第53話 楽園の残り香と、最初の林檎
神が指を鳴らした。
たったそれだけで、世界を繋いでいた魔法はガラス細工のように砕け散った。
『黄金の一ヶ月』と呼ばれた、あのあまりにも甘美で、あまりにも短すぎた奇跡の時代は、まるで一夜の夢のように終わりを告げた。
後に残されたのは、かつてないほどの深い、深い静寂と、そして七十億の人間が同時に共有する巨大な喪失感だった。
世界から色が消えた。
もちろん、物理的にではない。人々の魂のレベルでだ。
東京の洒落たカフェのテラス席。数週間前までなら、国際色豊かな若者たちが互いの母国語で楽しそうに笑い合っていたはずのその場所は、今や気まずい沈黙に支配されていた。向かい合って座る、日本人とフランス人の若いカップル。男は何かを必死に、スマートフォンの翻訳アプリに打ち込んでいる。女は、その無機質な合成音声が途切れ途切れに再生する、どこか間抜けな日本語を、ただ悲しげな目で見つめている。
昨日までなら。
昨日までなら、男が口を開く前に、その瞳の奥にある不器用な愛情の全てが、彼女の魂に直接響き渡ったはずなのに。
昨日までなら、女がため息をつくその僅かな響きの違いから、彼女が本当は何を求めているのか、手に取るように分かったはずなのに。
二人の間には、もはや数メートルの物理的な距離以上に、決して越えることのできない絶望的な言葉の壁がそびえ立っていた。
ニューヨーク、国連本部ビル。
緊急招集された安全保障理事会は、地獄のような様相を呈していた。ロシア代表が、自国の正当性を主張する。アメリカ代表が、それに激しく反論する。中国代表が、そのどちらにも与しない曖昧な微笑を浮かべている。
光景は、一ヶ月前と何も変わらない。
だが、その本質は決定的に変わってしまっていた。
彼らの間には、優秀な同時通訳たちが介在している。だが、その完璧に翻訳されたはずの言葉は、もはやただの意味を失った「音」の羅列としてしか、彼らの耳には届かなかった。
彼らは知ってしまったのだ。言葉の表面的な意味の、さらに奥の奥にある相手の魂の本当の色を。その肌触りを。
ロシア代表の強硬な発言の裏にある、大国としての孤独と不安を。
アメリカ代表の正義を振りかざす、その言葉の裏側にある、自らの覇権が揺らぎ始めていることへの隠しようのない焦りを。
中国代表の静かな微笑の裏側にある、数千年という歴史の中で培われた、底知れない自尊心と狡猾さを。
それら全てを、かつては完璧に理解し合えた。だからこそ、ギリギリのところで破滅的な戦争を回避することもできた。
だが、今は違う。
全てが不透明なノイズの向こう側にある。互いが互いを疑い、互いの真意を測りかね、そして最悪のシナリオばかりを想像する。
信頼という名の光が消えた世界で、彼らはただ暗闇の中、手探りで互いの喉元にナイフを突きつけ合っているだけだった。
IARO(国際アルター対策機構)本部、地下300メートル。
黒田は、モニターに映し出されたその全世界で同時多発的に起きている「魂の断絶」の光景を、ただ無力に見つめていた。
「……これが、奴の本当の狙いだったのか……」
彼は、吐き捨てるように呟いた。
破壊ではない。支配でもない。
ただ一度、完璧な希望を与え、そしてそれを奪い去る。
後に残されたこの埋めようのない喪失感こそが、人類の理性を、社会を、内側から静かに、しかし確実に腐らせていく。
これ以上に悪質で、これ以上に効果的な攻撃があるだろうか。
世界は、緩やかな、しかし確実な衰退の時代へと足を踏み入れていた。
誰もが無気力だった。誰もが、失われた楽園の幻影を追い求めていた。
そして、そのあまりにも重く、あまりにも静かな絶望の空気の中で。
