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第41話 サンクチュアリ

 人類憲章の採択から、一ヶ月。

 世界は、見せかけの平穏を保っていた。だが、その水面下では、地殻プレートが軋むように、新たな戦争の予感が日増しにその圧力を高めていた。黒田率いる『人類憲章連合』は、「プロジェクト・プロメテウス」を推し進め、理性とヒューマニズムの物語を世界に浸透させようと必死だった。だが、それは来るべき津波の前に砂の城を築くような、あまりにも健気で、あまりにも無力な営みだったのかもしれない。

 その日、世界の全ての均衡は、永遠に、そして決定的に崩れ去った。


 震源地は、中央アジアの軍事独裁国家、『カオス同盟』の筆頭であるヴァルダニア共和国の首都、アスタナバード。

 国営放送を通じて、全世界に向けて、ヴァルダニア大統領グルバングリ・ラフモノフの、狂信的な熱に満ちた演説が配信された。その背後には、彼が「混沌の神使」と崇めるケイン・コールドウェルの姿が、まるで玉座に座す魔王のように、静かに控えている。


「――親愛なる、虐げられし全世界の同胞たちよ!」


 ラフモノフの演説が、始まった。その声は、拡声器を通してアスタナバードの中央広場を埋め尽くした何十万という熱狂的な民衆と、そして全世界のモニターの前にいる何十億という人々へと、同時に届けられた。


「聞くがいい! 我々が崇める偉大なる混沌の神は、我々に次なる神託をお与えくださった! 偽りの秩序にしがみつき、神の奇跡を拒絶した傲慢なる『人類憲章連合』! 彼らは、我々から希望を、未来を、そして神が与えたもうた無限の可能性を奪い去ろうとしている!」

「だが、我々はもはや沈黙しない! 我々は、もはや彼らの欺瞞に満ちた秩序の奴隷ではない! 本日、この日、この瞬間をもって、我々『カオス同盟』に加盟する全ての国家は、全世界の全てのアルターに対し、『聖域サンクチュアリ』となることを、ここに高らかに宣言する!」


 聖域サンクチュアリ

 その言葉が、世界に衝撃となって突き刺さった。


「その能力ちからが、いかに強力であろうと、いかに異質であろうと、我々はそれを神が与えたもうた聖なる才能として歓迎する! 過去の、いかなる罪も問わない! 国籍も、人種も、思想も、一切を問わない! ただ、自らの可能性を旧世界の偽りの秩序から解放したいと願う全ての同胞たちよ! 我が国へ、来たれ!」

「我々の元で、その力を存分に解放するがいい! 我々と共に、この腐りきった世界を一度無に帰し、真の平等と奇跡に満ちた新世界を築こうではないか!」


 それは、全世界の悪性アルター、そしてその力を恐れ、社会の片隅で息を潜めて生きてきた全ての異能者たちに向けた、悪魔の招待状だった。

 演説の最後に、これまで沈黙を守っていたケイン・コールドウェルが、ゆっくりと一歩前へと進み出た。彼は、マイクの前に立つと、ただ一言だけ、その聞く者の魂を直接揺さぶるような、カリスマに満ちた声で告げた。


「――時は来た。汝らの鎖を断ち切る時が」

「我が名は、ケイン・コールドウェル。汝らが新世界へと至る道を切り拓く者」

「そして、今日より私は、この偉大なる革命の『大元帥』の任を拝命した」


 その瞬間、アスタナバードの広場は、地鳴りのような熱狂的な歓声に包まれた。

 そして、その狂気は、ヴァルダニアという一国に留まらず、電波に乗って瞬く間に全世界へと伝播していった。

 怪物の饗宴が、始まろうとしていた。


 その宣言は、魔法の言葉だった。

 まるで堰を切ったかのように、世界中に潜伏していた、あるいは収監されていた危険なアルターたちが、一斉にその牙を剥き始めた。


 ドイツ、ベルリン郊外、シュタインフェルト最高警備刑務所。

 その鉄壁のはずの独房棟で、一人の女が静かに笑みを浮かべていた。彼女の名は、エヴァ・ブラウン。国際指名手配中の、変身能力者。通称、『ドッペルゲンガー』。彼女は、他人の姿形だけでなく、声、指紋、網膜、そしてごく浅い層の記憶までを完璧にコピーする能力を持つ。彼女は、その力で何人もの要人に成りすまし、ヨーロッパの金融市場を幾度となく大混乱に陥れてきた。

