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第45話 蛇と林檎

 IARO(国際アルター対策機構)本部、地下300メートル。事務総長執務室。

 黒田は、一人静かにその「時」を待っていた。

 机の上には、湯気の立つ一杯の緑茶。そして、この一ヶ月の間に世界中で起きた、ありとあらゆる事象をまとめた分厚い報告書の束。それは、彼がこれから執り行う、あまりにも非現実的な「儀式」のための、ささやかな供物だった。

『定例ミーティング』。

 対策室の、ごく一部の最高幹部だけがその存在を知る、最高機密事項。毎月、最後の火曜日の深夜。黒田は、執務室から全ての人員を退去させ、あらゆる通信を遮断し、ただ一人、神の来訪を待つのだ。

 スキル神。

 5年前、黒田の魂の叫びに呼応し、世界中の善のアルターを覚醒させてくれた、あの超越的な存在。以来、彼は、まるで気まぐれな後見人のように、不定期に、しかしこの数年は月一度という奇妙な律儀さで、黒田の前にだけ姿を現すようになっていた。


 慣れたと、黒田は自嘲気味に思った。

 初めてこの部屋に彼が現れた時、黒田は自らの理解を超えた存在を前に、ただ身動き一つできなかった。だが、5年という歳月は、人間の感覚を良くも悪くも麻痺させる。今や、黒田にとって、この月一度の神との謁見は、G7首脳とのテレビ会議よりもよほど気楽で、そして実りのない、退屈な「定例報告会」と化していた。


「……時間か」

 壁の時計が午前0時を指した、その瞬間。

 執務室の空気が、ふっと密度を変えた。重力が、僅かに軽くなるような独特の浮遊感。黒田は、顔を上げもせず、ただ湯呑に口をつけた。

 彼の目の前、何もない空間から、あの白い和装をまとった穏やかな老人が、音もなく姿を現す。

「……お待ちしておりました、スキル神」

『うむ。今月もご苦労じゃな、黒田よ』

 スキル神は、まるで近所の好々爺が縁側で茶をすするかのように、自然に空中にあぐらをかいて座った。

「早速ですが、今月の報告を」

 黒田は、感情を排した事務的な口調で報告を始めた。

「カオス同盟の勢力圏は、先月比で0.18%拡大。主に、アフリカ中部の経済破綻国家群が、彼らの『奇跡』という名の食糧支援になびいた形です。代理戦争は、依然として世界17カ国で継続中。一進一退の膠着状態です」

「我が方の『プロジェクト・プロメテウス』は、一定の成果を上げています。特に、先日日本の研究チームが発表したアルツハイマー病の画期的な治療法は、世界中から賞賛を浴び、人々の人間への信頼を僅かながら取り戻しました」

「懸念事項は、神崎勇気君です。彼の能力は、今もなお成長を続けていますが、5年間の隔離された環境は、彼の精神に深刻な影響を与えつつあります。彼は、もはや自分を『人間』として認識できなくなり始めている……」

 黒田は、淡々とこの世界の現状を神に報告していく。

 スキル神は、ただ黙って目を閉じ、その報告を聞いているのかいないのか分からない様子で、静かに頷いているだけだった。

 いつもの、光景。

 黒田は、報告を終え、最後の、これもまたいつもの無駄だと分かっている問いを投げかけた。

「……何か、我々への助言は」

『……ふむ』

 スキル神は、ゆっくりとその瞼を開いた。

 その瞬間、黒田は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 今日の彼の瞳は、いつもの穏やかなそれとは全く違っていた。

 その、星々を湛えたような瞳の奥に、これまで一度も見たことのない、深い、深い「警戒」の色が宿っていた。


『……黒田よ』

 スキル神の声は、静かだった。だが、その静けさは、嵐の前の不気味な静けさだった。

『今宵は、お主からの報告はもうよい。……それよりも、ワシからお主に伝えねばならんことがある』

「……と、申しますと」

『あやつが、何か企んでおるぞ』


 あやつ。

 邪神

 その一言で、執務室の生ぬるい空気は、一瞬にして凍り付いた。

 黒田は、身を乗り出した。

「……何か、具体的な動きがあったのですか!? ケイン・コールドウェルが動いたとか……」

『いや』

 スキル神は、静かに首を振った。

『動きはない。……むしろ、逆じゃ。動きが、あまりにもなさすぎる。この半年。カオス同盟の全てのS級アルターたちが、まるで示し合わせたかのように、完全に表舞台から姿を消しておる。……不気味なほどにな』

