第44話 アメリカのヒーロー
アメリカ合衆国、アリゾナ州。
どこまでも続く赤茶けた荒野を貫く、一本のひび割れたアスファルトの道。かつては「ルート66」と呼ばれ、自由と希望の象徴だったその道は、今や文明の墓標のように静まり返っていた。
その忘れ去られた道を、一台の黒いクラシックなマッスルカーが、V8エンジンの野太い咆哮を上げながら東へと疾走していた。
運転席に座っているのは、息を呑むほどの美しいブルネットの女性。歳は、20代半ば。そのしなやかな肢体は、パイロットが着るような機能的な黒いジャンプスーツに包まれている。彼女のアーモンド形の大きな瞳は、サングラス越しにも分かるほど鋭く、そしてどこか退屈そうに、前方の陽炎だけを見つめていた。
彼女の名は、クロエ・サリヴァン。
アメリカ政府が、IAROとは別に設立した対アルター脅威対策組織、『超常事態対策局(Department of Altered Affairs、通称:DAA)』に所属する、最高ランクのエージェント。
そして、世界でも数えるほどしか存在しない、S級の空間転移能力者。そのコールサインは、『ゲートキーパー』。
「……ねえ、ジョシュ。BGM、変えてもいい?」
クロエが、バックミラー越しに、後部座席にだらしなく寝そべっている相棒に話しかけた。
「このカントリーミュージック、もう3時間も聞きっぱなしよ。私の脳みそが、干し草になりそうだわ」
後部座席で長い手足をもて余すように横たわっていた青年が、ゆっくりと顔を上げた。
ジョシュア・レヴィン。23歳。
5年前、ホスピスのベッドの上で、静かに死を待つだけだった余命幾許もない少年。その面影は、もうどこにもない。
奇跡によって完全に健康を取り戻したその肉体は、適度な訓練によってしなやかな筋肉をその身に纏い、かつて天文学者を夢見ていた知的な光を宿すその瞳は、今は絶対的な自信と、そしてどこか達観したような穏やかさに満ちている。
彼は、アメリカ国民から、畏怖と絶大な信頼を込めて、こう呼ばれていた。
『シールド・オブ・リバティ(自由の盾)』と。
「いいじゃないか、ジョニー・キャッシュ。この荒野には、ぴったりだろ」
ジョシュアは、欠伸をしながら言った。
「君の好きな、あの電子音の洪水みたいな音楽よりは、百万倍マシだよ」
「あれは、フューチャー・ファンクって言うの。あなたの、その化石みたいな感性じゃ、理解できないでしょうけど」
「はいはい。分かった、分かった。じゃあ、君のその未来の音楽とやらに付き合ってあげるよ。……その代わり、次の街に着いたら、特大のチリチーズドッグ、奢ってくれよな」
「……それで、手を打つわ」
クロエは、ふっと口元を緩めると、カーオーディオのスイッチに手を伸ばした。
それが、彼らの日常だった。
彼らは、二人一組で、この広大すぎるアメリカ大陸を常に放浪している。
カオス同盟の影響力は、この国では日本の比ではない。国境は長く、監視の目は行き届かない。いつ、どこで、カオス教団に感化されたテロリストが牙を剥くか、予測がつかなかった。
だから、彼らは待つ。
事件が、起きるのを。
そして、その一報が届けば、5分以内にアメリカ全土のどこへでも駆けつける。
クロエの絶対的な「移動」と、ジョシュアの絶対的な「防御」。
その二つの規格外のスキルが、この5年間、アメリカ本土を決定的な崩壊から守り続けてきた、最後の砦だった。
その瞬間。
クロエが身につけていたイヤホンから、無機質なアラート音が響いた。
彼女の表情から、退屈そうな色が消え失せる。
「……来たわね」
「場所は?」
「シカゴ。ミレニウム・パーク。……あら、観光名所じゃない。派手にやってくれてるみたいね」
クロエはそう言うと、車のハンドルから手を離し、ダッシュボードのあるボタンを押した。車は、自動運転モードへと切り替わる。
彼女は、シートベルトを締め直すと、ジョシュアに向き直った。
「準備はいい、ボーイスカウト?」
「いつでもどうぞ、お嬢様」
ジョシュアは、後部座席から上半身を起こすと、不敵に笑った。
クロエは、ふっと息を吐くと、その美しい両の手のひらを前方の何もない空間に突き出した。