 彼女は、監房の壁にそっと手を触れた。そして、目を閉じる。彼女の脳裏に、数時間前にこの監房の警備にあたっていた屈強な看守、クラウスの姿が鮮明に浮かび上がる。

 次の瞬間、彼女の華奢な身体が、粘土のようにその形を変え始めた。身長が伸び、筋肉が隆起し、金色の髪は短く刈られた茶色へと変わっていく。ほんの十数秒後、そこに立っていたのは、もはやエヴァではなく、看守クラウスその人だった。

 彼女は、クラウスの声で、冷静にインターホンに向かって告げた。

「こちらセクター4のクラウス。囚人が心臓発-作を起こした。至急、医療班を!」

 数分後、慌てて駆けつけてきた医療班と他の看守たち。彼らが独房の扉を開けた瞬間、そこには既に囚人の姿はなかった。代わりに、彼らを待っていたのは、彼らの同僚の姿をした死神だった。

 その日の深夜、混乱の極みにあった刑務所から、一人の女性医師が何事もなかったかのように正面ゲートを通過していった。彼女は、車に乗り込むと、東へとそのハンドルを切った。目指すは、新たな「故郷」。ヴァルダニア。


 カンボジア、密林地帯。

 その村では、一人の男が「炎の悪魔」として、村人たちから畏怖されていた。彼の名は、ソカ。かつて、内戦で家族を皆殺しにされた元少年兵。そのあまりにも深い憎悪が、彼の内に眠っていたS級のパイロキネシス(発火能力)を覚醒させた。

 彼は、怒りに任せて、敵対する村を一夜にして焼き尽くした。以来、彼は自らの力を恐れ、誰とも関わることなく、ジャングルの奥深くでただ息を潜めて生きていた。

 その日、彼は闇ルートで手に入れた古い衛星スマートフォンで、ケイン・コールドウェルの演説を見ていた。

『汝らの鎖を断ち切る時が』。

 その言葉が、ソカの凍てついていた心に、炎を灯した。

 鎖。そうだ。俺は、ずっとこの忌まわしい力という名の鎖に縛られていた。

 だが、あの男は言った。その力を、解放しろと。その力が、許される世界があると。

 ソカの口元に、何年ぶりかの笑みが浮かんだ。それは、獣のような獰猛な笑みだった。

 彼は、立ち上がった。そして、空に向かってその両手を掲げる。

 彼の周囲の湿ったジャングルが、まるでガソリンを撒かれたかのように、一瞬で燃え上がった。天を衝く、巨大な火柱。それは、新たな世界への、彼の宣戦布告の狼煙だった。


 ブラジル、アマゾン川流域、非公式隔離地域。

 そこは、地図にも載っていない地獄だった。この地域で確認された、謎の風土病。それは、感染者の身体を内側から未知の菌類が蝕んでいくという、恐るべき病だった。ブラジル政府は、その病の異常な感染力を恐れ、この地域一帯を軍によって物理的に完全封鎖していた。

 だが、その病の本当の原因は、ウイルスでも細菌でもない。

 一人のアルターの、存在だった。

 彼の名は、ペドロ。通称、『疫病神プレイグ・ブリンガー』。彼の身体からは、常に、彼自身にも制御不能な特殊な胞子が放出されている。その胞子を吸い込んだ者は、例外なく、あの地獄の病に侵される。彼は、自らの存在そのものが歩く生物兵器であることを、呪い、絶望していた。