「……それは、我々も把握しています。内部での権力闘争か、あるいは我々の諜報活動を警戒してのことかと……」

『甘いのう、黒田よ』

 スキル神は、ふっと息を吐いた。

『あやつは、そんなちっぽけな人間の理屈で動く男ではない。……これは、嵐の前の静けさじゃ。あやつは、力を溜めておる。次なる一撃のための、な』


『そして、その一撃は……おそらく、前のニューヨークの規模を、遥かに超えるぞ』


 黒田は、息を飲んだ。

 ニューヨークの規模を、超える。

 あの700万の人間が一度死に、世界が永遠に変わってしまった、あの神話級の惨劇を超える。

 一体、何が起きるというのだ。

 第三次世界大戦か。

 あるいは、大陸の一つでも沈めるつもりなのか。


「……いつです! それは、いつ起きるのですか!?」

 黒田は、必死に問いかけた。

 そのあまりにも人間的な「いつ」という問いに、スキル神は、少しだけ困ったような、そしてどこか哀れむような表情を浮かべた。

 そして彼は、人類には決して理解することのできない、神々の時間という概念について語り始めた。


『……黒田よ。お主たち人間にとって、時間とは、過去から未来へと一方通行に流れていく、決して逆らうことのできない川のようなものじゃろう』

「……ええ」

『じゃがな。ワシらのような存在にとって、時は、横たわる巨大な蛇のようなものなのじゃ』


 蛇。

 黒田は、その奇妙な比喩の意味を、理解できなかった。


『お主たちは、その蛇の尻尾の先から頭の先まで、腹の上を這って進む小さな蟻のようなもの。じゃから、自分のいる現在地と、這ってきた過去の軌跡しか見ることができん』

『じゃが、ワシらは違う。ワシらは、常にその巨大な蛇の全体像を、遥か上空から眺めておる。頭も、胴も、尻尾も、そのとぐろを巻いた全ての姿を、一度に見渡すことができるのじゃ。過去も、現在も、未来も、ワシらにとっては一枚の絵画のようなもの。どこを切り取り、どこを拡大して眺めるかは、ワシらの自由自在』

『あやつは、ニューヨークのあの瞬間に、次なる一手のための、小さな、小さな布石を打った。そして、その布石が芽を出し、花を咲かせるまで、ただ待っておった。それが、お主たち人間のスケールで、たまたま『5年』という歳月であったというだけのこと』


『じゃから、5年の歳月など、神々のスケールでは一瞬に過ぎんのじゃよ』


 黒田は、戦慄した。

 全身の毛穴が逆立つような、宇宙的な恐怖。

 自分たちが、この5年間、必死に血反吐を吐きながら積み上げてきた全てのものが。

 黒田の白髪も、神崎勇気の失われた青春も、世界中で代理戦争で死んでいった名もなき兵士たちの命も。

 その全てが、神にとっては、ただ一瞬の瞬きにも満たない、無価値な時間でしかなかった。

 自分たちは、ずっと5年前に仕掛けられた時限爆弾の上で、ただ無自覚に踊っていただけだったのだ。


「……では……。では、奴は一体何を企んでいるのですか……。教えてください。我々には、知る権利がある」

 黒田は、絞り出すように問いかけた。

 スキル神は、しばらく沈黙していた。

 その、星々を湛えたような瞳が、揺らいでいる。彼もまた、迷っているかのようだった。

 やがて、彼は意を決したように、重々しく口を開いた。


『……奴は、お主たちの『物語』に飽きたのじゃ』

「……物語に、飽きた?」

『そうじゃ。秩序と混沌。善と悪。その二元論の戦いは、もう見飽きた。あやつは、もっと根源的な、新しいゲームを始めようとしておる』

『あやつは、お主たちが拠り所としておる、全ての土台そのものを破壊するつもりじゃ』

「……土台……。それは、法ですか、国家ですか、それとも……」

『もっと、根源的なものじゃよ、黒田』

 スキル神は、静かに言った。

『例えば……。お主たちが、当たり前のように信じておる、「時間」という概念そのもの。……あるいは、「個人」という自我の輪郭。……あるいは、「現実」と「虚構」の境界線……』


