第5話 秩序の軋み
その部屋には、窓がなかった。
場所は、首相官邸の地下深く。有事の際に内閣の中枢機能を担うために設計された、危機管理センターの一室。正式名称は、まだない。三日前に急遽設置された、「特異事象対策準備室」という仮の看板が、重々しい金属製のドアに掲げられているだけだ。
部屋の中央には、巨大な円卓が置かれ、十数名の男女が沈痛な面持ちで席に着いていた。警察庁、防衛省、外務省、そして内閣情報調査室。各省庁から選りすぐられた、あるいは「厄介事を押し付けられた」エリートたちが、そこに集っていた。
部屋の空気は、フィルターを通しているはずなのに、まるで澱んでいるかのように重かった。高級そうなスーツに染み付いた煙草の匂いと、寝不足の人間が発する独特の酸っぱい匂い、そして、得体の知れない脅威に対する、濃密な恐怖が混ざり合っていた。
「……以上が、この一週間で確認された、特異犯罪、あるいはそれに準ずると見られる事案の概要です」
巨大なモニターの前で、一人の女性が報告を締めくくった。内閣情報調査室所属の分析官、佐伯だ。彼女の淡々とした、しかし僅かに震える声が、部屋の重苦しい静寂に吸い込まれていく。
円卓の上座に座る男――この準備室の室長を拝命した、警察庁出身の黒田は、深く眉間に皺を寄せ、指でこめかみを強く揉んだ。もう三徹目だった。カフェインとニコチンで無理やり繋ぎ止めている意識が、悲鳴を上げている。
「……信じられんな」
誰かが、呻くように言った。それは、この場にいる全員の偽らざる心境だった。
この一週間、日本は、静かなパニックに陥っていた。
最初は、些細なことだった。全国各地で、原因不明の現金過不足が報告され始めた。コンビニのレジ、個人商店の金庫、神社の賽銭箱。一日数千円から数万円、僅かな金額が、しかし確実に、計算が合わない。経理ミスや、通常の窃盗事件として処理するには、あまりに件数が多く、そして広範囲に過ぎた。
次に起きたのは、不可解な侵入事件だ。厳重なセキュリティを誇る美術館から、忽然と宝石が消えた。しかし、監視カメラには誰の姿も映っておらず、赤外線センサーにも反応がない。まるで、幽霊か何かが壁をすり抜けて盗んでいったかのようだった。
極めつけは、昨日、ようやく確保に至った一件だった。
「昨日逮捕した、広域連続窃盗犯……星野について、再度報告を」
黒田が、低い声で促す。
報告に立ったのは、警視庁捜査一課の理事官だった。彼は、手元の資料に一度目を落とし、意を決したように顔を上げた。
「被疑者、星野純一、38歳。複数の住居侵入、窃盗の前科あり。彼がこの一週間で犯した犯行は、実に30件以上。その全てが、これまで破られたことのない最新式の金庫や、電子ロックを対象としたものでした」
「……手口は?」
「それが……信じがたいことに、手口と呼べるものが、ないのです」
理事官の言葉に、室内にざわめきが走る。
「どういうことだ」
「彼の供述によりますと……彼は、ただ『開け』と念じながら、鍵穴に触れるだけ、だと。ピッキングツールも、暗証番号の解析も、一切行っていない。ただ、触れるだけで、あらゆる錠前が、まるで最初から鍵がかかっていなかったかのように、開いてしまう、と」
その異常極まりない内容に、誰もが言葉を失った。黒田は、自ら行った星野の取り調べの光景を思い出していた。
取調室のアクリル板の向こうで、星野は臆面もなく、しかしどこか夢見るような目で語っていた。
『俺は、神様に選ばれたんだ』と。
彼は、一週間前、借金に追われ、自暴自棄になっていた時に、スマートフォンの画面に、奇妙な広告が表示されたのだという。
『――欲望を、開放したくないか?――』
その怪しげな広告を、藁にもすがる思いでクリックすると、いくつかの選択肢が現れた、と。
『錠前開錠』『軽度の透明化』『紙幣複写』……。
彼は、その中から、自分の犯罪者としてのキャリアに最も役立つと考えた『錠前開錠』を選んだ。その瞬間、何かが頭の中に流れ込んでくるような感覚があり、気づいた時には、どんな鍵でも開けられるようになっていたのだ、と。
「……広告だと?」黒田は、苦々しく呟いた。「他にも、色々な能力が提示された、と。その情報は、確かなんだな?」
「は、はい。彼のスマートフォンの解析を進めていますが、不審な広告のキャッシュデータが断片的に見つかっています。復元には至っていませんが、彼が嘘を言っているとは考えにくいかと……」
理事官の言葉が、部屋にいる全員の背筋を凍らせた。
ビビり散らかしていた、という表現が生ぬるいほどの、戦慄がその場を支配した。
つまり、こういうことだ。
世界には、今、星野のような「能力者」が、他にも複数、あるいは何十、何百と存在する可能性がある。鍵を開ける能力だけではない。『透明になる』能力者や、『お札をコピーする』能力者まで、いるかもしれない。
「……まさか」
最初に声を上げたのは、分析官の佐伯だった。彼女は、血の気の引いた顔で、モニターに表示されたもう一つの資料を指さした。それは、この一週間で報告が急増していた、原因不明の現金過不足に関する全国データだった。
「この、金額が合わないという報告……まさか、これが『紙幣複写』の能力によるものだと……?」
その仮説は、悪夢そのものだった。
もし、偽札――それも、専門家ですら見分けのつかない、完璧な偽札が、市中に大量に出回っているとしたら?