全ての元凶である神の、あまりにも軽薄で、あまりにも場違いな声が、何の前触れもなく全世界の全てのデバイスから響き渡った。
『――いえーい! みんな見てるー! 聞こえる? 聞こえてるよね? もちろん、聞こえてるはずだ。だって僕がそう設定したんだから!』
その声。
その悪夢の声。
世界中の人々が、一斉に顔を上げた。テレビ、スマートフォン、街頭の巨大ビジョン、病院のモニター、学校の電子黒板。ありとあらゆるスクリーンが一度暗転し、そこにあの悪戯っぽい笑顔を浮かべた道化師のアバターが映し出されていた。
邪神。
彼が帰ってきた。
『いやー、君たちの退屈を何よりも憎み、最高のエンターテインメントを愛する隣人、邪神君だよ!』
その声が響き渡った瞬間。
全世界のSNSのサーバーが、悲鳴を上げた。
コメントの洪水。それは、もはや文字の津波だった。
『ふざけるなああああああ!』
『今更どの面下げて出てきやがった!』
『俺たちの世界を返せ!』
『でも……でも待ってた……!』
『何かしてくれるんじゃないかって……!』
『ははは! すごいコメントの勢いだ! まるで凍結されていたダムが決壊したみたいだね! うんうん、分かるよその気持ち。本当にごめんね!』
邪神は、画面の向こうで心底申し訳なさそうに頭を下げてみせた。だが、その瞳の奥は全く笑っていなかった。
『いやー、あんなに落ち込むとは思わなくてさあ。君たちのあのお通夜みたいな顔! この一ヶ月、ずっと観測させてもらってたけど、見ててこっちまで気分が滅入っちゃうじゃないか! 最高のハッピーエンドをプレゼントしてあげたつもりだったんだけどなあ。人間の感受性って、本当に難しいよねえ』
その、あまりにも他人事な口調。
人々の怒りは、頂点に達した。
『楽園を返して?』
邪神は、画面の向こうで首を傾げた。そして、心底不思議そうに言った。
『えー。やだよ』
『だって、一度クリアしたゲームをもう一回同じ条件でやってもつまらないだろ? 物語には、常に新しい刺激が必要なんだよ。君たちもそう思うだろ?』
その、悪魔の正論。
誰も、何も言い返せなかった。
『まあでも、安心してよ。僕も鬼じゃないからね。ちゃんと次の大型アップデートの予定も考えてあるんだ』
邪神は、悪戯っぽく笑った。
『そうだなあ……。今からちょうど12ヶ月後くらいに、またあの楽園を君たちにプレゼントしてあげようかなって思ってるんだ。しかも今度は、もっとずーっと長く。そうだな、一年間くらい?』
『そしたらどうなると思う? 一度失った楽園に、一年間もどっぷりと浸かってしまったら。君たち、もう二度と現実には戻ってこれなくなるだろうねえ。思考能力も、働く意欲も、何もかもを失って、ただ幸福な夢だけを見続ける完璧な家畜。……うん、最高に面白い廃人の出来上がりだ!』
その、あまりにもおぞましい「廃人計画」の予告。
世界は、戦慄した。
『やだなあ、そんなに怖がらないでよ! 今のはまだ、ただの予定なんだから! ちょっとしたアメリカン・ジョークだよ! 冗談! 許してよ!』
邪神は、画面の向こうで両手をひらひらと振った。
『それより! そんな暗い未来の話は置いといてさ! 今日は、この沈みきった君たちを元気づけるために、僕からとっておきのプレゼントを用意したんだ!』
プレゼント。
その言葉に、人々は嫌な予感しかしなかった。
だが同時に、心のどこかで期待してしまっている自分もいた。
この神なら、あるいはまた何かとんでもない奇跡を。
『ジャジャーン! なんと、転生林檎です!』
転生林檎。
その奇妙な響きを持つ言葉。
人々は、困惑した。
『転生林檎とは何か? って顔をしてるね! 説明しよう! この不思議な林檎。それを一口かじれば、あら不思議! 君は、今生きているこの退屈な人生とは全く別の、もう一つの人生を、まるで現実のように体験することができるのさ!』