「――ゲート、開きます」
彼女のスキル、【ゲートキーパー】。
彼女の声に呼応し、車のボンネットの数メートル前方の空間が、まるで水面のように揺らめき始めた。そして、そこから二つの光り輝くリングが生まれ、互いに逆方向に高速回転を始め、やがて安定した円形の「門」を形成する。
門の向こう側には、信じられないことに、アリゾナの乾いた荒野ではなく、高層ビルが立ち並ぶ都会の喧騒が広がっていた。
「行き先は、シカゴ、ミレニウム・パーク上空、高度300。……3、2、1……」
クロエは、アクセルを強く踏み込んだ。
黒いマッスルカーは、轟音と共に光の門へと突入し、そしてアリゾナの荒野から完全にその姿を消し去った。
イリノイ州、シカゴ。
その街の中心にあるミレニウム・パークは、今、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
公園の象徴である巨大な銀色のオブジェ『クラウド・ゲート』――通称『ザ・ビーン』は、その美しい鏡面の一部が、まるで病に侵されたかのように、茶色い砂の塊へと変わり果て、崩れ落ちていた。
その周囲では、三人のアルターが破壊の限りを尽くしていた。
一人は、突風をその身に纏う巨漢の男。彼が腕を一振りするだけで竜巻が発生し、公園の木々を根こそぎなぎ倒していく。
一人は、両の手から眩い光の槍を無数に放つ女。その光の槍は、あらゆる物体を貫通し、駆けつけたパトカーを次々と蜂の巣にしていく。
そして、その中心にいるリーダー格の痩せこけた男。彼が地面に手を触れるだけで、アスファルトもコンクリートも全てが砂と化し、底なしの流砂の地獄を作り出していた。
彼らは、カオス同盟の思想に感化されたテロリスト集団、『デザート・ストーム(砂漠の嵐)』。
「ははは! 見ろ! これが偽りの秩序の脆さだ!」
風使いの男が、高らかに笑う。
「シカゴは、我々が解放する! 神の混沌の御名の下に!」
砂使いのリーダーが、演説をぶつ。
だが、その演説を遮るように。
彼らの頭上の空が、一瞬、強く発光した。
次の瞬間、空中に光の門が開き、そこから一台の黒いマッスルカーが、まるで隕石のように凄まじい勢いで落下してきたのだ。
「――な、なんだ!?」
テロリストたちが呆気に取られている、その僅かな時間。
車は、公園の芝生の上に完璧な着地を決め、そのドアがゆっくりと開かれた。
最初に降りてきたのは、黒いジャンプスーツに身を包んだクロエ。
そして次に、ごく普通のTシャツとジーンズというラフな格好のジョシュアが、まるでピクニックにでも来たかのように、のんびりと降りてきた。
通報から、4分38秒。
アメリカの正義は、常に約束の時間通りに到着する。
「……さてと。思ったより、派手にやってるな」
ジョシュアは、頭の後ろで腕を組みながら、その地獄絵図を眺め、呟いた。
「風と、光と、砂か。……まるで、B級の特撮映画だな」
「お喋りはそのくらいにして、さっさと終わらせるわよ」
クロエが、吐き捨てるように言う。
「……ふん、二人だけで何ができる!」
風使いの男が、怒りの咆哮を上げ、これまでで最大級の巨大な竜巻を発生させ、二人へと叩きつけた。ビルすらも吹き飛ばす、暴風の壁。
だが。
ジョシュアは、動かなかった。
彼は、ただその場に立っているだけ。
彼の周囲、半径約1メートルの空間。そこに展開されている、不可視の絶対的な防御フィールド、【絶対領域】。
竜巻は、その見えない壁に触れた瞬間。
まるで鏡に映った映像のように、そのベクトルを完璧に180度反転させた。
「――なっ!? ば、馬鹿な!」
自らが生み出した竜巻は、そのまま風使いの男へと襲いかかり、その巨体を空高く舞い上がらせ、公園の池の中へと叩きつけた。
「……ディーン!」
光使いの女が絶叫し、その憎悪の全てを込めて、数百本という光の槍をジョシュアへと放った。
だが、それもまた同じだった。
光の槍は、ジョシュアに届く寸前で、その軌道を僅かに、しかし完璧に屈折させられ、全てあらぬ方向へと逸れていく。一本も、彼に当たることはない。
