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第46話 人類の最も幸福な一ヶ月

 いえーい! みんな、見てるー!

 聞こえる? 聞こえてるよね? もちろん、聞こえてるはずだ。だって、俺がそう設定したんだから! いやー、お待たせ……いや、お待たせしすぎたのかもしれないね! 君たちの退屈を何よりも憎み、最高のエンターテインメントを愛する隣人、邪神君だよ!


 ははは! すごいコメントの勢いだ! まるで、凍結されていたダムが決壊したみたいだね! 『5年間もどこ行ってた!』、『ふざけるな!』、『待ってた!』、『俺の人生どうしてくれる!』……うんうん、分かるよ、その気持ち。本当に、ごめんね! 俺もさあ、結構忙しくてさぁ。


 いや、信じられないって顔してるでしょ? 神様が、忙しいわけないって? それがね、違うんだなー。君たち、自分が住んでるこの世界が、宇宙で唯一の文明だとか思ってない? うわー、だとしたら、すっごく可愛い勘違いだね! 無限にあるんだよ、君たちみたいなのが。そう、無限。文字通り、インフィニティ。


 ちょっと目を離した隙に、別の時間軸の君たちが勝手に核戦争を始めちゃったり。また別の世界の君たちは、AIに支配されて家畜みたいになってたり。またまた別の世界の君たちは、なぜか全員が猫耳を生やす進化を遂げて、毎日ゴロゴロして何もしなくなっちゃったりね。もう、どいつもこいつも、本当に、本当に手が焼けるんだから!


 そういう拗ねちゃった子供たちを一人一人なだめて、おもちゃを修理して、また新しい遊び方を教えてあげないと、すぐに飽きて世界そのものが停滞しちゃうんだ。分かるかな、この感覚。巨大なオンラインゲームのGM兼運営兼、唯一のプレイヤーをやってるみたいな感じ? ちょっとバグが出たら修正して、マンネリ化してきたら大型アップデートを投入して。そうしないと、すぐにサービス終了になっちゃうからね。


 だから、君たちの世界の5年間なんて、俺からしたら、ちょっと別のサーバーのメンテナンスに行ってる間に過ぎ去った、ほんの一瞬。まばたき一回分くらいの、感覚なんだ。ごめんね、時間感覚がちょっと違うみたい。


 でもまあ、そのお詫びと言ってはなんだけど。そろそろ、このサーバーにも大型アップデートを入れようかなって、思ってね! その名も……ジャジャーン! 『神話再現シリーズ』だよ! パチパチパチ!


 いやー、我ながら良いタイトルだと思わない? 君たちの、そのちっぽけで想像力豊かな祖先たちが必死に考え出した、神様や英雄たちの物語。それを、この21世紀の最高の舞台で、俺が直々に再現してあげようっていう、壮大な企画なんだ! その記念すべき、パート1! 今回、再現する神話はこれだよ!


『バベルの塔、その前日譚』!


 ん? なんだい、その微妙な反応は。『地味』? 『もっと派手なのがいい』? いやいや、分かってないなあ、君たちは。物語っていうのはね、壮大な破滅があればあるほど、その前の平穏な日常がより輝きを増すものなんだよ。最高の絶望を味わうためには、まず最高の希望をその身に刻み込む必要があるのさ。


 というわけで、今回、俺が君たちにプレゼントするのはこれ!

『全人類の意思疎通が完璧に母国語で出来て、100%皮肉も文化的背景も理解できるようになる能力』だよ!


 ははは! なんだい、そのさらに微妙な反応は! 分かるよ、分かる。「なんだ、ただの翻訳スキルか」って思ったでしょ? 違う、違うんだなー、これが。俺が作るのは、そんなちっぽけなものじゃない。


 君たちが使ってる、あの不便な機械翻訳とは訳が違う。あれは、ただ言葉の『表面』をなぞってるだけだろ? でも、俺がこれから君たちに与えるのは、Ver.2.0。魂のOSレベルでの、アップデートなんだ。


