第49話 楽園の余命宣告と最後の対話
その日、世界から無邪気な笑いが消えた。
邪神が、巨大匿名掲示板に降臨し、気まぐれに告げた「あと二週間」という、あまりにも無慈悲な楽園の余命宣告。
最初は、誰もがそれを信じなかった。いや、信じたくなかった。
「またカミ様の悪趣味なジョークだろ?」
「手の込んだ愉快犯のなりすましじゃないのか?」
人々は、そう言って笑おうとした。だが、その笑みはひきつり、乾いていた。心の最も深い場所で、誰もが理解していた。あれは、本物だと。あの軽薄で、底なしの悪意を湛えた神の声は、紛れもなく本物なのだと。
その集団的な希望的観測を、冷酷な現実へと叩き落としたのは、皮肉にも、人類の「理性」の最後の砦、IARO(国際アルター対策機構)だった。
邪神の降臨から、わずか三時間後。
IARO事務総長、黒田の名で、全世界に向けて、極めて短い、しかし絶望的なまでに誠実な公式声明が発表された。
『――当機構の最高レベルの分析の結果、先日匿名掲示板上に出現した『GM_Chaos』を名乗る存在は、過去のデータと照合し、邪神本人である可能性が極めて高いと判断されました。……同存在が言及した『あと二週間』という期間の信憑性についても、現在全力で分析を進めていますが……国民の皆様におかれましては、最悪の事態を想定し、冷静に行動されますようお願い申し上げます』
その無機質で官僚的な文章は、事実上の死刑宣告だった。
世界は、歓喜の頂点から、一瞬にして奈落の底へと突き落とされた。
テレビのニュースキャスターは、その声明を、涙で声を詰まらせながら読み上げた。街頭の巨大ビジョンは、その残酷なテキストをただ繰り返し表示し続けた。世界中のSNSのタイムラインは、「#残り二週間」、「#End of Paradise」、「#さよなら統一言語」といった、悲痛なハッシュタグで埋め尽くされた。
パニックが、起きるかと思われた。
暴動や略奪が、再び世界の日常を覆い尽くすかと思われた。
だが、不思議なことに、世界は沈黙した。
それは、諦観ではなかった。それは、麻痺でもなかった。
それは、あまりにも巨大で、あまりにも共有された一つの「悲しみ」が、世界中の七十億の人々の心を同時に鷲掴みにしたことによる、荘厳な静寂だった。
誰もが、同じ喪失感を抱えていた。
誰もが、同じ運命を背負っていた。
そして、誰もが同じ問いにたどり着いた。
「――残されたこの二週間を。我々はどう生きるべきか?」
その問いに対する答えが最初に見つかったのは、アイルランド、ダブリンの古びたパブの中だった。
その夜、そのパブは、ありとあらゆる人種と国籍の客でごった返していた。皆、テレビの絶望的なニュースから逃れるように、この薄暗いアルコールの聖域へと吸い寄せられてきた、魂の難民たちだった。
誰も、何も話さない。ただ、黙ってギネスの黒い液体を喉へと流し込むだけ。重苦しい沈黙が、店を支配していた。
その沈黙を破ったのは、カウンターの隅で一人飲んでいた白髪の老人だった。
彼は、おもむろに、その皺だらけの手にしていた古いアコースティックギターを爪弾き始めた。
そして、歌い出した。
それは、この国の古い、古い別れの歌だった。故郷を離れ、二度と会えぬ友を想う、哀切なメロディ。彼の嗄れた、しかし深い歌声が、パブの湿った空気を震わせた。
その歌声は、もはやアイルランド語という特定の言語ではなかった。
それは、言語統一の奇跡によって、そこにいる全ての客の魂に直接響き渡る、「別れ」と「喪失」の普遍的な感情そのものだった。
隣の席で飲んでいた、日本からの若いバックパッカーの青年が、顔を上げた。彼は、その歌に込められた遠い故郷への想いと、失われた友への愛情を、完璧に理解していた。
テーブル席にいた、ブラジルからの陽気なビジネスウーマンが、グラスを置いた。彼女は、その哀しい旋律の中に、自らがかつて経験した恋人との永遠の別れの痛みを、見ていた。
ドイツからの厳格な大学教授が、静かにその分厚い眼鏡を外し、目頭を押さえた。彼は、その歌の中に、第二次大戦で父を亡くした母が、毎晩窓辺で一人口ずさんでいた、あの子守唄の響きを聞いていた。
やがて、誰からともなく、小さなハミングが始まった。
それは、さざ波のように店全体へと広がっていった。
日本人の青年も、ブラジル人の女性も、ドイツ人の教授も、そしてそこにいた全ての見ず知らずの他人たちが、一つのメロディを共に口ずさんでいた。
彼らは、互いの顔を見た。
そこにあったのは、もはや国籍も、人種も、年齢も、性別も、何もかもを超越した、ただ同じ痛みを分かち合う「人間」の顔だった。
老人の歌が、終わる。
後に残されたのは、温かい拍手と、そして誰かが鼻をすする音だけだった。
そして、その一曲の歌が、魔法の鍵となった。
「……良い歌だな」
日本人の青年が、日本語で呟いた。
「ええ、本当に。心が震えたわ」
ブラジル人の女性が、ポルトガル語で答えた。
「……人生とは、別れの連続だ。我々は、常に何かを失い続ける。だが、歌だけが、その記憶を永遠に留めてくれる」
ドイツ人の教授が、ドイツ語で静かに語った。
そこから、堰を切ったように人々は語り始めた。
自らの人生を。自らの喜びを。自らの悲しみを。
彼らは、互いの母国語で、自由に、そして心の赴くままに語り続けた。
