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第47話 黄金期の謳歌と神が告げる暗黒の未来

 その日、黒田は、自らの執務室で、生まれて初めて「希望」という名の温かい液体が、心の隅々まで満たしていくのを感じていた。

 IARO(国際アルター対策機構)の本部は、もはや人類の存亡を賭けた最前線の砦というよりも、新たな時代の幕開けを祝祭する壮麗な神殿の様相を呈していた。地下深く、外界から完全に隔離されたその空間にまで、世界中から届く歓喜と祝福の熱気が伝わってくるかのようだった。


 邪神による「言語統一」が始まってから、二週間。

 世界は、文字通り生まれ変わっていた。

 黒田の目の前の巨大な戦略モニターが映し出す光景は、数週間前まで彼が毎夜悪夢にうなされるほど見てきた、あの絶望的な赤い光点に満ちた世界地図ではなかった。そこに広がっていたのは、奇跡としか言いようのない、青く清浄な光景だった。


『速報:中東和平交渉、歴史的合意に到達。イスラエル、パレスチナ両首脳、互いの母国語で直接対話し、涙ながらに固い握手を交わす。「我々は、70年間同じ月を見ながら、違う言葉で同じ痛みを語っていただけだった」』

『朗報:アフリカ連合、経済共同体及び不可侵条約の締結を正式に発表。「言語の壁は、我々の間に存在しない壁を作り出していた。今日、我々は真の意味で一つの家族となる」』

『快挙:国際合同研究チーム、アルツハイマー病の根本治療薬の開発に成功。各国の研究者が、言語の壁なくリアルタイムでデータを共有した結果、従来の10分の1以下の期間で不可能を可能に』


 報告書の、一行一行が、黒田の疲れ切った魂を優しくマッサージしていくようだった。

 紛争は、終わりつつあった。憎しみは、雪解け水のように、その激しさを失いつつあった。飢餓や病といった人類共通の敵に対して、人々は初めて、一つの軍隊として立ち向かうことができていた。

「プロジェクト・プロメテウス」も、『人類憲章』も、もはや必要ないのではないか。黒田がそう思ってしまうほどに、世界は、彼が理想とした、いやそれ以上に完璧な「秩序」を、自律的に形成し始めていた。


「事務総長。米国防総省、マクブライド長官より定例のテレビ会議です」

 部下である佐伯の、明るい声が響く。その声にも、以前のような張り詰めた緊張の色はなかった。

「……ああ、繋いでくれ」

 モニターが切り替わり、そこにアメリカ軍のトップ、マクブライドの厳つい顔が映し出された。数週間前までなら、この会議は、互いの腹を探り合い、言葉の裏を読み合う極度の緊張を強いられる、外交戦の最前線だった。だが、今は違う。


『――やあ、クロダ! そっちの今日の昼飯は、なんだ? 俺は、このでかいTボーンステーキだ! うらやましいだろ!』


 マクブライドは、画面の向こうで巨大な肉の塊をフォークで突き刺しながら、悪戯っぽく笑った。彼の、そのあまりにもくだけた英語のジョーク。その言葉に込められた、「お前も少しは休めよ」という武骨な、しかし温かい気遣いのニュアンスが、黒田の脳に直接流れ込んでくる。

 黒田は、思わずふっと笑みをこぼした。

「……残念ながら、私は味気ない栄養補助食だ。あなたのような、野蛮な肉を食らう趣味はなくてね」

 黒田の、その日本語の完璧な皮肉。それは、一瞬でマクブライドの脳内で、完璧な意図と共に再生された。

『――HaHaHa! 言うようになったじゃないか、ミスター・サムライ! その石頭のお前が、ジョークを言うようになるとはな! だが、良いことだ。その調子で、少しは肩の力を抜け。……世界は、俺たちが思っていたよりも、ずっと良い方向に向かっている。……そうだろう?』