 例えば、日本人の君が、アメリカ人の友達にこう言うとする。「いやー、部長の新しい髪型、攻めてますよねー」。今までの世界なら、直訳されて「Your boss's new hairstyle is aggressive」とかになって、「は? 俺の上司は平和主義者だが?」みたいに、意味不明な会話が始まるのがオチだった。


 でも、これからは違う。君が日本語でその絶妙なニュアンスを込めて言った瞬間、アメリカ人の彼の脳内には、完璧にその意図が翻訳されて再生されるんだ。『Oh, you mean his hairstyle is ridiculously bold and probably a terrible mistake, but you can't say that directly because he's our boss. Got it. That’s hilarious.(ああ、つまり部長の髪型はありえないくらい大胆で、多分大失敗だけど、上司だからはっきりとは言えないってことね。なるほど。ウケる)』ってね。


 逆に、フランス人の恋人が君にこう囁いたとする。「Je t'aime」。今までは、ただ「愛してる」っていうありふれた言葉としてしか、受け取れなかったかもしれない。でも、これからは、その言葉に込められたほんの僅かな不安、昨日の喧嘩の後悔、そしてそれでもなお溢れ出てくる純粋な愛情の響き、その文化的背景に基づいた詩的な表現の全てが、君の心に直接流れ込んでくる。


 もちろん、建前や細かなニュアンスも、ちゃんとそのまま伝わる世界になるよ。だって、その方が面白いじゃないか。100%の本音だけで構成された世界なんて、すぐに殺伐としてゲームオーバーになっちゃう。そうじゃなくて、建前は建前として理解した上で、その裏にある本音もちゃんと透けて見える。そういう、高度な心理戦が楽しめる世界にしてあげる。


 まさしく、かつてバベルの塔が建てられる前、世界中の人々が同じ一つの言葉を話していたという、あの神話の時代。その、再現さ。

 言語の壁が、なくなる。誤解が、なくなる。異文化への理解が、深まる。素晴らしいだろ? 外国人の友達も、たくさん出来るね! やったね!


 それじゃあ、前置きが長くなったけど、早速始めようか。

 いいかい? アプデは、一瞬だよ。


 はい、この瞬間から、みんなは『全人類の意思疎通が完璧に母国語で出来て、100%皮肉も文化的背景も理解できる能力』を手に入れましたー!


 さあ、どうだい?

 君たちの、そのちっぽけで愛おしい世界は、これからどんな風に変わっていくのかな?

 俺も、特等席でじっくりと観測させてもらうよ。


 その瞬間、世界から一つの「壁」が、音もなく消え去った。

 人々は、最初、何も気づかなかった。邪神の、そのあまりにも唐突で悪趣味な放送を、またいつもの大規模なサイバーテロか、あるいはカオス教団による手の込んだプロパガンダだろうと、高を括っていた。

 だが、奇跡は、最もありふれた日常の片隅から、静かに、しかし確実に世界を侵食し始めていた。


 東京、丸の内。

 とある外資系企業の、ありふれたオフィス。

 営業部の田中は、モニターに映し出されたアメリカ本社の上司であるデビッドとのテレビ会議に、うんざりしていた。田中の壊滅的な英語力と、デビッドの容赦ない早口の英語。その間には、常にAI同時翻訳の、無機質でどこか間抜けな合成音声が介在していた。


「So, Tanaka-san, about the budget for the next quarter… I need the revised proposal by this Friday. Is that clear?(というわけで、タナカサン、来期の予算ですが…金曜日までに修正案を提出してください。分かりましたか?)」

 AIが、カタコトの日本語でデビッドの言葉を再生する。

「あ、えーっと……いえす、あい、あんだーすたんど……。ふらいでー、いず、おーけー……」

 田中は、中学レベルの錆びついた英語を、必死に絞り出した。本当は、「金曜までなんて無茶苦茶だ! こっちの状況も少しは考えろ!」と叫びたかった。だが、そんなことを言えるはずもない。


 その、瞬間だった。

 デビッドが、画面の向こうで何かを言った。それは、いつもの早口の英語だった。

 だが、田中の耳に、AIの合成音声は聞こえなかった。

 代わりに。

 田中の脳内に、直接、完璧な、そしてあまりにも自然な日本語が響き渡ったのだ。


『――おいおい、タナカ。また、その死んだ魚みたいな目で分かったフリしてるだろ。金曜までなんて、絶対無理だって顔に書いてあるぞ。まあ、こっちも無理だって分かってるんだけどな。上のクソ面倒な連中を納得させるための、ただのポーズだ。とりあえず、適当に体裁だけ整えたやつを金曜に出してくれればいい。本当の勝負は、来週からだ』


「………………え?」

 田中は、固まった。

 今、聞こえたのは何だ? 幻聴か?

