第50話 奇跡の残り香、あるいは祝福という名の呪い
神は、指を鳴らした。
たったそれだけで、世界を繋いでいた魔法は、ガラス細工のように砕け散った。
昨日まで完璧な相互理解という名の温かい光に満ちていた世界は、再び、冷たく、不透明で、ざらざらとした手触りの、かつての姿へと戻ってしまった。いや、戻ったのではない。それは、以前よりも遥かに救いのない場所へと変貌していた。
「――What? What did you say? I can't... I can't understand you!」
「――Je ne comprends pas... Ta voix... c'est juste du bruit...」
「――你的声音...我听不懂...」
世界は、巨大な沈黙に包まれた。
いや、音は溢れている。むしろ、以前よりも遥かに多くの音で、世界は満たされている。だが、その全てが意味を失った、ただの「ノイズ」の奔流だった。
最後の夜、ダブリンのパブで共に涙を流し、互いの人生を語り合った見ず知らずの他人たちは、今、まるで初めて会う不審な外国人を見るかのような、怯えと困惑の目で互いを見つめ合っている。
世紀の発見を目前にしていた国際合同研究チームの科学者たちは、ホワイトボードに書き殴られた数式と設計図の森の中で、ただ立ち尽くしている。昨日まで、完璧な阿吽の呼吸で進めていたその議論の続きを、どう始めればいいのか、誰にも分からなかった。
生まれたばかりの赤ん坊が、火が付いたように泣き叫んでいる。母親は、その泣き声の意味が分からない。お腹が空いたのか、どこかが痛いのか。昨日までなら、その泣き声の僅かな音色の違いから、手に取るように分かったはずなのに。
人々は、失った。
ただ、便利な翻訳スキルを失ったのではない。
彼らは、他者の魂に直接触れるという神の領域の感覚を、一度その身に刻み込まれてしまった。そして、それを奪われた。
後に残されたのは、かつてないほどの深い、深い孤独感。そして、「なぜ自分だけが相手を理解できないのか」という、根拠のない猜疑心。
世界は、バベルの塔の崩壊の後よりも、さらに深く、そして絶望的に分断された。
だが、その大いなる沈黙の中で、世界はやがて気づき始めた。
ごくごく僅かな数の人間たちが、その失われたはずの「魔法」を、今もなおその身に宿しているという事実に。
彼らは、こう呼ばれるようになった。
『レムナント(残り香)』。
世界人口の、約3%。
それは、社会を支配するにはあまりにも少なく、しかし無視するにはあまりにも多すぎる数だった。
そして、彼らがなぜ選ばれたのか。その法則性が明らかになるにつれ、世界は、新たな、そしてより陰湿な混沌の時代へと足を踏み入れていく。
能力が残ったのは、ランダムではなかった。
それは、『黄金の一ヶ月』の間に、言語の壁を越えて最も深く他者と魂を繋ぎ、そして楽園が失われた時に、最も深く絶望した者たち。
その魂の傷の深さに比例するかのように、神の気まぐれな置き土産は、残されたのだ。
アイルランド、ダブリン。
あの夜、パブで別れの歌を歌った白髪の老人、ショーン。彼は、今、ヨーロッパ中を旅する吟遊詩人となっていた。彼の歌声は、今もなおあらゆる言語の壁を超え、人々の魂を直接揺さぶる。彼は、分断された人々の心を、歌で繋ぎ止めようとしていた。だが、彼は歌い終えるたびに、一人、宿屋の片隅で涙を流した。あの夜、彼の歌に声を合わせた名もなき異国の友人たちの、温かい魂の響きを思い出しながら。彼は、楽園の記憶の語り部であり、その最も忠実な囚人だった。
ドイツ、ミュンヘン。
あの、新型エンジンの共同開発を行っていた国際チーム。彼ら7人の技術者のうち、3人だけがレムナントとして覚醒した。残りの4人は、ただの凡人に戻ってしまった。
チームは、崩壊した。
レムナントの3人は、他の4人を見下すようになった。「君たちには、もうこの数式の本当の美しさは分からないだろう」と。
凡人に戻った4人は、レムナントの3人に嫉妬と憎悪を募らせた。「なぜ、お前たちだけが。我々だって、同じ夢を見ていたはずだ」と。
彼らが共に築き上げた友情と信頼は、神が残した不平等な「残り香」によって、見る影もなく腐敗していった。
そして、世界中で無数の悲劇と喜劇が生まれた。
レムナントたちは、一夜にして時代の寵児となった。
彼らは、高給で国際機関や大企業に雇われた。外交官、交渉人、トップクラスの研究者。世界の重要なポストは、瞬く間に彼ら「新人類」によって占められていった。
彼らは、英雄だった。分断された世界を繋ぎ止める、唯一の希望。
だが、同時に、彼らは呪われた存在でもあった。
彼らの脳には、常に二つの世界が映っていた。
目の前で繰り広げられる、不完全で誤解に満ちた人間のコミュニケーション。
そして、かつて確かに存在した、完璧な魂の対話の記憶。
彼らは、誰と話していても、常に心のどこかで思ってしまうのだ。
(……ああ。あの時なら、この言葉の裏にある本当の悲しみまで、伝わったのに)と。
彼らは、誰よりも多くの人々と繋がっているようで、その実、誰よりも深い孤独の中にいた。
失われた楽園の記憶という名の、亡霊と共に。
だが、最も根深く、そして最も残酷な物語は、最も無垢な魂の上に描かれようとしていた。
あの幸福な『黄金の一ヶ月』の間に生まれた、全ての赤ん坊たち。