 そうだと、黒田も思った。

 世界は、良くなっている。

 邪神の、その真意は分からない。だが、結果として、彼がもたらしたこの「言語統一」は、人類にとって最高の贈り物だったのかもしれない。

 この平和が、続くのであれば。

 あるいは、我々は神のその気まぐれな善意を、ただ享受すれば良いのかもしれない。

 そんな、これまで決して彼が抱くことのなかった、穏やかな、そして少しだけ怠惰な考えが、彼の頭をよぎった。


 会議が、終わる。

 黒田は、深く椅子の背もたれに身を預けた。そして、執務室の窓から見える地下都市の人工の空を眺めた。

 この、5年間。いや、それ以上。ずっと、走り続けてきた。休むということを、忘れていた。

 だが、今なら、少しだけ休んでも良いのかもしれない。

 この奇跡のような平和な時代が、続くのであれば。

 彼は、ゆっくりと目を閉じた。

 心地よい微睡みが彼を包み込もうとした、その瞬間。


 執務室の空気が、変わった。

 黒田は、目を開けた。

 彼の目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった超越者の老人が、音もなく姿を現していた。

 スキル神。

 その顔には、いつもの穏やかな好々爺のような笑みはなかった。

 代わりに、そこにあったのは、深い、深い憐憫の色。まるで、これから死刑宣告を受ける哀れな囚人を見つめるかのような、悲しみの色だった。


「……スキル神。……何か、あったのですか」

 黒田の声に、再び鋼鉄の緊張が戻る。


『あやつめ……』

 スキル神は、ぽつりと呟いた。その声は、ひどくか細く、そして疲れ切っているように聞こえた。

『……予想通りとはいえ……。とんでもない事を、しでかしたな……』


 その、不吉な第一声。

 黒田は、立ち上がった。

「……どういう意味ですかな。彼の、その『とんでもない事』のおかげで、世界は今、歴史上最も平和な時代を謳歌しています。紛争は終わり、人々は互いを理解し始めている。一体、これのどこに問題が?」

 黒田は、少しだけ苛立ちを込めて問い返した。この穏やかな、希望に満ちた空気を壊されたくなかった。


『……うむ』

 スキル神は、悲しげに頷いた。

『それこそが、問題なのじゃ。黒田よ。お主は、完全に、あやつの術中にハマっておるぞい』

「術中だと……?」

『そうじゃ。お主は、目の前のそのあまりにも甘美な果実の味に酔いしれるあまり、その果実が毒リンゴであることに、気づいておらん』

『これは、あやつが言ったはずじゃ。『バベルの塔の再現』じゃと。……ならば、その物語の結末がどうなるか。聡明なお主なら、もう分かっておるはずじゃろう?』


 黒田の脳裏に、あの旧約聖書の一節が蘇る。

 天まで届く、巨大な塔を築こうとした人間の傲慢。それに怒った神が、人々の言葉を混乱させ、互いに意思疎通ができなくさせた。その結果、塔の建設は中断され、人々は世界中に散り散りになっていったという、あの物語。


「……言語統一が、なくなる……? そして、我々はまた以前のバラバラの状態に戻るだけだと? ……確かに、それは大きな混乱を招くでしょう。ですが、我々は一度この相互理解の素晴らしさを知った。その記憶さえあれば、時間をかけてでも、また以前より良い世界を築けるはずだ。それだけの価値は、あったはずです!」

 黒田は、必死に反論した。

 それは、彼がこの二週間、抱き続けてきた希望的観念。

 だが、スキル神は、そのあまりにも脆い希望を、あまりにも無慈悲な一言で、粉々に打ち砕いた。


『――いや。違うのじゃ、黒田よ』

『お主は、根本的に間違っておる。……事態は、そんな生易しいものでは、断じてない』


 スキル神は、空中にそっと手をかざした。

 すると、彼の手のひらの上に、二つの光の球体が現れた。

 一つは、温かい黄金色の光。もう一つは、冷たい漆黒の光。


『黒田よ。今の人類は、この黄金の光を与えられておる状態じゃ。邪神が気まぐれに与えた、『完璧な相互理解』という奇跡の光じゃ。この光の効果が続く内は……そうじゃな、おそらくあと二週間ほどか。その間、人類は、間違いなく歴史上最も輝かしい『黄金期』を謳歌するじゃろう』

『あらゆる問題が解決され、あらゆる憎しみが消え去る。まさしく、地上の楽園じゃ。人々は、この幸福が永遠に続くと信じて疑わん。……そうして、この光の温かさに、完全に魂の芯まで慣れきってしまう』


 黒田は、ごくりと喉を鳴らした。

 スキル神の、その淡々とした口調が、逆に不気味だった。


『……じゃが、その後じゃ』

 スキル神の瞳から、光が消えた。その、星々を湛えていたはずの瞳が、まるでブラックホールのように、深く暗い虚無の色に染まる。

『……その後は、ずっと暗黒期になるのじゃ』

「……暗黒期……?」

『そうじゃ。……お主は、『以前の状態に戻るだけ』と言ったな。……違う。断じて違う。お主たちは、もはや二度と『以前』には戻れん。戻ったとしても、そこはもはやお主たちが知っておるかつての世界ではない。そこにあるのは、以前よりも遥かに深く、そして救いのない絶望の世界じゃ』