別の人生。
その甘美な響き。
人々は、ごくりと喉を鳴らした。
『例えば、そうだな。しがないサラリーマンの君! この林檎をかじれば、世界を救う大英雄になる人生を体験できる! 病室のベッドの上で、ただ死を待つだけの君! この林檎をかじれば、オリンピックで金メダルを取るアスリートの人生を味わえる! 恋に破れた君! この林檎をかじれば、世界中の異性から愛される絶世の美男美女としての人生を満喫できる! どうだい? 素晴らしいだろ? 究極の現実逃避! 最高のエンターテインメントだ!』
邪神は続ける。その口調は、まるで深夜のテレビショッピングの胡散臭い司会者のようだった。
『しかもこの転生林檎。入手方法も、とっても簡単! なんと僕が、この世界のリンゴという種の理にちょこっとだけ介入して、1000分の1の確率で、収穫の際に突然変異でこの美しいみどりの転生林檎になるように設定しておいたからさ!』
『だからリンゴ農家の皆さんは、ちょっとだけ気をつけて収穫して欲しいな! 間違って市場に出しちゃったら、大変なことになるからね! まあ、なっても面白いから僕はいいんだけどさ!』
『一口かじれば、マジでハマるから! そのあまりにもリアルで、あまりにも幸福な夢の虜になること間違いなし! だからみんな、もし見つけたら勇気を出して一口食べてみようよ!』
『じゃ、今回の放送は以上! またねー! バイバーイ!』
そのあまりにも無責任な最後の言葉を残し、道化師のアバターは画面からすっと消え去った。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして全世界の人々の心に新たに植え付けられた、一つのあまりにも甘美で、あまりにも危険な好奇心の種だけだった。
放送が終わった後も、世界はすぐには変わらなかった。
人々は、それをまた神の悪趣味な戯言だろうと、半信半疑で受け止めていた。
IAROは、即座に「出所不明の異常な果実を発見しても、決して口にしないように」という最高レベルの警戒警報を発令した。
だが、神が蒔いた種は、人々の心の最も柔らかな土壌で、静かに、しかし確実にその根を張り始めていた。
奇跡の最初の目撃者は、青森県弘前市のリンゴ農家、木村という名の老人だった。
彼はその日も、いつもと同じように広大なリンゴ畑で収穫の作業に勤しんでいた。
彼の心は、晴れなかった。一人息子の健一は、あの『黄金の一ヶ月』の間に海外で知り合ったというドイツ人の女性と恋に落ち、国際結婚を果たした。だが、統一言語が失われて以降、二人の関係はギクシャクし始め、今や家庭内別居の状態だと聞いていた。
(……言葉が通じ合うというのは、あんなにも素晴らしいことだったのに……。なぜ神様は、それを奪ってしまわれたのか……)
彼がそんな詮無いことを考えながら、たわわに実った真っ赤なリンゴを一つもぎ取った、その瞬間。
彼の目の隅に、異様なものが映った。
一つの枝に一つだけ、明らかに他とは色の違う果実がなっていたのだ。
それは、まるで最高級の翡翠を磨き上げたかのような、どこか内側から淡い光を放っているかのような、美しいみどりのリンゴだった。
(……なんだこりゃ……。こんな品種、植えた覚えは……)
彼は、その異様なリンゴを恐る恐るもぎ取った。
ずしりと重い。そして鼻を近づけると、これまで嗅いだこともないような、蜜のように甘く、そしてどこか人を惑わせるような芳醇な香りがした。
彼の脳裏に、数日前のあの邪神の放送が蘇る。
転生林檎。
(……馬鹿な。あるわけがない)
彼はそう首を振った。だが、その手の中のリンゴは、あまりにも現実離れした美しさで彼を誘惑していた。
一口だけ。