彼らもまた、例外なくレムナントとしてこの世に生を受けた。
物語は、東京の郊外にある、ごく普通の一軒家から始まる。
そこに、一人の少女がいた。彼女の名は、星野ひかり。6歳。
彼女は、あの黄金の一ヶ月の真っ只中に生まれた子供だった。
彼女の両親は、ごく普通の優しい日本人だった。
だが、ひかりは、生まれた時から「普通」ではなかった。
彼女の世界は、音で満た溢れていた。
父親が、会社での理不尽な出来事を母親に愚痴っている。「今日は、部長がさあ……」。その日本語の音の裏側で、ひかりには聞こえていた。父親の魂が発する、本当の声が。『(本当は悔しくて、情けなくて、泣き出したい。でも、お前の前では強い父親でいたいんだ)』。
母親が、テレビのメロドラマを見ながらため息をついている。「この女優さん、綺麗ねえ」。その日本語の音の裏側で、ひかりには聞こえていた。母親の魂が発する、本当の声が。『(私も、昔はもっと輝いていたはずなのに。いつから、こんな退屈な毎日になってしまったんだろう)』。
ひかりは、理解していた。
全ての、言葉の意味を。
父親が仕事で疲れて帰ってきた時、本当は「おかえり」という言葉ではなく、「何も言わずにただ抱きしめてほしい」と思っていることを。
母親が「何でもない」と言って笑っている時、本当は心の奥で、誰にも言えない孤独に泣いていることを。
彼女は、二人の本当の気持ちが分かる。
だが、彼女の両親は、彼女の気持ちが分からない。
「ひかり、どうしたの? ぼーっとしちゃって」
母親が、笑いながら言う。
ひかりは、母親に伝えたい。
『ママ、今、本当は悲しいんでしょ? 私には分かるよ』と。
だが、そのあまりにも純粋な真実を口にしてしまえば、母親がどれほど傷つき、混乱するかを、彼女は6歳にして既に理解してしまっていた。
だから、彼女はいつもこう答えるだけだった。
「……ううん。なんでもない」
そして、一人で、そのあまりにも多くの情報と感情の洪水に耐え続ける。
幼稚園に行っても、同じだった。
友達が、笑っている。その笑い声の裏側にある、ほんの僅かな嫉妬や優越感の響きが、彼女には聞こえてしまう。
先生が、優しく叱っている。その言葉の裏側にある、疲れや苛立ちの匂いが、彼女には分かってしまう。
誰も、嘘をつけない。誰も、本音を隠せない。
彼女の世界には、壁がなかった。
だからこそ、彼女は誰よりも孤独だった。
彼女は、祝福された子供だった。
近所の人々は、皆、彼女を羨望の眼差しで見た。
「ひかりちゃんは、いいわねえ。レムナントなんですって?」
「将来は、外交官? それとも、国連の職員かしら?」
「うちの子にも、その才能を少しでも分けてほしいわ」
彼らは、彼女を「祝福」と呼んだ。
だが、ひかりにとって、それは「呪い」以外の何物でもなかった。
自分だけが、違う。
自分だけが、この世界の本当の音を聞いてしまっている。
他の誰も知らない、人々の心の裏側を覗き見てしまっている。
その、罪悪感と疎外感。
彼女は、夜、一人ベッドの中で、耳を強く、強く塞いだ。
どうか、この声が聞こえなくなりますようにと。
どうか、私もみんなと同じ「普通」になれますようにと。
だが、その小さな祈りが届くことは、決してなかった。
そして、彼女のような子供たちが、世界中に何千万人と存在していた。
黄金の一ヶ月に生まれた、新しい世代。
『チルドレン・オブ・カオス(混沌の子供たち)』。
人々は、彼らを畏怖と期待を込めて、そう呼んだ。
彼らは、人類の希望だと。分断された世界を、再び繋ぐ架け橋だと。
だが、その美しい期待の言葉の裏側で、子供たちがどれほどの孤独と苦悩を抱えているか、誰も知ろうとはしなかった。
彼らは、祝福された生贄だった。
失われた楽園の罪を、その小さな一身に背負わされて生まれてきた、贖罪の子供たち。
彼らの物語は、まだ始まったばかりだった。
そして、その物語が、この分断された世界に、次なるどのような悲劇と喜劇をもたらすのか。
それは、まだ神のみぞ知る領域だった。
日本の、安アパートの一室。
空木零は、そのあまりにも滑稽で、あまりにも残酷な世界の縮図を、モニター越しに眺めていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、静かにコンビニで買ってきたクリームソーダのグラスを傾けていた。
緑色の、甘ったるい炭酸水。その中でぷかぷかと浮かぶ、真っ白なバニラアイス。そして、その頂点に一つだけ乗せられた、毒々しいほど真っ赤なサクランボ。
それは、まるでこの新しい世界の象徴のようだった。
平凡で退屈な日常、(ソーダ水)。
その中にぽつんと浮かぶ、祝福された異物、(バニラアイス)。
そして、その異物が抱える、決して他者には理解されない鮮烈な孤独、(サクランボ)。
彼は、そのサクランボをスプーンで掬い取ると、ちゅるりと一口で飲み込んだ。
そして、心の底から満足げに呟いた。
「……うん。実に良い。実に良い味だ」
「悲劇は、やっぱり無垢な子供の涙が一番のスパイスだねえ」
神は、笑う。
自らが仕掛けた壮大な茶番劇が、彼の想像以上に美しい、後味の悪い物語を紡ぎ出してくれていることに、心からの満足と喝采を送りながら。
彼の退屈な日常は、今日もまた、世界の新しい悲劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。