 黒田は、もはや言葉を発することができなかった。

 言っている意味が、分からなかった。いや、分かりたくなかった。

 スキル神は、続けた。


『おそらく、あやつが企んでおるのは……』


 その、瞬間。

 スキル神の、その穏やかだったはずの老人の顔が、初めて明確な「恐怖」の色に染まったのを、黒田は見た。

 神が、恐怖している。

 その、信じがたい光景。

 スキル神は、何かを言いかけて、そしてはっとしたように、その口を固くつぐんだ。


『……いや、よそう』


 彼は、自らの言葉を打ち消した。


『……混乱させたくないからのう……』


『……すまぬ、黒田よ。ワシが、今ここでそれを口にしてしまえば、それだけで世界は終わるかもしれん。……お主たちの、その脆い理性が崩壊してしまう。……そうなれば、それこそがあやつの思う壺じゃ』


 黒田は、絶叫したかった。

 ふざけるなと。

 ここまで言って、なぜ言わない。

 一体、どんな地獄が待っているというのだ。

 神ですら語ることを躊躇うほどの、究極の絶望とは、一体何なのだ。

 だが、彼の喉からは、ひゅうという乾いた音しか出なかった。


『……ワシが言えるのは、ただ一つだけじゃ』

 スキル神の体が、再び光の粒子へと還り始めていた。

『……備えよ。……次なる戦いは、物理的な戦いにはならんやもしれんぞ』

『お主たちの武器は、もはや軍隊でもアルターでもない。……お主たちの、『正気』そのものじゃ。……決して、その理性の最後の一線を手放すでないぞ……』


 そのあまりにも不吉で、あまりにも抽象的な最後の警告を残し、スキル神の気配は完全に消え失せた。


 後に残されたのは、絶対的な静寂。

 そして、その静寂のど真ん中で、ただ一人立ち尽くす黒田だけだった。

 彼は、しばらくの間、身動き一つできなかった。

 全身から、血の気が引いていく。

 手足の感覚が、ない。

 彼の優秀すぎる頭脳が、今、猛烈な勢いで回転を始めていた。

 スキル神が語らなかった、最悪のシナリオ。

 それを、必死にシミュレーションしようとしていた。


 混乱。

 スキル神は、そう言った。

 どんな攻撃が、人間を最も混乱させる?

 ニューヨークを、超える規模。

 物理的な、破壊ではない。

 正気を保てと、彼は言った。

 時間の、概念。個人の、輪郭。現実と、虚構の境界線。

 それらを、破壊する。


「……まさか……」


 黒田の口から、声にならない声が漏れた。

 一つの、あり得ない、しかし最も辻褄の合う最悪の仮説が、彼の脳内で形を結び始めていた。

 もし、邪神が、全世界の全ての人間の「記憶」を書き換えたとしたら?

 例えば、『人類憲章なんて、最初から存在しなかった』と。

 例えば、『カオス同盟こそが、世界の正当な統治者であった』と。

 例えば、『黒田、お前は人類を裏切った最悪のテロリストだった』と。

 そうなれば、どうなる?

 自分一人だけが「本当の過去」を知っていて、他の全ての人間が「偽りの過去」を真実だと信じている。

 その時、果たして自分は、自分の「正気」を保っていられるだろうか。

 あるいは、もっと酷い可能性。

 自分自身の記憶すらも、書き換えられてしまったとしたら?

 自分が誰で、何を信じていたのかも、分からなくなってしまったとしたら?

 それこそが、神が語ることを躊躇った、究極の地獄。

 魂の、殺人。


「……う……あ……ああ……」


 黒田は、その場に崩れ落ちた。

 彼は、自らの頭を、強く、強く抱きしめた。まるで、そうでもしなければ、今この瞬間にも自分の自我が溶け出してしまいそうだったからだ。

 どうすれば、いい。

 こんな攻撃に、どう備えろと言うのだ。

 答えは、ない。

 完全な、チェックメイト。

 彼は、初めて本当の意味で、神という存在の底知れない悪意の深淵を垣間見た。

 そして、悟った。

 自分たちがこれまで戦ってきたものは、全て、神の壮大な暇つぶしの、ほんのプロローグにすらなっていなかったのだと。

 本当の絶望は、まだ始まってすらいなかったのだと。


 黒田は、震える手で、総理大臣官邸へのホットラインを掴んだ。

 何を報告すればいいのか、彼自身にも分からなかった。

 だが、伝えなければならない。

 この、言葉にすることすら恐ろしい破滅の予感を。

 彼が受話器を耳に当てた、その瞬間。

 彼の腕時計のアラームが、微かな電子音を鳴らした。

 午前、1時。

 新しい一日が、始まっていた。

 それは、もしかしたら、人類が「昨日までと同じ自分」でいられる、最後の一日なのかもしれなかった。



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