に広がる薄暗いリンゴ畑の現実。そして、心配そうに自分を見つめる、言葉の通じない妻の困惑した顔。
その残酷なギャップに、彼は絶望した。
彼は、もう耐えられなかった。
彼は残りの林檎を、獣のように貪り食った。
そして、二度と現実には戻ってこなかった。
その現象は、世界中で起きていた。
リンゴ農家たちは、もはや農民ではなかった。
彼らは、楽園への門の鍵をその手に握りしめた番人だった。
そしてそのほとんど全てが、自らその門を開け、そして楽園の囚人となることを選んだ。
彼らは、畑を放棄した。収穫をやめた。
ただ毎日、1000分の1の確率で現れる神の麻薬を探し求め、そしてそれを貪るだけの廃人へと成り果てていった。
世界のリンゴの生産量は、激減した。
市場から、リンゴが消えた。
転生林檎どころか、普通のリンゴすらもが、庶民の手には届かない高級品となった。
楽園は、独占された。
そのあまりにも理不尽な現実に、持たざる者たちの不満は、静かに、しかし確実に沸点を超えようとしていた。
「――楽園は、万人のものだ!」
インターネットの匿名掲示板に、そんな扇動的な言葉が躍った。
「我々から幸福を独占する、強欲な『林檎貴族』を討て!」
「彼らが働かないのなら、我々が収穫すればいい!」
「聖地へと向かえ! 我々の手で、我々の楽園を取り戻すのだ!」
その呼びかけに、呼応するように。
世界中で、人々は武器を手に取り始めた。
彼らは自らを、『林檎狩り(アップル・ハンター)』と名乗った。
職を失った者、人生に絶望した者、そしてただこの終末的なお祭りに参加したいだけの若者たち。
彼らはキャラバンを組み、リンゴの産地へと大移動を始めた。
それは、もはや犯罪ではなかった。
それは彼らにとっては、正義の奪還戦争。あるいは、約束の地を目指す聖地巡礼だった。
リンゴ農家たちも、黙ってはいなかった。
彼らは、自らが独占した楽園を守るため、武装を始めた。
彼らは有り金全てをはたいて最新の銃器を買い集め、畑の周囲に高いフェンスと有刺鉄線を張り巡らせ、そして屈強な傭兵を雇った。
世界中ののどかな田園風景は、一夜にして国境紛争地帯のような、物々しい武装地帯へとその姿を変えた。
農家たちは、もはや近隣の住民すらも信じなかった。誰もが、自分たちの楽園を奪いに来る敵に見えた。
かつて収穫祭で共に笑い合っていた隣人が、今は互いにショットガンを向け合い、睨み合っている。
世界は、静かな、しかし極めて暴力的な内戦の時代へと突入した。
IARO本部、中央司令室。
黒田は、モニターに映し出されたその全世界で同時多発的に起きている「リンゴ戦争」の惨状を、ただ唇を噛み締めながら見つめていた。
「長野県で、リンゴ農家とハンター集団が衝突! 双方に死傷者が出ている模様!」
「アメリカ、ワシントン州では州軍が出動! 農園を州の管理下に置こうとする軍と、それを拒否する農民たちの間で銃撃戦が発生しています!」
「フランス政府、リンゴの国家管理法を緊急可決! これに反発した農民たちが、トラクターでパリの高速道路を封鎖! 物流が完全に麻痺しています!」
報告は、地獄の合唱のようだった。
「……どうしろと、言うんだ……」
黒田は、呻いた。
打つ手がなかった。
これは、アルター犯罪ではない。
これは、ただ一本のリンゴを巡る、あまりにも原始的で、あまりにも根源的な人間の欲望の衝突だった。
法律で、裁けるのか?
『転生林檎を食べた者は罪』とでも、言うのか。
軍隊で、鎮圧できるのか?