 画面の中のデビッドは、相変わらず何かを英語でまくし立てている。

 だが、その意味の奔流が、もはや外国語としてではなく、完璧な意図と感情と、そしてアメリカ人特有の皮肉なユーモアに満ちた「思考」そのものとして、田中の脳に直接流れ込んでくる。


「あ……あの、デビッドさん……」

 田中は、思わず日本語で話しかけていた。

「すみません、今なんて……?」

 その日本語の問いに、デビッドは一瞬きょとんとした顔をした。そして次の瞬間、彼の顔が驚愕に見開かれた。

 彼は、田中のそのたどたどしい日本語の一言一句を、完璧に理解していた。いや、理解というレベルではない。その言葉に込められた田中の深い困惑、疲労、そして上司である自分へのほんの僅かな怯えの色までを、まるで自分の感情であるかのように感じ取っていたのだ。


『――Holy shit… Tanaka, you… understand me? Perfectly? And… I understand you? What the hell is going on?(マジかよ……タナカ、お前……俺の言ってることが分かるのか? 完璧に? それに……俺も君の言葉が分かるぞ? 一体何が起きてるんだ?)』


 二人は、しばらくの間、画面越しに互いの言語で意味のない言葉を交わし続けた。

「すごい……」

『Incredible…』

「信じられない……」

『Unbelievable…』

 そして、数分後。二人は、どちらからともなく、腹を抱えて笑い出した。

 国籍も、言語も、文化も、何もかもが違う二人の冴えないサラリーマンの間に、初めて、完璧な魂のコミュニケーションが成立した瞬間だった。

 オフィス中の他の社員たちも、次々と、その奇妙で素晴らしい奇跡の訪れに気づき始めていた。

 あちこちから、驚きの声と、そしてこれまで聞いたこともないような、国籍を超えた弾けるような笑い声が響き渡っていた。


 IARO(国際アルター対策機構)本部、中央司令室。

 黒田は、モニターに映し出されたカオス同盟の最新の軍事動向を、厳しい顔で分析していた。

 その時、司令室がにわかに騒がしくなった。

「どうした! 何の騒ぎだ!」

「それが、室長! 各国のホットラインが……! 何か、おかしいんです!」

 一人の通信士が、ヘッドセットを押さえながら叫んだ。

「ロシアの国防省から緊急通信が入っているのですが……翻訳担当が誰もいないのに、なぜか通信内容が完璧に分かるんです! しかも、相手のあの独特の脅しと駆け引きのニュアンスまで、手に取るように……!」

「アメリカからもです! 大統領補佐官が、何か怒鳴っています! 『これは貴様らの仕業か! 日本の新しい精神干渉系のサイバー攻撃なのか!』と! ……ですが、その怒鳴り声の奥に、深い混乱と、子供のような好奇心が混じっているのが感じ取れます!」

 黒田は、絶句した。

 そして、彼の脳裏に、数時間前のあの悪魔の放送が蘇った。

『――はい、この瞬間からみんなは……』。

「……まさか……。本当に、やりやがったのか……。あのクソ野郎が……!」

 黒田は、吐き捨てるように呟いた。

 だが、彼のその怒りに満ちた言葉とは裏腹に。

 司令室を支配していたはずの、あの国家間の疑心暗鬼と腹の探り合いの重苦しい空気は、嘘のように消え失せていた。

 誰もが、相手の剥き出しの本音と、その裏にある文化的背景や国家としてのプライドを、あまりにもクリアに理解できてしまったからだ。

 それは、ある意味では、これまでで最も危険な状況だった。

 だが、同時に、これまでで最も「誠実」な対話が始まる予感も、そこにはあった。


 フランス、パリ、モンマルトルの丘。

 一人の若い日本人観光客の絵美は、途方に暮れていた。

 彼女は、どうしてもこの芸術の都で、敬愛する画家のジャン=ピエール・ルソーに、日本の「わびさび」という美意識について伝えたかった。だが、彼女の拙いフランス語では、そのあまりにも繊細で哲学的な概念を説明することなど、到底不可能だった。