それは、単なる犯罪ではない。国家の根幹を揺るがす、経済テロだ。いや、もはやテロというより、経済システムの崩壊そのものだ。
上層部は、大混乱に陥った。
これまで、彼らは自分たちの土俵で戦ってきた。法律、物理法則、科学的知見。そういった、人類が積み上げてきた「秩序」の上で。
しかし、今、彼らが直面しているのは、その全てを嘲笑うかのような、超常的な「暴力」だった。
念じれば鍵が開く。広告をクリックすれば、超能力が手に入る。そんな馬鹿げたことが、現実になっている。
「一体、誰が、何のためにこんなことを……」
「目的は、社会の混乱そのものか……」
「これは、どこか特定の国の仕業なのか? いや、それにしては、あまりに突飛すぎる……」
議論は、どこまでも平行線を辿った。
黒田は、重く閉ざしていた口を開いた。
「……諸君、我々は、認識を改めなければならない」
その声には、疲労と、そして諦念にも似た、しかし確かな覚悟が滲んでいた。全員が、黒田の顔に注目する。
「我々が今、対峙しているのは、もはや従来の『犯罪』ではない。これは、パラダイムシフトだ。人類の歴史における、一つの転換点と言ってもいい」
「転換点、ですと……?」
「そうだ。銃や火薬が戦争の形を変えたように、インターネットが社会の形を変えたように、この『スキル』とやらが、我々の世界のあり方を、根底から覆そうとしている。我々は、その最初の波に、今、飲み込まれようとしているんだ」
黒田は、立ち上がった。その目は、赤く充血していたが、その奥には、絶望の淵から這い上がってきた者だけが持つ、冷たい光が宿っていた。
「直ちに、総理に上申する。この準備室を、正式な対策本部へと格上げし、大幅な権限と予算を要求する。そして、これらの能力者を『特殊技能保持者』、仮称『アルター』として定義し、新たな法整備と、専門の対策部隊の創設を急ぐ」
「そ、そんな、あまりに飛躍しすぎでは……」
「飛躍だと? 現実が、我々の常識を遥かに超えて飛躍しているんだ! 我々が足踏みをしている間に、状況は刻一刻と悪化している!」
黒田の怒声が、部屋に響き渡った。
「佐伯君!」
「は、はい!」
「G7、及び国連安保理のカウンターパートと、極秘裏に連絡を取れ。議題は『全世界で同時発生が疑われる、超常的能力による社会混乱事案について』だ。各国も、必ず同じ問題に直面しているはずだ。情報を共有し、対策を協議する。一刻の猶予もない」
これは、もはや日本一国の問題ではない。全人類に対する、見えざる敵からの「攻撃」なのだ。もし、各国が自国の利益や体面を優先し、この問題の存在を隠蔽し、連携を怠るようなことがあれば、それこそが敵の思う壺だ。
「このままでは、社会が、秩序が、崩壊してしまう……!」
黒田は、心の底から叫んでいた。
法とは、国家とは、社会とは、人々が「人間には超能力などない」という、共通の、暗黙のルールの上で成り立っていた、脆い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
その前提が、今、崩れ去った。
神の気まぐれか、悪魔の悪戯か。
その正体不明の「何か」によって、世界は、新しい、そして混沌に満ちた時代へと、強制的に足を踏み入れてしまった。
東京の、名もなき準備室で、数名の官僚たちが抱いた強烈な危機感。
それは、これから世界を覆い尽くす、巨大な絶望の、ほんの小さな兆しに過ぎなかった。