 その日、隔離地域の厳重な警備網を、数名の屈強な男たちが、いとも簡単に突破した。彼らは、ヴァルダニアの特殊工作員だった。

 彼らは、防護服に身を包み、隔離地域の中心でただ一人佇んでいたペドロの前に、膝まずいた。

「――お迎えに上がりました。ペドロ様」

「……俺に近づくな。死ぬぞ」

「我々は、死を恐れません。偉大なるケイン・コールドウェル大元帥は、おっしゃいました。『汝の呪いは、新世界においては祝福となる』と」

「……祝福……?」

「はい。あなたのその力は、我々の敵、偽りの秩序に支配された脆弱な国々を、内側から浄化するための神の息吹です。さあ、我々と共に参りましょう。あなたを真に必要としている、我らの聖域へ」

 ペドロは、何十年ぶりかに涙を流した。

 それは、絶望の涙ではなかった。

 自らの呪われた存在が、初めて誰かに「必要とされた」、その歓喜の涙だった。


 変身能力者、発火能力者、疫病能力者……。

 それだけではない。天候を操る者、人の精神を支配する者、物質を原子レベルで分解する者。

 これまで物語の中にしか存在しなかった神話級の「怪物」たちが、次々とその眠りから覚め、一つの旗の下へと集結し始めていた。

 世界のパワーバランスは、この僅か数日の間に、完全に崩壊した。


「……悪夢だ。これは、悪夢以外の何物でもない」

 日本の、超常事態対策室。

 高坂総理は、巨大モニターに映し出された最新の国際情勢の分析レポートを見て、呻くように言った。

 モニターには、全世界のS級、A級悪性アルターのリアルタイムの動向がマッピングされていた。この一週間で、そのおびただしい数の赤い光点が、まるで巨大な磁石に吸い寄せられるかのように、『カオス同盟』の国々へと流れ込んでいくのが、一目瞭然だった。

 黒田は、唇を噛み締め、無言でその光景を見つめていた。


「……現在までに、ヴァルダニア及びその同盟国に集結が確認されたA級以上の危険アルターの数……推定127名」

 佐伯が、震える声で報告する。

「その中には、かつての鬼頭丈二を遥かに凌駕するS級アルターが、少なくとも11名含まれていると見られます。……ベルリンの『ドッペルゲンガー』、カンボジアの『サラマンダー』、ブラジルの『疫病神』……。いずれも、一人で一国の軍隊を無力化、あるいは壊滅させうる、規格外の能力者です」

「……そして、それを束ねるのがケイン・コールドウェルか」

 高坂が、苦々しく呟いた。

「……はい。彼のスキル、【王権強奪・賦与】は、単なる戦闘能力ではありません。他のアルターの力を奪い、そして自らの下僕に力を分け与える……。彼は、いわばアルターを無限に生産可能な『女王蜂』です。彼に、これだけの強力な個体が集まってしまった以上、その戦力はもはや我々の想像を完全に超越しています」