一口だけなら。
彼は、まるで禁断の果実に手を伸ばしたアダムのように、そのみどりのリンゴにがぶりと歯を立てた。
シャリ、という小気味良い音。
口の中に広がる、脳が痺れるような甘美な果汁。
そして。
彼の意識が、遠のいた。
次に彼が目を開けた時。
彼は、弘前のリンゴ畑にはいなかった。
彼は、ニューヨークのカーネギーホールで、満員の聴衆のスタンディングオベーションのど真ん中に立っていた。
手には、一本のバイオリン。
彼は、世界的なバイオリニスト、ケンジ・キムラとして、今、生涯最高の演奏を終えたところだった。
(……なんだ……。これは……)
だが、彼に考える暇はなかった。
熱狂、歓声、そしてスポットライト。
彼は、そのあまりにも心地よい全能感の中に、あっという間に飲み込まれていった。
彼は、その夢の世界で何十年という人生を生きた。
恋に落ち、結婚し、子供が生まれ、そして世界中の人々をその音楽で幸せにした。
それは、彼が若い頃一度は夢見て、そして才能のなさ故に諦めた、もう一つの人生だった。
完璧な幸福。
永遠に続くかと思われた、その夢。
だが、夢はいつか覚める。
「……ん……。……じいさん……? おい、じいさん!」
誰かに肩を揺さぶられ、彼ははっと我に返った。
目の前には、心配そうな顔をした息子の健一がいた。
「……健一か……。どうしたんだ、こんなところで……」
「どうしたもこうしたもないよ! 畑の真ん中で、幸せそうな顔して倒れてるんだから心配するだろ!」
木村は、ゆっくりと上半身を起こした。
手には、一口だけかじられたみどりのリンゴが、まだ握られていた。
そして、彼の目の前に広がる現実の光景。
どこまでも続くリンゴ畑。西日に染まる空。そして、自らの皺だらけの、土に汚れた手。
彼の脳裏に焼き付いて離れない、カーネギーホールの華やかな光景との、あまりにも残酷なギャップ。
「…………」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……じいさん……?」
健一が、訝しげにその顔を覗き込む。
木村は、何も答えなかった。
ただ、心の奥底で、一つの黒い欲望が産声を上げたのを感じていた。
(……もう一度……)
(……もう一度だけ、あの世界に戻りたい……)
その日を境に。
世界は、静かに、しかし確実に狂い始めた。
青森の老人が体験した奇跡は、SNSを通じて瞬く間に全世界へと拡散された。
『転生林檎は、本物だった』。
その一言が、引き金だった。
人々は、スーパーへ、八百屋へ、そしてリンゴ農園へと殺到した。
リンゴの価格は、一日で数千倍に高騰した。それはもはや果物ではなかった。それは、幸福へのチケット。あるいは、地獄への片道切符だった。
世界は、新たな熱狂の渦へと叩き込まれた。
それは、かつて人々が奇跡を共有したあの黄金の一ヶ月とは全く質の違う、利己的で、孤独な熱狂だった。
日本の安アパートの一室。
空木零は、そのあまりにも滑稽で、あまりにも予測通りの人間たちの狂騒を、モニター越しに眺めていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ静かに、コンビニで買ってきたリンゴジュースをグラスに注いだ。
そして、その黄金色の液体を、モニターに映る愚かで愛おしい人間たちの姿に、そっと掲げた。
まるで、自らが脚本を書き、演出した最高の悲劇の舞台の成功を、祝う監督のように。
「……乾杯」
彼は、ぽつりと呟いた。
その声は、誰にも届かない。
ただ、彼の退屈な日常と、世界の新たな非日常が交差するその部屋の静寂の中に、吸い込まれて消えていった。
楽園の追憶に身を焦がす、人類の新たなる地獄の物語が、今、静かにその幕を開けた。