「……嘘……。私の光が、曲げられて……」
女が呆然としているその隙を、クロエは見逃さなかった。
「――あなたのお相手は、私よ」
クロエの姿が、その場から消えた。そして、次の瞬間には、光使いの女の背後に音もなく出現していた。
「――!?」
女が振り返るよりも、早く。クロエのしなやかな回し蹴りが女のうなじにクリーンヒットし、彼女は泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
残るは、リーダーの砂使い。
彼は、目の前で仲間が赤子の手をひねるように無力化された光景を見て、顔を青ざめさせていた。
「……お、のれ……!」
彼は、最後の手段に出た。
地面に両の手を突き刺し、ありったけの力を込める。
「この公園ごと、砂の地獄に沈めてやる!」
彼を中心に、地面が凄まじい勢いで砂と化し、巨大な流砂の渦が発生する。ジョシュアとクロエの足元も、急速に崩れ落ちていく。
だが。
二人は、落ちなかった。
ジョシュアの【絶対領域】が、彼らの足元を崩そうとする砂の落下ベクトルを完全に相殺し、彼らは、まるで透明な床の上に立っているかのように、空中数十メートルに静止していたのだ。
「……そ、そんな……。反則だろ、それ……」
砂使いの男が、呆然と空中の二人を見上げる。
その、無防備な頭上。
クロエは、にやりと笑った。
「――チェックメイト」
彼女は、空中で光の門を開いた。
そして、その門の向こう側から現れたのは、先ほど風使いが叩き込まれた公園の池の、大量の水だった。
「――なっ!? ぐうわああああああ!」
巨大な滝のように降り注ぐ、大量の水。
砂使いの男は、自らが作り出した流砂の渦の中で、自らが呼び寄せた水によって、あっけなく溺れ、沈んでいった。
戦闘は、終わった。
ジョシュアとクロエがこの戦場に現れてから、わずか4分12秒。
A級アルター二名、B級アルター一名。
その精鋭部隊が、二人組の手によって、完全に制圧された。
公園に、静寂が戻る。
やがて、物陰に隠れていた人々が、おそるおそるその顔を出し始めた。
そして、無傷で仁王立ちしているジョシュアとクロエの姿を認めると、次の瞬間、嵐のような歓声がシカゴの空に響き渡った。
「うおおおおおおお!」
「シールド・オブ・リバティだ!」
「ゲートキーパーもいるぞ!」
人々は、二人の名を叫び、この星条旗を背負う救世主たちの登場を、熱狂的に祝福した。
ジョシュアは、それまでの戦闘中のクールな表情から一転。
まるで親友に会ったかのような、人懐っこい完璧な笑顔を浮かべた。
「――やあ、みんな! 怪我はないかい!?」
その声に、群衆の熱狂は最高潮に達した。
彼は、歓声の中をゆっくりと歩き、人々を安心させるようにその肩を叩いて回る。
その道すがら。
「ミスター・レヴィン! サインを!」
一人の少年が、震える手で野球のボールを差し出す。
ジョシュアは、にこやかに頷くと、そのボールにサインをした。
「君の名前は?」
「……ティムです」
「よし、ティム。君も、強い男になるんだぞ」
その一連の、あまりにも完璧な英雄的パフォーマンス。
それを、腕を組みながら少し離れた場所で見ていたクロエは、ふっと息を吐いた。
彼女は、耳のインカムに触れる。
「こちら、ゲートキーパー。現場の制圧、完了。……はい。これより、DAAの後処理部隊、及び修復部隊の転送を開始します」
彼女は、テキパキと後始末の指示を飛ばし始めた。
そして、まだファンに囲まれているジョシュアに向かって、少し呆れたような、しかしどこか楽しげな声で叫んだ。
「――じゃ、私は修復部隊を運ぶから、キャプテン・アメリカはサイン会でもしてなさい!」
そのクロエの言葉に、ジョシュアは、大げさに肩をすくめてみせた。
「――ハイハイ、じゃ、よろしく! ……さあ、皆さん! サイン会の時間だよ!」
彼のその声に、群衆は再び割れんばかりの声援を送った。
光り輝く英雄と、その影となり彼を支えるクールな美女。
その完璧なコンビの姿は、まさしくアメリカ国民が渇望してやまない、理想のヒーロー像そのものだった。