 彼女は、カフェのテラス席でスケッチブックを広げているルソーの、その孤高な横顔を、ただ遠巻きに眺めていることしかできなかった。

 だが、その時、彼女の脳内で、あの邪神の声がリフレインした。

『――外国人の友達も、たくさん出来るね! やったね!』。

(……まさかね)

 彼女は、自嘲気味に笑った。

 だが、もし、万が一。

 彼女は、意を決して立ち上がった。そして、ルソーのテーブルへと歩み寄った。

 ルソーは、突然のアジア人の訪問者に、訝しげな視線を向けた。

「……あの、すみません! 日本から来た者です! 先生の大ファンで……!」

 絵美は、思わず日本語で一気にまくし立てていた。

 ルソーの眉間の皺が、さらに深くなる。

 だが、次の瞬間、彼のその芸術家の鋭い瞳が、驚きに大きく見開かれた。

 彼は、日本語の音の響きを聞いているのではない。

 彼は、今、絵美の魂の叫びを直接聞いていた。

『わびさび』。

 その言葉に込められた、不完全さの中に美を見出す日本の独特の宇宙観。寂しさや静けさの中にこそ存在する、豊かな心の働き。そして、この目の前の若く才能あふれるフランス人画家への、純粋な憧れと敬意。

 その全ての概念が、まるで美しい色彩の奔流のように、ルソーの芸術家の魂へと直接流れ込んでいった。

「…………Magnifique(素晴らしい)」

 ルソーは、ただ一言呟いた。

 そして彼は、自分のスケッチブックを絵美の前に差し出した。

「……君の、その『わびさび』とやらを、私に見せてはくれないか。君の言葉で。君の魂で」

 絵美の瞳から、涙が溢れた。

 二人の、天才と凡人の、国籍も言語も何もかもを超えた魂の対話が、パリの青い空の下で、静かに始まった。


 世界は、歓喜に包まれた。

 邪神がもたらした、このあまりにも唐突で理不尽な奇跡。

 それは、しかし、人類が何万年という歴史の中で一度も手にすることができなかった、最高の「贈り物」だった。

 言語の壁が消え去ったこの新しい世界で、人々は、これまでの人生で感じたことのないほどの解放感と多幸感に酔いしれていた。

 誰もが、思った。

 もしかしたら、あの邪神様は、本当は我々を救いに来てくれた真の救世主だったのではないかと。

 この完璧な相互理解の世界こそが、彼が我々に与えたかった本当の楽園だったのではないかと。

 世界中の人々が、モニターの向こうのどこかにいるはずの邪神に向かって、感謝と祈りの言葉を捧げ始めた。

 誰も、気づいてはいなかった。

 このあまりにも完璧な楽園が、たった一ヶ月後、彼らの足元から根こそぎ奪い去られることになるなどとは。

 そして、その時訪れる本当の地獄の深さを。

 まだ、誰も知らなかった。


 日本の、安アパートの一室。

 空木零は、その全世界が自分を神として崇め奉る、そのあまりにも滑稽で、あまりにも心地よい狂騒曲を、特等席で観測していた。

 彼は、新発売の激辛カップ焼きそばを一口すすりながら、心の底から満足げに呟いた。


「うんうん。良い感じに、盛り上がってきたじゃないか」

「実に良い。最高の前振りだ」

「高く、高く持ち上げれば持ち上げるほど、それを地面に叩きつけた時の音は、最高に美しいんだからねえ」


 神は、笑う。

 次なる絶望のカウントダウンを、指折り数えながら。

 人類の最も幸福な一ヶ月が、今、静かに始まった。

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