 会議室は、死んだような沈黙に包まれた。

 誰もが、理解していた。

 もはや、これは「軍拡競争」などという、生易しいレベルの話ではない。

 完全に、一方的なゲームになってしまったのだと。

『人類憲章連合』側が保有するS級、SS級の戦力は、たったの二人。

 日本の、神崎勇気。

 そして、アメリカのジョシュア・レヴィン。

 たった二人で、百人を超える怪物の軍勢と、それを率いる魔王に、どう立ち向かえと言うのか。


「……神崎君の育成プログラムは、どうなっている」

 高坂が、絞り出すように尋ねた。

「……最終段階に、入っています。彼のスキルへの適応能力は、我々の想定を遥かに超えている。ですが……」

 黒田は、言葉を濁した。

「……ですが、彼はまだ子供です。彼が背負うには、あまりにも重すぎる。……彼を、この絶望的な戦場にたった一人で送り出すなど……私には……」

 黒田の、そのあまりにも人間的な葛藤。

 だが、その感傷を、無情なアラート音が断ち切った。

「緊急速報です! アフリカ中部のキラニ共和国より、緊急声明が!」


 モニターが、国連の緊急会見の映像に切り替わった。

 そこに映し出されたのは、キラニ共和国の大統領だった。彼は、数ヶ月前、国連総会で『人類憲章』の採決を「棄権」した、中立国のリーダーの一人だ。

 彼の顔は、青ざめていた。だが、その瞳には、奇妙な熱が宿っていた。

「……本日、我が国キラニ共和国は、国連を正式に脱退する。そして、『カオス同盟』への加盟を、ここに宣言する」

 その衝撃的な発言に、会議室がどよめいた。

 キラニ大統領は、続けた。

「……我が国は、この数年間、歴史的な大干ばつに苦しんできた。何十万という国民が餓え、渇き、命を落とした。我々は、国連に、人類憲章連合に、何度も助けを求めた。だが、彼らが我々に与えてくれたのは、雀の涙ほどの食糧支援と、役にも立たないお題目の言葉だけだった!」

「だが! カオス同盟は、違った! 昨日、我が国に、ヴァルダニアからの使節団が訪れた! そして、彼らが連れてきた一人のアルターが……」

 彼は、ごくりと喉を鳴らした。

「……彼が天に手をかざしただけで、この干上がった大地に、三年間一度も降らなかった慈雨が降り注いだのだ! 川は水を取り戻し、枯れた大地には緑が芽吹き始めた! これが、奇跡でなくて何だというのだ!」

「我々は、もはや偽りの秩序の綺麗事には付き合わん! 我々は、我々の国民を現実に救ってくれる真の『力』に、つく! それだけだ!」


 映像が、途切れた。

 黒田は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた。

 終わった。

 この一週間で、彼らが必死に築き上げてきた全てのものが、今、完全に崩れ去った。

「プロジェクト・プロメテウス」も、「人類憲章」も、全てが茶番だった。

 天から降る、一筋の雨。

 その圧倒的な「奇跡」の前では、人間の地道な努力など、何の意味もなさない。

 カオス同盟は、武力だけではない。人心を、国家を丸ごと、掌を返すように支配する、あまりにも強力な「外交カード」を手に入れてしまったのだ。

 これから、世界中の貧困や紛争に喘ぐ国々が、次々とカオス同盟へとなびいていくだろう。

 パワーバランスは、もはや崩れたというレベルではない。

 シーソーは、完全に片方へと振り切れてしまったのだ。


 日本の、安アパートの一室。

 空木零は、その一部始終を特等席で観測していた。

 彼は、腹を抱えて笑っていた。床を転げ回り、涙を流して、ただひたすらに笑い続けていた。


「はは……ははははは! 面白い! 面白すぎるじゃないか、これ!」


 彼のモニターには、ヴァルダニアの狂信的な演説、カンボジアの炎の悪魔の咆哮、そして絶望に沈む黒田たちの顔が、同時に映し出されている。

 最高の、エンターテインメント。

 彼がほんの少し背中を押してやっただけで、人間たちはここまで見事に、壮大な破滅の物語を演じてくれる。


「うんうん! これで、ようやく役者が揃ったって感じかな!」


 彼は、笑いすぎて痛む腹をさすりながら、新しいカップ焼きそばの封を開けた。

 片方は、百を超える神話級の怪物軍団。

 もう片方は、たった二人の、まだ戦い方すら知らない子供の英雄。

 あまりにも、絶望的な戦力差。


「これじゃあ、ちょっと一方的すぎて、すぐ終わっちゃうかなあ」


 彼は、お湯を注ぎながら、楽しそうに呟いた。


「黒田ちゃんたちが、可哀想だし……。そろそろ、スキル神のおじいちゃんにでも、もう一仕事してもらおうかな?」


 神は、考える。

 この最高の舞台で、次にどんな悪趣味な脚本を描いてやろうかと。

 彼の退屈しのぎは、まだまだ終わらない。

 世界の本当の地獄は、まだその序章にすら入っていなかったのだから。



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