国民を敵に回して、一体何を守るというのだ。
黒田たち秩序の番人は、完全に無力だった。
彼らが守ろうとしてきた法も、理性も、このむき出しの欲望の前では、あまりにも脆く、あまりにも無力だった。
そして、その日。
世界が最も恐れていた一線が、ついに越えられた。
事件は、日本の長野で起きた。
とある武装したリンゴ農園。その高いフェンスの前に、一台の救急車が到着した。
農園の見張りをしていた傭兵が、拡声器で警告する。
「止まれ! それ以上近づけば、撃つぞ!」
救急隊員が、車から降りてきて叫んだ。
「撃たないでくれ! この近くで事故があったんだ! 子供が大怪我をしている! ここを通らせてくれなければ、病院まで間に合わない!」
「知ったことか! 他の道を探せ!」
「この道が、最短なんだ! 頼む! 人の命がかかっている!」
その必死の訴え。
だが、傭兵たちの心には届かなかった。彼らの頭の中は、ハンターたちの襲撃への恐怖と猜疑心で満たされていた。
これは罠だ。救急車の中に、ハンターたちが潜んでいるに違いない。
「……警告はしたぞ」
傭兵の一人が、引き金に指をかけた。
その瞬間。
救急車の後部ドアが、内側から蹴破られた。
中から飛び出してきたのは、武装したハンターたちだった。
やはり、罠だったのだ。
「行けえええええ!」
ハンターたちは、子供の命を盾にしたその卑劣な作戦が成功したことを確信し、一斉に農園へとなだれ込もうとした。
だが。
彼らは、知らなかった。
その救急車の中に、本当に瀕死の子供が乗せられていたということを。
ハンターたちのリーダーの息子が事故に遭い、その命を救うため、彼は悪魔に魂を売ったのだ。
この農園のどこかにあるはずの、転生林檎。
その奇跡の力があれば、息子は助かるかもしれないと。
銃声が、響き渡った。
それは、もはや戦闘ではなかった。
ただの、殺戮だった。
傭兵たちの自動小銃が火を噴き、ハンターたちは次々と血の海に沈んでいく。
そして、その流れ弾の一発が。
救急車の中でか細い息をしていた小さな子供の命を、あまりにもあっけなく奪い去った。
その一部始終は、上空を飛んでいた報道ヘリによって、全世界に生中継されていた。
人々は、見た。
楽園を求める欲望が、一つの無垢な命を踏み躙った、その決定的な瞬間を。
子供の亡骸の前で、泣き崩れる父親の姿を。
そして、自らが犯した罪の重さに気づき、その場に立ち尽くす傭兵たちの虚ろな顔を。
世界は、凍り付いた。
そして次の瞬間、凍り付いた不満は、溶岩のような怒りとなって爆発した。
「ふざけるな!」
「なぜ子供が死ななければならない!」
「全て、林檎を独占している農家が悪いんだ!」
「いや、法を整備できない無能な政府が悪い!」
「IAROは、何をしている!」
民衆の不満は、ついに臨界点を突破した。
東京、大阪、ニューヨーク、ロンドン、パリ。
世界中の主要都市で、大規模なデモが発生した。
それはやがて、暴動へと変わった。
人々は政府機関へと殺到し、警察の機動隊と衝突し、街は炎と黒煙に包まれた。
邪神が、望んだ混沌。
それは、彼が直接手を下すまでもなかった。
人間が、自らの欲望によって、自らの手で、自らの社会を焼き尽くしていく。
そのあまりにも滑稽で、あまりにも悲劇的な自滅の光景。
日本の安アパートの一室。
空木零は、その最高のエンターテインメントを、特等席で観測していた。
彼は、腹を抱えて笑っていた。床を転げ回り、涙を流して、ただひたすらに笑い続けていた。
「はは……ははははは! 面白い! 面白すぎるじゃないか、これ!」
彼のモニターには、炎上する国会議事堂、泣き叫ぶキャスター、そして頭を抱える黒田の顔が、同時に映し出されている。
「うんうん! これでようやく、下準備が整ったって感じかな!」
彼は、笑いすぎて痛む腹をさすりながら、新しいカップ焼きそばの封を開けた。
「楽園を求めて、地獄を作り出す。実に、人間らしいじゃないか」
「さあ、このぐちゃぐちゃになった世界に、次なる絶望の種を、蒔いてやるとしようか」
神は、考える。
この最高の舞台で、次にどんな悪趣味な脚本を、描いてやろうかと。