これまで、決して誰にも話すことのなかった、心の奥底の物語を。
なぜなら、彼らは知っていたからだ。
この完璧な魂のコミュニケーションが許される時間は、もう二週間しか残されていないということを。
その夜、ダブリンのその小さなパブは、世界で最も誠実で、最も温かい対話の場所になっていた。
そして、その奇妙で、美しく、そしてあまりにも悲しい現象は、ダブリンの一軒のパブに留まらなかった。
それは、まるで聖霊の降臨のように、全世界へと同時多発的に広がっていった。
世界中の人々が、その夜、眠らなかった。
彼らは、家から路上へ、広場へ、カフェへ、そしてインターネットの海へと繰り出していった。
そして、ただひたすらに語り合った。
これまで、決して交わることのなかった他人と。
ニューヨークの、再建されたセントラルパーク。
そこでは、数千人という人々が芝生の上に輪になって座り、夜通し語り明かしていた。
一週間前まで、互いを「魔王」ではないかと疑い、憎み合っていた同じ市民たちが。今は、互いの手を握り、互いの罪を赦し合い、そして共に涙を流していた。
「……すまなかった。俺は、お前を疑っていた」
「……いいんだ。私も、あなたを信じきることができなかった」
「……我々は、皆、弱かった。ただ、それだけだ」
彼らは、ニューヨークのあの地獄を共有した唯一の仲間として、その癒えることのない傷を互いに舐め合っていた。
パリの、セーヌ川のほとり。
若い芸術家たちが国籍を超えて集まり、即興の詩を読み上げ、即興の音楽を奏で、そして夜を徹して一枚の巨大なキャンバスに共同で絵を描き続けていた。
それは、喜びと悲しみと、希望と絶望と、生と死と、その全ての矛盾を内包した、あまりにも美しく、そしてあまりにも混沌とした、現代の「ゲルニカ」だった。
IAROの、中央司令室。
黒田は、モニターに映し出された、その全世界で同時多発的に起きている「最後の対話」の光景を、ただ呆然と見つめていた。
彼の目の前では、スーパーコンピュータ『ヤタガラス』が、警告のアラートを鳴らし続けていた。
『警告:全世界で、市民間の情報交換量が異常値に達しています。これは、社会的な集団ヒステリーの前兆である可能性が……』
だが、黒田はそれを無視した。
彼の目には、それはヒステリーなどではなかった。
それは、むしろ、人類が歴史上初めて到達した、最も理性的で、最も崇高な精神の境地に見えた。
人々は、終わりを知ったからこそ、限りある時間の尊さを知ったのだ。
そして、その限られた時間の中で最も価値のある行為が、他者と心を通わせることだと、本能的に悟ったのだ。
「……美しい……」
黒田は、思わずといった風に呟いた。
「……なんと美しく、そして、なんと愚かなんだ。人間という、生き物は……」
佐伯が、彼の隣に静かに立った。
「……事務総長……」
「……分かっている」
黒田は、彼の言わんとしていることを遮った。
「……このあまりにも美しい光景こそが、邪神が仕掛けた最後の、そして最悪の罠なのだということをな」
そうだ。
黒田は、理解していた。
スキル神が言っていた、本当の意味を。
『――与えられた物を、奪われた時ほど悲しい事はないのじゃよ』。
今この瞬間、人類は、歴史上最も深く互いを理解し、互いを愛している。
この二週間で築き上げられる、このあまりにも強固で、あまりにも尊い魂の絆。
それこそが、二週間後、言語という名の壁が再び彼らの間にそびえ立った時、彼らを最も深く傷つける凶器へと変わるのだ。
一度、魂の伴侶となってしまった相手が、再び理解不能な言葉を話す「他人」へと戻ってしまった時の、その絶望。
その、喪失感。
その、孤独感。
それは、もはや以前の、ただ言葉が通じないというだけの世界よりも、遥かに、遥かに残酷な地獄だろう。
人々は、今、自らの手で、自らをより深い絶望へと突き落とすための準備をしてしまっているのだ。
そのあまりにも悲しい真実に気づかぬまま、ただ純粋に、最後の対話を楽しんでいる。
黒田の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼に、できることは何もなかった。
ただ、この美しくも残酷な人類の最後の饗宴を、静かに見守ることだけだった。
その頃、日本の安アパートの一室。
空木零は、その全世界で繰り広げられる、あまりにも詩的で、あまりにも悲劇的な光景を、モニター越しに眺めていた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、静かにコンビニで買ってきた一本の安物の赤ワインを、グラスに注いだ。
そして、その血のように赤い液体を、モニターに映る愚かで愛おしい人間たちの姿に、そっと掲げた。
まるで、これから処刑される罪人の最後の晩餐に付き合う看守のように。
あるいは、自らが脚本を書き、演出した最高の悲劇の舞台の成功を祝う、監督のように。
「……乾杯」
彼は、ぽつりと呟いた。
その声は、誰にも届かない。
ただ、彼の退屈な日常と、世界の非凡な終焉が交差する、その部屋の静寂の中に吸い込まれて消えていった。
楽園の終わりまで、あと13日。
人類の、最も美しく、そして最も悲しい夜が、明けようとしていた。