『なぜなら……』

 スキル神は、ゆっくりとその漆黒の光の球体を、黒田の目の前に突きつけた。

 その闇の深淵を覗き込んだ黒田は、全身の血が凍り付くような悪寒を感じた。


『――与えられた物を、奪われた時ほど悲しい事はないのじゃよ』


『考えてもみよ。生まれてからずっと目が見えなかった者と、一度美しい世界を見た後でその光を奪われた者。……どちらが、より深い絶望を味わうか』

『生まれてからずっと貧しかった者と、一度王侯貴族のような贅沢な暮らしを知った後で全てを失った者。……どちらが、より強く世界を憎むか』

『邪神がやっておるのは、それと同じことじゃ。……あやつは、人類に一度、完璧な楽園の景色を見せる。そして、その最も幸福な瞬間に、その楽園を人々の目の前で根こそぎ奪い去る。……後に残るのは、何じゃ?』

「…………」

『後に残るのは、『失われた楽園の記憶』という、決して癒えることのない呪いじゃ』


『人々は、思い出すじゃろう。かつて、自分たちがいかに素晴らしく、完璧な世界に住んでいたかを。そして、その記憶が彼らの心を永遠に苛み続ける』

『なぜ、あの輝かしい時代を我々は失ってしまったのかと』

『誰のせいだと』

『そして、その憎悪の矛先はどこへ向かう? ……決まっておる。……自分たちとは違う言葉を話す、かつての『隣人』たちへじゃ』


『「お前たちのその野蛮な言語が、我々の美しかった統一言語を汚したからだ!」』

『「あの時、お前たちの国の指導者がもっと上手くやっていれば、神は我々を見捨てなかったはずだ!」』


『一度一つになったからこそ、その後の分裂は、以前とは比べ物にならんほどの深い、深い溝を生む。失われた黄金期の記憶が燃料となって、憎悪の炎は永遠に燃え盛り続けるじゃろう』

『あらゆる文化、あらゆる科学技術、この黄金の一ヶ月で築き上げられた全てのものが、解読不能なガラクタと化す。人々は、かつての栄光の残骸の上で、互いを罵り合い、殺し合う。……それこそが、あやつが望んだ本当の『バベルの塔の崩壊』。……永遠に続く、魂の内戦。……それこそが、『暗黒期』の正体じゃよ』


 黒田は、もはや立っていることすらできなかった。

 彼は、執務室の冷たい床にへたり込んだ。

 全身から、力が抜けていく。

 希望。

 彼がこの二週間、必死にそのか細い光にすがりついてきたその希望という名の概念が、今、彼の目の前で、最も醜悪で、最も残酷な絶望の同義語へと、その姿を変えていった。

 我々は、喜んでいたのではなかった。

 我々は、ただ破滅への階段を、一段、また一段と、陽気にスキップしながら登っていただけだったのだ。


 スキル神は、その絶望の淵に沈む哀れな人間の男を、ただ静かに見下ろしていた。

 その神の瞳には、もはや憐憫の色すらなかった。

 そこにあったのは、ただ絶対的な、そして変えることのできない未来の天命を、ただ淡々と告げる予言者の、虚無の色だけだった。


『……黒田よ。お主にできることは、もう何もない。……せいぜい、残されたこの二週間の偽りの黄金期を、存分に味わっておくことじゃな』

『じゃが、一つだけ覚えておけ。……最も美しい夕焼けの後には、最も暗い夜が来るものじゃ』


 その、あまりにも詩的で、あまりにも残酷な最後の言葉を残し、スキル神の気配は完全に消え失せた。


 後に残されたのは、絶対的な静寂。

 そして、その静寂のど真ん中で、ただ一人、床に蹲り、声もなく嗚咽する黒田だけだった。

 彼は、自らの頭を、強く、強く抱きしめた。

 どうすれば、いい。

 この、確定した破滅の未来を、どうすればいい。

 部下たちに、何と伝えればいい。

 世界に、何と警告すればいい。

 答えは、ない。

 どんな答えも、もはや手遅れだった。

 黒田は、初めて本当の意味で、「神」という存在の掌の上で踊らされることの、本当の絶望を理解した。

 それは、暴力でも破壊でもない。

 それは、ただ希望を与えられ、そしてそれを奪われるという、あまりにもシンプルな魂への拷問。

 そして、その拷問の執行まで、あと二週間。

 人類の、最も幸福な、そして最も残酷なカウントダウンが、今、静かに始まった。

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